概要


著   ロラン・バルト
初出  
価格  
出版社 

Text by 浜田晶則


ロラン・バルトの初めて製本された著作である。
記号論について初めて読んだ本だったので理解に苦しんだが、自分なりに以下にまとめる。


この著作でバルトは文学を対象として、エクリチュールというものが個々の作品をこえた文学作品に共通する傾向を示す、ということをこの本全体で論じていると思われる。


ちくま学芸文庫とこの新訳の二冊を別々の人が読むかたちになったが、やはり訳の差があり、共通認識を持つ必要があった。
モ(語)、バロール(語り)、ヴェルヴ(言葉)、ラング(言語体)、ランガージュ(言語)、というようにちくま学芸文庫では忠実に訳しているようであったが、それらをみすずの新訳では、「言語」、「言葉」として大ざっぱに訳していた。
議論を潤滑にする上でそれは有効であるように思われるので、ここでも大雑把に「言語」、「言葉」として記述したい。


「言語」は、記憶をもつ。
例えば「家」を挙げると、われわれは「自分の住んでいる家」や身近な家を想像する。
つまり、「言語は『文学』のこちら側にある」。


そしてもう一つのキーワードが「文体(ステイル)」である。
作品には必ず作者がいる。
その作者の過去の経験や特質などが「文体」としてあらわれる。
文体には、「である」「です」などの文語における表現や、口語体などの会話に近い表現などがある。
さらには、書かれた当時の話し方や流行などにも左右されることになる。
すでに失われつつある女性言葉なども、「文体」として括ることができるだろう。
「文体」によって、読み手の抱くイメージは左右されることになる。
つまり「文体はほとんど向こう側にある」のであろう。


最後にエクリチュールであるが、これは文体のまわりにとりまいており、言語という限界によって制限されるものである。

言語と文体との間に存在するものであり、「歴史との連帯」と「作者のスタンス」を示す。

特定の作者の形式の社会的用途と、その形式を引き受ける選択とについて作者が熟考するという前提条件のもとであれば、時代は異なっていても同じ志向性をもったエクリチュールとなり得る。

社会とはエクリチュールの選択とそれに対する責任とを要請し、その制限や歴史・伝統という抑圧の中での表現の自由を作者は手に入れる。

さらにその自由と、言語のもつ記憶という制限との中間で葛藤する状態からエクリチュールは生まれるのであろう。

しかし、作者がアウトプットした瞬間にエクリチュールは自律し、他者性を帯びる。

その瞬間に作者が持っていた自由は奪われることになるかもしれない。

では、いかにその自由を持続させることができるか。

それこそが「零度のエクリチュール」ではないだろうか。


ARCHILIVE!!参加者である東大の松本君が資料として持ってきてくれた、カミュの『異邦人』をバルトは例に挙げている。

以下冒頭を引用する。

「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。」

(中略)

「私は二時のバスに乗った。ひどく暑かった。いつもの通り、レストランで、セレスとのところで、食事をした」


このように、カミュは一人称で、母が死んだということを知った日のことを淡々と事実として羅列する。

そこには感情は描写されず、主人公の感情をどう感応するかは読み手に委ねられる。

それはモディリアーニの絵のように表情がないようにみえる。(過去ログ参照)

このような書き方は、世界的にも書き方の手本として文章読本などで礼賛されていった。


ここで、建築に関連させて記述したい。

以上のように物のもつ意味を消していくような状況は、抽象化し、フラット化する現代社会をあわらしているのではないだろうか。

例えば法事、仏間の設置等の慣習が現代において失われつつあるのは、意味がまとわりつくことに対する嫌悪感からきているのではないだろうか。

ミニマリズムも説明的なものや装飾的なものを排除するものとして、物のもつ意味を排除するようなものであろう。(ただし、ミニマルアートではサイトスペシフィックという観点も重要であり、深層においては意味がある)


建築的に語彙を変換すると、「言語」はマテリアルやテクスチャ、窓や柱などの要素や法規や構造や土地(記憶としても)などの制限であり、「文体」は構成や手法や原風景やインスピレーションやセンスといったものであろう。

そしてエクリチュールは、建てる際に対する社会、検閲、施主、時代の潮流などから調整されることによって生まれる。


つまり、エクリチュールとは建築の創り方(プロセス)でもあり、創られた建築(結果)でもある。

現代建築では、ダニエル・リベスキンドの感情的かつ精神的な創り方と、OMAやMVRDVのような調査やデータによる創り方との差異は、文体はもちろんであるが、エクリチュールの差異である。

どちらのエクリチュールが求められているかは、同じ現代であっても状況によって異なるのは、グラウンドゼロのコンペティションでニューヨーカーの心をつかんだリベスキンドの案と、そのコンペを辞退しCCTVのコンペを勝ち取ったOMAの案を見れば明快である。

バルトが述べたように、近現代はエクリチュールの複数性、多様性が特徴となるのであろう。

それこそがバルトが思い描いた、バベルの塔によって言語が分裂される以前の「アダム的世界」という言語のユートピアなのではないだろうか。

Text by 中島弘陽

ARCHILIVE!!の第8回を行いました。「ポストモダンを捉える」が裏テーマの等読書会、8回目にして初めて建築ではなく「零度のエクリチュール」(1953年 ロラン・バルト著)を扱ってみました。「エッフェル塔」などと違って完全に言語学的な本なので、手ごわかったですね〜

参加者・理科大よりKOYO、イデヌマ君、ウダガワさん、首都大よりハマダ君、東大よりマツモトくん、武蔵工よりツチダさん、京都よりカワカツさん。

portrait in somethingカワカツさんのログ。
サイコロガシハマダくんのログ。

石川美子訳のみすず書房版と森本和夫×林好雄訳のちくま学芸文庫版の両方を持参したんですが、双方の訳がだいぶ違っていて困惑しました。ちくまではモ(語)、ラング(言語体)、バロール(語り)、ランガージュ(言語)、ヴェルヴ(言葉)、と細かく訳されているのが、みすずでは全て「言葉」という一言で訳されていたりしてニュアンスの違いが分かりにくかったり、逆にみすずのほうが細かく訳されているところも見受けられました。


バルトは「エクリチュール」を説明するためにまずラング(言語体)と「ステイル(文体)」を明確に区分します。まずラングを「ある時代の全ての著作家たちに共通の規則や慣習の集合体であり、バロール(語り)を内包しつつもいかなるフォルム(形式)も持たない抽象的な集合圏」であり、ゆえに「本来的に社会的な客体」であり、まさに「歴史全体に他ならない」ものと定義します。一方ステイルは「ただ著者の個人的で秘められた神話)」であり、ゆえに「歴史の水準には達しない。」

(ちなみに「完全に個人的」なステイルが形成される過程の説明は興味深いです。「ステイルはバロール(語り)の下層構造であり、そこでモ(語)と事物の最初の組み合わせが形成され、ヴェルヴ(言葉)に関する主題が設置される。」とあります。作家の言い回しや「作風」以前の、それを決定づける要因のことですね。)

歴史というと分かりにくいですが、「過去から未来に向かう時間軸すべてで規定、もしくは仮定される人々の共有財産」といえば分かりやすいのかもしれません。「違う作家が同じ言語体を語るということは、彼らの語らない古代的あるいは未来派的なすべての言語体を仮定することに他ならない。(中略)著作家の言語体は、廃絶された形式と未知の形式の間に宙づりになっている」

最近の流行りでいえば、ステイル=私性、ラング=社会といったところでしょうか。では、エクリチュールはどこに位置づけられるのか。


「ラング」や「ステイル」は客体だが、エクリチュールは機能である。従って、異なる時代でも同じエクリチュールは使われうるし、比較が可能なものである。


引用文献

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bLiT2k I loved your article post.Really thank you! Will read on...

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Posted by tips about seo 2013年12月21日(土) 02:21:42 返信

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