概要


著   多木浩二
初出  
価格  
出版社

Text by 浜田


(081108 LOG)
副題にもあるように、家に関する経験と家がもつ象徴について論じられた著である。
ちょうど私が生まれた1984年に出版されたもので、「生きられる」などの言い回しは、ボルノウの「体験されている空間」(1963年)や、シュルツの「実存的空間」(1971)という現象学的な概念に通じるものがある。
空間を人間との経験との関係で考えるようになったこと、つまり人と空間との相互作用論の萌芽の時期であったといえる。

「生きられた」は受動態であり、
「A氏によって生きられた家」
という表現が可能であろう。
生きられた家は、ある人間によって生きられた空間と時間を示す記号群であり、それは全て異なっていく。
すなわち、家を理解することは、その人間を理解することにつながるのである。
住み手の無意識によってこれらの記号群は構成されていき、隠喩としての家になっていく。

空間について

「生きられた家を眺めていると、その中心に『出来事』(人間の行為)が浮かびあがり、たえずあらわれては消える『物』の振舞がこの出来事と関係をもち、しかもそれらのための『場(トポス)』だけが連鎖をなして見えてくる」
しぐさ、所作(使用)があらわれる出来事から空間が生じる。
空間と物の結びつきは一時的な現象であり、個々の道具があらわれると、住み道具としての部屋があらわれる。

「日本人は部屋の中央を使い、西洋人は周辺に家具を配置する」(T・E・ホール)

伝統的な日本の部屋の機能は限定されておらず、使用者の振舞や物の「布置」によって空間の性質が決定される。
「ひとへやの森」(成瀬・猪熊建築設計事務所)では、生きられた家のような、時間と経験を感じさせるような空間が、時間と経験を超えて実現されている。


ひとへやの森



http://www.narukuma.com/works/able/04.htmlより引用)

ジャン・ボードリヤールは『物の体系』で、近代デザインの犯した錯誤のひとつとして、どんなにデザインされた物であっても、人間によって生きられるときに生じる記号的変貌と、それにより生まれた新たな記号によって人々は生きるということを推測しえなかったことにあると述べている。
さらに物には機能だけでなく社会性があることを理解しなかったという。
必要性だけでなく、欲望にもとづく象徴的交換が社会の構造としてあるということである。

時間について

「sayama flat」(スキーマ建築計画)は、築30年程度の社宅を賃貸マンションにリノベーションしたものである。
「どれも今までであれば真っ先に解体撤去されるものしかない中、取捨選択をしているうちに目がおかしくなってきたのか、徐々に襖や障子、年代物のキッチンコンロ、はがされた壁紙跡、しまいにはボード下に隠されていた、チョークの計算式までもが、我々にとっていとおしい存在になり」
と、スキーマ建築計画の長坂氏はsayama flatについて述べている。


sayama flat




http://www.sschemata.com/works/archives/01/972030_...より引用

長坂氏は、生きられた空間に残された痕跡を愛せずにはいられなかった。
痕跡は経験と時間とを内包した記号であり、それを解読し想像することを要請した。
かつての住み手がこの部屋について語るよりも、形象化した痕跡群、すなわちエクリチュールは饒舌に我々に語りかけるだろう。


建築家が新築した建築は、物理的秩序によって全体性が担保されている。
しかし、生きられる空間は、物理的秩序が経年によって崩れていても、経験された秩序によって全体性が担保されている。
そこには、計画と経験にずれが生じている。
このずれを許容できるような空間が、豊かな空間や新しい空間を生むのではないだろうか。





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