参加人数4名(理科大のKOYO、首都大H君、早稲田大のE君、東大のY君)
●言説
本書で選んだ事例は、私(ヴェンチューリ)の偏愛を反映している。マニエリスム、バロック、ロココなど。
60年代初期には、建築の思想において、形態は至高の物であり、大部分の建築理論は当然のごとく、形態の問題を扱っていた
●引用
「(実務を伴った批評は)創作行為それ自身のとって非常に必要である。実際のところ、変換、結合、組み立て、消去、修正、検査といった仕事の大部分、その恐るべき労苦は、創造行為であると共に批評行為であると言えるように思われる。巧緻で習熟した作家が自らの作品を対象としてなした批評ほど、生命観にあふれ、高度なものはないとさえ、私は考えている」
by T・S・エリオット
「今の余にあって、相違なるものばかりを追いかけ、結局のところ、相違ならないもの、即ち本質的には同じようなものに対しては関心を寄せなくなってしまっている」
by アルド・ファン・アイク
「常に過去の再吟味が必要だ。ほとんどの場合、建築家は建築の歴史に対して一般的な興味を抱いている。けれども、その時々において、精密な中止に値すると思われる歴史の側面、あるいは時期は、変わりゆく感受性と共に変化するのもまた事実である」
by ヒッチコック
「混沌とした現実の上に夢のような物語(を描き出す)」
by 丹下建三
●言説
「私は建築における多様性と対立性とを好む。(中略)絵画風(ピクチャレスクネス)や表現主義の質面倒な複雑さを好まない(中略)価値ある建築は、いろいろな意味のレベルや、視点の組み合わせを喚起する。その空間や要素は、様々な読まれ方、働き方が同時に可能なのである。しかし、多様性と対立性を備えた建築は、断片的な関心の範囲にとどまってしまわずに、常に全体に対する見通しを持つという特別な責務がある。それが真実性を持つのは、それ自身全体を有している、もしくは全体性を内に含んでいるからに他ならない。」
第2回目は、『建築をめざして』以来の名著とされている、
建築の多様性と対立性 (SD選書 (174))
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:1982-01
(R.ヴェンチューリ著)であった。
ヴェンチューリはこの本を批評家としてではなく、建築家として執筆していると最初に述べている。
批評家は、つくらない。
しかし建築家は、つくらなければならない。
つくることと、批評をすることのアンビバレントな位置に立つということは、容易ならぬことである。
T.S.エリオットが「巧緻で習熟した作家が自らの作品を対象としてなした批評ほど、生命感に溢れ、高度なものはない」と述べたところを著者は序文に引用し、批評行為の難しさと意義を弁明している。
要素に分解することで、建築の分析を著者は行った。
歴史や昔の建築を再考察し新たな視点を発見するということは、目的ではなく手段である。
そのことによって当時の現代における新しい価値や建築をつくるという目的が、根底にあった。
単純性と多様性
ミースの「レス・イズ・モア」は、建築家が意図的に解決するべき問題を限定するという意味も含んでいる。
しかしこれに対して著者は、「いかにして課題を解決するかを決定するのに腐心せねばならない」とする。
解決できない課題があったらそれをそのまま表現してもよい。
排除ではなく、受容の建築。
そこに断片、対立性、即興、それらの緊張状態がなどを取り込む余地があるという。
ゆきすぎた単純化は味気のない建築となる。
いわゆる「レス・イズ・ボア」である。
すなわちノンエロティックな建築である。
さらに著者は、精神に満足感を与える美学的な単純性は内面的な多様性から派生するものだと述べている。
多様性を含んでいるが故の単純性。
このような意味上の対立性が美学的なエロティシズムを見るものに与えているのであろう。
しかし、単にそうしたいからという欲求を満たすための方策としての多様性ではなく、建築全体のプログラムと構造を勘案した多様性を、著者はアアルトのイマトラの教会を例にして示している。
建築における最終目標が多様化しているということ。
機能に関する課題が多様化してきていること。
学校建築を例にして以上のことに関して考えると、かつて学校建築の最終目標とは教室に児童を収容することであった。
そこから、教育理念の変化と共に学校建築の最終目標は、教育の柔軟性を許容すること、児童の知的関心やアクティビティを促すことなどへと変化した。
図1 打瀬小学校(★1)
建築における単純性は、関心やアクティビティを促すことに関して限定的に強化することができるが、過剰な単純性は関心を生まない。
それはつまらない建築になる。
建築における意味の多様性が保証されることによって、知的関心やアクティビティの多様性は生まれる。
曖昧と単純性
しかしながら、詩歌で用いられるような「複数の解釈」や「曖昧」というレトリックは、単純性によって生まれる。
「雨が降ってきた」
上例は雨が降ってきたことを伝える、最も抽象的であると考えられる文である。
ここに「複数の解釈」や「曖昧」というレトリックは見出すことも可能であるが、それは大きく読み手の想像力に委ねられることになる。
「冷たい雨が降ってきた」
上例では、「冷たい」という曖昧な形容詞である修飾がついたことによって、読み手の想像の助けになっている。
修飾語が想像のブースターとなり、例えばこの文からは
晩秋の夕刻、外で人を待っていたとき、だんだんと寒くなってきた空気によって冷やされた雨が降ってきた。
というような情景を想像することもできる。
つまり極限まで抽象化、単純化されたものは、「つまらないもの」になる可能性が高い。
「雨が降ってきた」
と描くことは物書きにとっては難しい。
しかしそれは美しい単純性を示すことができる。
それが読者の想像力を掻きたてるか否かは、文脈によるであろうが、天才のなせる業であろう。
単純化、抽象化の著しい実例
図2 フィリップジョンソンの「ガラスの家」(★2)
図3 ±0の加湿器(★3)
曖昧な関係を表現する接続詞として
"or?" (「それとも?」)
を著者は示している。
曖昧さは緊張をもたらす。
「大きすぎるのか、それとも小さすぎるのか」という曖昧さは、実際は「大きすぎず小さすぎない」という逆説でもある。
そこに生じるものが緊張状態なのであろう。
対立性の諸相を表現する接続詞として
"yet" (「にもかかわらず」)
を著者は示し、これを逆説的対比と呼んでいる。
サヴォア邸は、外側が単純であるにもかかわらず、内側は複雑である。
著者は単純と複雑の両者共存("both and" 「でありしかも」)という複雑な統一を目指しており、二者択一("either or" 「もしくは」)という単純な統一と対比させている。
両者共存の現象に特有の二重の意味づけ(ダブルミーニング)は対立性とともにメタモロフォーシスをも含む。
つまり同一空間であっても、状況によって空間のヒエラルキーや意味が移行し変化するということである。
それはやはり意味の多様性であり、曖昧さと緊張の状態であるだろう。
現代建築の方法である、機能の分割。
そしてそれを連結させるという方法より、著者は異なる機能の共存を求める。
このような特質をもつ部屋としては、日本の座敷を連想させられた。
冠婚葬祭に用いられ、客人の接待や寝室にも変化する。
特定の機能に特化した部屋ではなく、あらゆる機能に応える部屋である。
それはまるで顔がない人のような常態からのメタモルフォーゼである。
あらゆる顔をもつ座敷。
単純性をもちながら多様性を包含する。
それは受容であり、
「とともに」
という修辞である。
これはラショナリズムへの反発であった。
ピュアで新しいものを求めてきた現代建築へのアンチテーゼとして
「俗っぽさと混乱とを抱え込んだ昔ながらのもの(クリシェ)が、依然として新しい建築の重要なコンテクストである」
「建築家にとって創造することと選択することに軽重はない」
このように断言する著者はやはりポストモダンを代表する建築家の一人であろう。
これからの建築について
現代建築初期を工業的表現主義とし、これから電気的表現主義を装わねばならないと著者は考えていた。
この流れからいくと、我々は情報的表現主義を装う必要があるのではないだろうか。
都市景観にあらわれる安っぽさ、ポピュリズムは、転換されねばならない。
これまでは建築における意味の消去が徹底しておこなわれてきた。
そしてそれは現代の建築家において思考の怠惰を生むことにもなりかねない。
情報社会はメッセージが氾濫し、また氾濫しやすい状況にある。
建築家は情報社会において建築を、情報技術を前提にプロパガンダとしてつくる必要があるのではないだろうか。
それは意味深いものであり、かつ表面的にも分かり易いキャッチーなものでなくてはならない。
実際的な広告なしの、擬似広告的な建築が都市に点在する。
建築がわれわれに語りかけてくる建築。
そんな建築について考えていきたい。
<参考文献/URL>
★1 「打瀬小学校」画像引用
http://www.e-asu.com/kouritu/index2.html
★2 「ガラスの家」画像引用
http://ks530.blog11.fc2.com/blog-entry-49.html
★3 「±0 加湿器」画像引用
http://www.plusminuszero.jp/
建築の多様性と対立性 (SD選書 (174))
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:1982-01
(R.ヴェンチューリ著)であった。
ヴェンチューリはこの本を批評家としてではなく、建築家として執筆していると最初に述べている。
批評家は、つくらない。
しかし建築家は、つくらなければならない。
つくることと、批評をすることのアンビバレントな位置に立つということは、容易ならぬことである。
T.S.エリオットが「巧緻で習熟した作家が自らの作品を対象としてなした批評ほど、生命感に溢れ、高度なものはない」と述べたところを著者は序文に引用し、批評行為の難しさと意義を弁明している。
要素に分解することで、建築の分析を著者は行った。
歴史や昔の建築を再考察し新たな視点を発見するということは、目的ではなく手段である。
そのことによって当時の現代における新しい価値や建築をつくるという目的が、根底にあった。
単純性と多様性
ミースの「レス・イズ・モア」は、建築家が意図的に解決するべき問題を限定するという意味も含んでいる。
しかしこれに対して著者は、「いかにして課題を解決するかを決定するのに腐心せねばならない」とする。
解決できない課題があったらそれをそのまま表現してもよい。
排除ではなく、受容の建築。
そこに断片、対立性、即興、それらの緊張状態がなどを取り込む余地があるという。
ゆきすぎた単純化は味気のない建築となる。
いわゆる「レス・イズ・ボア」である。
すなわちノンエロティックな建築である。
さらに著者は、精神に満足感を与える美学的な単純性は内面的な多様性から派生するものだと述べている。
多様性を含んでいるが故の単純性。
このような意味上の対立性が美学的なエロティシズムを見るものに与えているのであろう。
しかし、単にそうしたいからという欲求を満たすための方策としての多様性ではなく、建築全体のプログラムと構造を勘案した多様性を、著者はアアルトのイマトラの教会を例にして示している。
建築における最終目標が多様化しているということ。
機能に関する課題が多様化してきていること。
学校建築を例にして以上のことに関して考えると、かつて学校建築の最終目標とは教室に児童を収容することであった。
そこから、教育理念の変化と共に学校建築の最終目標は、教育の柔軟性を許容すること、児童の知的関心やアクティビティを促すことなどへと変化した。
図1 打瀬小学校(★1)
建築における単純性は、関心やアクティビティを促すことに関して限定的に強化することができるが、過剰な単純性は関心を生まない。
それはつまらない建築になる。
建築における意味の多様性が保証されることによって、知的関心やアクティビティの多様性は生まれる。
曖昧と単純性
しかしながら、詩歌で用いられるような「複数の解釈」や「曖昧」というレトリックは、単純性によって生まれる。
「雨が降ってきた」
上例は雨が降ってきたことを伝える、最も抽象的であると考えられる文である。
ここに「複数の解釈」や「曖昧」というレトリックは見出すことも可能であるが、それは大きく読み手の想像力に委ねられることになる。
「冷たい雨が降ってきた」
上例では、「冷たい」という曖昧な形容詞である修飾がついたことによって、読み手の想像の助けになっている。
修飾語が想像のブースターとなり、例えばこの文からは
晩秋の夕刻、外で人を待っていたとき、だんだんと寒くなってきた空気によって冷やされた雨が降ってきた。
というような情景を想像することもできる。
つまり極限まで抽象化、単純化されたものは、「つまらないもの」になる可能性が高い。
「雨が降ってきた」
と描くことは物書きにとっては難しい。
しかしそれは美しい単純性を示すことができる。
それが読者の想像力を掻きたてるか否かは、文脈によるであろうが、天才のなせる業であろう。
単純化、抽象化の著しい実例
図2 フィリップジョンソンの「ガラスの家」(★2)
図3 ±0の加湿器(★3)
曖昧な関係を表現する接続詞として
"or?" (「それとも?」)
を著者は示している。
曖昧さは緊張をもたらす。
「大きすぎるのか、それとも小さすぎるのか」という曖昧さは、実際は「大きすぎず小さすぎない」という逆説でもある。
そこに生じるものが緊張状態なのであろう。
対立性の諸相を表現する接続詞として
"yet" (「にもかかわらず」)
を著者は示し、これを逆説的対比と呼んでいる。
サヴォア邸は、外側が単純であるにもかかわらず、内側は複雑である。
著者は単純と複雑の両者共存("both and" 「でありしかも」)という複雑な統一を目指しており、二者択一("either or" 「もしくは」)という単純な統一と対比させている。
両者共存の現象に特有の二重の意味づけ(ダブルミーニング)は対立性とともにメタモロフォーシスをも含む。
つまり同一空間であっても、状況によって空間のヒエラルキーや意味が移行し変化するということである。
それはやはり意味の多様性であり、曖昧さと緊張の状態であるだろう。
現代建築の方法である、機能の分割。
そしてそれを連結させるという方法より、著者は異なる機能の共存を求める。
このような特質をもつ部屋としては、日本の座敷を連想させられた。
冠婚葬祭に用いられ、客人の接待や寝室にも変化する。
特定の機能に特化した部屋ではなく、あらゆる機能に応える部屋である。
それはまるで顔がない人のような常態からのメタモルフォーゼである。
あらゆる顔をもつ座敷。
単純性をもちながら多様性を包含する。
それは受容であり、
「とともに」
という修辞である。
これはラショナリズムへの反発であった。
ピュアで新しいものを求めてきた現代建築へのアンチテーゼとして
「俗っぽさと混乱とを抱え込んだ昔ながらのもの(クリシェ)が、依然として新しい建築の重要なコンテクストである」
「建築家にとって創造することと選択することに軽重はない」
このように断言する著者はやはりポストモダンを代表する建築家の一人であろう。
これからの建築について
現代建築初期を工業的表現主義とし、これから電気的表現主義を装わねばならないと著者は考えていた。
この流れからいくと、我々は情報的表現主義を装う必要があるのではないだろうか。
都市景観にあらわれる安っぽさ、ポピュリズムは、転換されねばならない。
これまでは建築における意味の消去が徹底しておこなわれてきた。
そしてそれは現代の建築家において思考の怠惰を生むことにもなりかねない。
情報社会はメッセージが氾濫し、また氾濫しやすい状況にある。
建築家は情報社会において建築を、情報技術を前提にプロパガンダとしてつくる必要があるのではないだろうか。
それは意味深いものであり、かつ表面的にも分かり易いキャッチーなものでなくてはならない。
実際的な広告なしの、擬似広告的な建築が都市に点在する。
建築がわれわれに語りかけてくる建築。
そんな建築について考えていきたい。
<参考文献/URL>
★1 「打瀬小学校」画像引用
http://www.e-asu.com/kouritu/index2.html
★2 「ガラスの家」画像引用
http://ks530.blog11.fc2.com/blog-entry-49.html
★3 「±0 加湿器」画像引用
http://www.plusminuszero.jp/
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