概要


著   磯崎新、多木浩二、武満徹、勅使河原宏、篠山紀信、K・フランプトン、R・マイヤー
初出  1985-02
価格  ¥ 2,730(税込)
出版社 

Text by 中島弘陽


場所は新宿のジュンク堂のカフェ、総時間は6時間ほど。参加者はボクと首都大の彼の二人のみ。第二回は少なくとももう一人増える予定です。

取り上げた本はポストモダンの時代と建築。多木浩二さんと磯崎新さんの対談「レイト・モダンの状況」「ポスト・モダンの状況」の章を中心に。このふたつは本の最初と最後の章で、もうちょっと多くの章を読みたかったというのは正直なところ。課題ですね。

ポストモダンは近代建築の始祖たるモダニズム期と現代のポスト・ポストモダンを架橋するメルクマールでありながら、(少なくともその勃興期においては)建築以外の多くの分野・事象が絡まり合った現象なので実態が掴み辛かった。そういう意味で、ヴェンチューリやシュルツを読むより始めに、この時代を包括的に語ってくれる本書を読むのは意味がありました。



ポストモダンとはいったいどのような現象だったのか。

対談で言及されていたのは、ともかくモダニズム建築の隆盛が極まったあと、その問題点が(議論自体はそれ以前にもありましたが)テキストとして上がりはじめたのが60年代、そして出てきたテキストに沿った形で建築が展開され始めたのが70年代ということです。

60年代では未だギーディオンが「時間・空間・建築」で言及したところの「〜でなければならぬ」といった倫理的な基準で裁断された建築、また、テクノロジーを含めた意味内容の直接的表現の影響下にあった建築、つまるところの「近代建築」のイデオロギーに引っ張られていたのが、70年代からはテクノロジー本意の結果としての「物」たる建築が、所有対象として認識され始め、その記号的側面がフォーカスされてその消費が始まったという大きな変化があったそうです。

後半はポストモダン期のフランスの記号学者のロラン・バルトが言っていることで、「コンクリート・鉄・ガラス」という新しい普遍的材料の使用とグリッドシステム、また工業化の発達の上に可能になった新しい構造形式の視覚的表現と機能の一致などといった、所謂モダニズムの必要条件である構造主義、機能主義的側面そのものが対象化され始めた。同時に、レイナー・バンハムが指摘するように、モダニズム期にあった「形式性」が機能主義を超えて、建築概念上の上位構造へ遷移してきたという変化があったと。

そこに、戦後に世界的に起こっていた、硬化しつつあった社会制度に対する批判が重なって、「消費を目的とした流通する仕組みとしてデザインが扱われていること」自体への不満が台頭し始めた。


また、東さんは社会の変革によって、作り手の意識、主体性の変化が大きな要因であることを指摘しています。ゆるぎない絶対の統一体であったはずの「主体」が解体され、非中心化し、分散された主体が70年前後から問題になってきたと。この頃はパブロフの犬等が立証された時期で、主体ー身体と意識ーはアンビバレントな状態になりうるという意識的変化のことなどを指していると思われ、感覚的にはわかる話です。



要はポストモダン期は、近代建築批判は60年代終わりの政治的状況の中で、倫理的な批判が重なり、肉体のユートピアと同時に主体の解体ということが行われ、モダニズム期のイデオロギーに準拠した価値体系からどう脱却するのかが問われていたわけです。


そこで問題となったのが、こういう状況、既存の価値体系を批評しようとしたときに、その批評作業は批評対象と同じ土俵、フィールドでしかなしえないというパラドックスが建築家を苦しめだしたことです。

ジュフロアやムカジョフスキーがその論文で、当時の近代芸術を組み立てている制度が許容しえない表現形式を生み出すことで既存の芸術の文脈を破壊しようとしたように、建築家もモダニズムに対する批評を行うには突き詰めると建築を作れなくなっていくという状態になってしまった。ちょうどアーキグラムやグラハム・スティーブンスなどのアンビルト系の都市理論や建築プロジェクトを提唱する建築家が増えたのもこの頃でしたが、もちろんそれはある種の末期症状だったわけです。60年代を超えて、70年代はそういう閉塞状況をどう切り抜ければよいかという試行錯誤の時代だったと。

Text by 浜田晶則(1)



今回は、多木浩二との対談を中心に読んだ。


第一節の「レイト・モダンの状況―1976」について

磯崎個人としては、レイトモダンを70年代、80年代をポストモダンとしている。
ここでまず磯崎は1968年という時点を持ち出している。
この年が建築の世界ではエポックメイキングであるという。


五月革命の影響(contestation)による「第14回ミラノトリエンナーレ」の会場占拠を直接的に体験している磯崎は、まずこのことを例に挙げた。中国の文化大革命、日本の全共闘運動にも見られる文化の制度批判が多くみられた年代がこの頃であり、顕著に近代建築への根底的な批判などの思考上の変化があらわれてきた年代でもあった。

これまでの建築表現では、建築の意味内容のストレートな視覚化が建築の表現であった。

例えば、モダニズム建築の代表作品である「サヴォア邸」(1928年)では、柱というものの意味が明確に伝わる。それは建築を地上から浮かせるためのものであり、構造として支えるものであると同時に、柱の細さによって「軽さ」を視覚化させるものである。



図1 サヴォア邸

(画像引用 http//fotografia.web.infoseek.co.jp/savoye/photo.htm)

しかし、ポストモダンの建築では、そのような明確な意味の視覚化を批判した。例えばP.アイゼンマンの「住宅一号」(1968年)では、まず壁面を「抽象的で色が無い」というものとして「白色」を捉えている。つまり意味の無いものとして白色を使用している。白い角柱、ステンレスの丸柱、梁・桁は構造としての支持機能を持っていない。これらは、ただ視覚的要素としてのみ存在している。「住宅一号」にはポストモダンの本質ともいえる「二重のコード化」、「折衷主義(eclectic)」、「混成的(hybrid)」な建築言語が読み取れる。


図2 住宅一号

多木浩二はアイゼンマンを「一切の文化的なリファレンスをもたないものを求めている」「建築のアーキタイプをつくりだそう」としていると述べている。

つまり建築の建築性をもとめることになるが、建築的ではない要素を用いて視覚的に構成することによって、深層構造から表層構造への転換をはかっている。アイゼンマンの統語論的な建築は、その成立・発生を要素、要素と人間の知覚/行動の関係として捉えることができる。

建築における隠喩ということに関して、多木は政治的な挑発性の発見を指摘している。バーナード・チュミの考え方は、建築からその挑発性だけを様々な形でとりだす。例えば、幾何学を人間を縛りつける結び目のようなものとして、そこからマゾヒスティックな快楽をとりだしている。

チュミに関して、磯崎は彼の仕事を非合理的合理主義と評している。文学的な隠喩や演劇などを含めて意識的に操作をしている。その隠喩の取り出し方が非合理的であるといえるが、その操作の仕方が論理的かつ合理的であるということであろう。

チュミは、「建築というものはあくまで快楽に結びつかなければならない、あるいはそこから仮面をはがし、物にかくれた世界をつぎつぎにひきだす作業そのものが快楽でなければならない」と述べている。
これもモダニズム建築に対する批判であろう。禁欲的なモダニズム建築からの転換としての快楽を満たす建築をチュミはめざした。

多少話がそれるが、「快楽主義」は、人間の欲求(マズローの5段階説を参考)に率直である。そのために、負の面が強調されやすい。
例えば、現代の地球環境問題は快楽主義の結果(フロイトの快楽原則)とも言うことができる。
社会的に生きる事と快楽の欲望は個人の中では対立する。
しかし全人類から見れば人間の種の保存と快楽(性などの欲望)は 人類の生存を目指す欲動として1つにまとめて考えられる。 この生の欲動がエロスである。
つまり性と生の2つの欲望を統合した生命力がエロスであり、 この対立する欲動が人を動かす本能といえる。


図3 マズローの欲求段階説

そのように考えると、現代の地球環境問題は緊急的であるにも関わらず、人類は目先の快楽欲求に捉われて近視眼的なものの見方になっている。
快楽原則を利用した快楽主義の有効な活用方法は、一つにはいかに近視眼的なものの見方を解放するか、もう一つはいかに目に見えやすい快楽を新たに提示していくかが鍵になる。

つまり、人々が自動的に判別(discriminance)している快楽の基準を変革することによってのみ、快楽主義が社会的に認められ、有効活用できるだろう。

「形態と機能の断絶こそが現実的な建築や都市のありようである」というチュミの宣言は、機能を重要視したことによって削られてきた認識と快楽との合一であるエロスを、形態と機能を断絶させることによって建築的エロティシズムとして自由に解放したといえる。

モダニズムからポストモダニズムへの転換の際に、「自由な快楽」というアンチテーゼが打ち出されたといえる。

Text by 浜田晶則(2)


この本の最後の節となる、
「ポストモダンの時代と状況ー1984」について

1984年。僕が生まれた年でもあるこの年には、既に時代が「ポストモダン」であることが認知されてきていた。

対談で多木は、最初に「軽い建築」についての議論を提示した。
「軽い」という言葉の解釈であるが、建築が構造的に軽いということは素直な受け取り方である。

また多木は大作品めいたものではない建築というものを、軽いという呼び方で言い表しているのではないかと推測している。

このことは、建築のもつ意味として軽いということもできるだろう。

例えば建築を要素に分解して、柱の持つ意味、壁の持つ意味、屋根の持つ意味などを軽くする。これは形態を操作する上では、抽象化するということにつながるのかもしれない。

ここで思い浮かぶのは、伊東豊雄の「シルバーハット」(1984)である。

(参考)
日本の現代住宅〈1985‐2005〉
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2005-12


この住宅は軽い建築の代表的なものだろう。

建材に着目すると、鉄筋コンクリートの柱を除いて、躯体は既製品で構成されているという。

屋根の形態を見ても、視覚的な軽さを象徴するようである。
部屋や中庭の大気が屋根を押し上げてできたようなヴォールト屋根。

さらにこの屋根は、大小7つの相似形として反復する。

そこでこの建築。


建築の意味として軽いかどうか。



ギャラリー・間20周年記念「21世紀の住宅論」講演会にちょうど僕も参加したが、そこで伊東は、

「自邸であるシルバーハットに招いても、一緒に見学した中野本町の家のことばかりが話題になる」

と述べていた。



さらにWikipediaによると、郵便配達の人にシルバーハットを犬の調教場だと思われていたというエピソードを伊東本人が語っていたという。

つまり、同年代の建築家の印象としても、世間一般の大衆としての郵便配達員の印象としても、




大作品めいたものではない建築



なのではないだろうか。

その軽さは、図2の航空写真を見てもわかる。
なぜ伊東がシルバーハットを都市グリッドから若干の角度で傾けたのかは知らないが、
中野本町の家に押されている(飛ばされている)かのような印象を受ける。

ジョークではないが、ハット(hutではなくhat)が風で飛ばされたかのように。

違う見方でいえば、集合写真を撮るときに、一人だけ視線をそらしていたり、体を別の方向に向けているかのような軽さも感じられる。

つまりこれは、都市に対する態度の軽さともいえるだろうか。

誤解を生みそうであるが、この「態度の軽さ」というのは、思想のない軽卒な態度を指すものでもなく、結果的に軽く見えることを指している。

それはつまり、集合写真においてただ格好つけて視線をそらすのではなく、集合写真をみんなが同じ格好でカメラのレンズを凝視し、微笑みを含んだ表情でパチりと写真におさめられる状況に対する批判的結果を指す。

建築でいえば、その批判的結果がこのシルバーハットの配置と考えられる。

伊東は84年「風の建築をめざして」(『建築文化』1985年1月号)のなかで、

『生きられた家』(多木浩二)における「<つくる>行為と<生きる> 行為との亀裂」という多木の指摘に言及し、「建築家は作る行為において家を対象化し、そこから『建築性』を引き出している」とし、「この建築性という枠組 みをはずさない限り住まい手と建築家の亀裂は埋まらない」と主張した。

(参考)
生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2001-02
READINGS〈3〉現代住居コンセプション―117のキーワード (10+1 Series)
価格:¥ 2,310(税込)
発売日:2005-10
「中野本町の家」(1976年)を振り返って見てみると、クライアントの違い(有無)もあろうが、8年の間にこんなにも形態に違いがあらわれている。


古代遺跡かと思うような佇まいを見せ、都市に厳格に対峙するような配置と自閉の仕方である。

「中野本町の家」は、純粋にクライアント中心主義的なつくり方をしたのではないかと思う。

夫の死の体験を通して、「生きる」ということは何か?と問うてきたクライアントの後藤暢子。
外界から自閉したいという潜在的欲求を、実弟である伊東が感じ取ったことは容易に想像できる。

20年後にこの住宅は取り壊されることになったが、それは宿命的であった。
この住宅はあまりにもその当時のクライアントの欲求を反映しすぎたのではなかったか。
当時の精神状態を真空パックしたかのようにこの住宅はさまざまな記憶を充填した。



新たな人生を踏み出すにはあまりに重かった。

この重さはまさにモダニズムの残した幻の遺跡である。

その隣で「自分は自由で過去に縛られない」とでも歌っているかのように、

シルバーハットは軽く存在する。

(参考)
中野本町の家 (住まい学大系)
価格:¥ 2,415(税込)
発売日:1998-01

この二つの住宅の8年間に、ポストモダンの転換期が潜んでいたことは間違いないであろう。
『ポスト・モダンの時代と建築』における、第一節の1976と最終節の1984という年号が、奇妙に二つの住宅の竣工年と一致する(本書ではこの二つの住宅については全く触れていない)ことも、この二つの住宅のもつ歴史的重要性を暗に示している。

Text by 浜田晶則(3)


建築と記号論

多木は、ポストモダンとポストモダニズムとを仮に分けている。
前者を認識の問題、後者を表現上の問題として。

これによるとモダンは19世紀の資本主義以降を指して言うと思われるが、何をもって変化の特性と考えるべきか。

これに対して多木は、モダンはリアリズムの世界で、ポストモダンというのは記号の世界と分けている。

つまり「実体的な世界があるというふうに考えられていた時代、主体と客体とを欲望が結ぶという点からすべてを説明しようとしていた時代」がモダンである。

それに対して、「記号の構成するものから欲望が見出され、主体や客体などに重要性がなくなったという認識の違いが生まれた時代」がポストモダンである。

リアリズムに対する認識の反転が生じた時代としてポストモダンを認識することができる。

ダイアナ・アグレストとマリオ・ガンデルソナスの論文に




architecture(実際には×で消している)


というものがあり、


Architecture


というひとつの作業を指示している。

社会的な規範の中でできあがってくる建築物を自分たちは「建築」と考えているのではないかという表現が "architecture" にあたり、それに「×」をつけている。

彼女たちにとっての「建築」とは、

具体的な要素のかたちがどうであるかよりも、それらの集合、機会状の組み合わせ、建築をそこで構成されるものと考える実践

であるとし、それを "Architecture" とした。


ヴェンチューリについて

60年代の建築の話になり、ヴェンチューリが話題になる。
ヴェンチューリについては、次回の"ARCHLIVE"で「建築の多様性と対立性」を取り上げるので、ここでは多くを言及しない。

しかし、ここで注目するべき点は、ヴェンチューリがコミュニケーションにおける記号としての建築というのを、一つの前提に置くという視野の転換をしていったという点である。
また、ポップ的文化を取り入れていった点であり、建築と現代美術のコンテクストを近づけた点である。

ポピュリズムが触発された本の一つに「建築の多様性と対立性」をケネス・フランプトンは挙げている。
大衆社会という避けがたい社会状況と建築との関係について再編成するという作業。
次回はこのことについても考えてみたい。


無批判と自然主義の放棄

ポストモダンという時期について認識されるようになってきた頃、批判ということが少なくなってきたという。



関係ない。


ということである。

社会のなかで、何らかの機能を果たす、役割を果たす、人々に何かを伝達するという次元から建築を考える建築家は多い。

そうではなく、以上のような考え方とは異質になるような作業から問題にするという立場をはっきりさせた。
ラディカリストとの考え方の違いが、イデオロギーの中性化や、主体―対象という関係でなく欲望の活動を発生させることになる。

しかし、建築をつくっていく過程において(文学などの公共性をもつ創造行為は全てそうであるが)、検閲の機構の存在は決して無視できない。
特に自然主義がないような、人が住めないようなものであると、この検閲の機構にひっかかる。

つまり、実際につくることができず、ドローイングや模型のみで終わってしまう。

それは建築といえるのか。

建築は建てられねばならない。

このような二重拘束(ダブルバインド)状態に苦しんだ建築家の一人、アルド・ロッシは結局墓地をつくった。
とはいえ、この墓地は広大な面積であるにも関わらず墓石の数が少ないため、まだ完成していないという。

サンカタルドの墓地


参考URL
http://www.significantcemeteries.net/significant/m...

この墓地をつくるという行為。

これは検閲の機構を逆利用しているというが、まさに墓地であるからこそ、自然主義がなくても生命の息吹が感じられない建築表現を妥協無しで過剰にできた。



ポストモダンとスキゾ

ポストモダンを感じる仕事は分裂症的であると磯崎はいう。
さらに分裂症的であるがゆえに折衷主義でもあるという。
このようなものを分裂症的折衷主義と呼んでいる。

磯崎が分裂症について正確な理解を持っているかどうかはわからない。
しかしここでは、統合失調症の破瓜形(ICD-10分類による)に見られる、思考や行動に一貫性がないという特徴を指していると思われる。

ここでは、スキゾフレニック(分裂症的)や、パラノイアック(偏執病、悪化すると妄想性人格障害)という用語が使われている。
これは浅田彰の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』で用いられた「スキゾ・パラノ」(第一回新語・流行語大賞受賞)の影響もあるだろう。

しかし、ここで磯崎が用いているスキゾの意味を多木は次のように解説している。

「病的なことをいっているのではなくて、欲望を無限の組み合わせの中に見る、欲望があって何かで充足させるというより、一見とりとめもなき、決して線型になりえない、どちらかというと、カタストロフィ理論(不連続な質的変動;例えば犬が強い敵に出くわしたときに見せる逃走と攻撃の不連続な変動のこと)における力の場のようなものをさしている」


参考URL 「心の中のカタストロフィ」
http://www.kit-rg.jp/rg2005/rep2005/rep5.html


目的を持たないランダムな記号の生産

がポストモダンの特徴の一つであるということができる。


ポストモダンとメディア

「写真そのものが表現であるというよりは、あらゆる表現の根底に写真が宿り始めた時代、そのことがはっきり表面にあらわれて認識されるようになってきたのが、モダンに対するポストモダン」

写真家でもある多木らしいポストモダンの定義である。

モダンでは、写真の前に事件があった。
事件を報道するために写真という手段があった。

しかし、ポストモダンやそれ以降では、事件の前に写真というメディア媒体がある。
メディアが擬似事件をつくるという反転が生じた。

ポストモダン以降は、

事件の前にメディアがあった。



参考URL

http://www.life.com/Life/

http://wtcphotos.googlepages.com/index.htm




ポストモダンと超越

多木は超越の問題を提起し、超越とは

ダブルバインド状態を消していくこと

だと定義している。

このダブルバインドと超越についての具体例として、#2でも取り上げた「中野本町の家」を挙げたい。

ダブルバインドの要素として、

1. 感情の表出によるカタルシス効果としての家づくり

2. 真空パックのように記憶を内蔵する(家自体にその機能はあるが、それを促進するデザインでもあった)家において、過去に捉われながら住むこと

まず、1. は家をつくる段階であったので、2. のことについては予期できなかった。
そして2. について過去にとらわれ、前に進むという行為を家が引き留めた。

竣工20年後にこの家は取り壊された。

これが超越の一つである

消去

である。

消去の例はいくらでもあるだろうが、対談で二人は三島事件を挙げている。

三島由紀夫がどのようなダブルバインドに苦しんでいたかはわからないが、とにかく超越したがっていたということは理解できる。

英雄や伝説への願望や、老いへの逃避、さらに天皇の問題や自衛隊の名誉回復など諸々が引き金となって事件は起こった。

ダブルバインド状態からの救済の方法としては、集団的超越がある。
集団的超越の例としては、ファシズムや新興宗教がある。

このような集団それ自体をみると、画一的である。
このような集団によって多くが構成されているとすれば、

多様であるようにみえて画一的な世界。

これがポストモダンが認識されるようになってからの特質であるかもしれない。

ポストモダンの次に起こったポスト・ポストモダン。

僕たちが今生きているこの時代について、歴史的な視点をもって考えていきたい。



引用文献



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h9CMv3 A big thank you for your article post.Really looking forward to read more. Really Cool.

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Posted by check it out 2014年01月21日(火) 00:53:57 返信

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