アーキライブ11 レポート2つ目です。
2冊目は「空間-機能から様相へ」(原広司著 岩波書店 1987)です。
本書は、このブログを始めたきっかけである読書会のテーマでした。
すぐ終わってしまいましたが...。
レポートは本書の最終章「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」について。
アーキライブの議論の時には、全然わかっていなくて、
A かつ not A = 空集合(=φ)
なるほど、それでアトリエ・ファイなのか、
などと考えていました。原さんごめんなさい。
koyoさんの、相対論を超える思想として重要なんじゃないか、という発言でようやくこの論考の重要性に気づきました。蒙を啓かれた感じです。
議論が終わってから一日頭を冷やして今、もう一度読み直しました。
前よりは少しは分かったような気になっています。
その気がしている内に書いてしまいます。
※長いですが、時間の無い方は最後の数段落さえ読めば僕の解釈はだいたい分かっていただけると思います。
※付記:松岡正剛さんが定家書いてました。もし参考になれば。
まずは<非ず非ず>の論理を支えるテトラレンマについて。
いくつかの書き方で書かれるが、とりあえず議論を追うためにも最初のタイプを。
(p257より)
α:
P(A)----------------1
P(not A)-------------2
P(A)/P(not A)---------3
P(not A)/P(not not A)---4
です。
で、この1から4までがすべて成り立つ、という命題である。
これが論理学的に見てどうなのか、は僕たちの知ったことではない。
問題は、この命題が次の定家の歌の「すごさ」を的確に叙述できるか、ということだ。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮れ
僕は高校時代、百人一種大会で文系の学生に25対1で負けたことがあり、それ以来百人一首は大嫌いだが、まさかここで再会することになるとは。でも、この歌は高校のときの古文の先生が好きな歌だったので、どうにかまだ覚えている。その時の説明はこんな感じだった。(AAはイメージです)
「見渡せばー(と言いながら手を水平に広げる。目は遠くを見つめる)
ヽ(´ー`)ノ
花も紅葉もぉ!(と、うじゃうじゃと両手をかき回す。うれしそうに)
ヽ(*´∀`)ノ
なかりけり...(と言って呆然とした、寂しそうな顔をする。両手は力なく垂れる)」
(´・ω・`)
たしかここでの「けり」は「詠嘆のけり」で「無かったんだなぁ...」と訳すはず(もうほとんどうろ覚え)。「見渡せば花も紅葉も」で聞いている人に満開に咲き誇る豊穣な情景を想像させておいて、「なかりけり浦の苫屋の」でわびしい感じを出して、「秋の夕暮れ」で余韻を残す、とかいう説明だったと思う、たぶん。
別の言い方をすれば、可能世界の話である。とはいえ哲学は分からないので、これ以上突っ込まない。僕にとっては、よくSFとかにある、パラレルワールドという程度の認識しか無いし。
結局は、粗末な苫屋しか無いのである。ただ秋にそういう寂れた漁村を見て、ちょっと夕日が奇麗だっただけなのである。しかし現象としては(あるいは様相としては?)非常に美しい豊かな景色が見えると。それである種の異化作用を起こすと。そういう話ですよね、たぶん。
これを論理的に?説明してしまおうというのが本論の目的である。そりゃ無茶というものですよ、と思うのだが、しかしなぜか読むうちに納得してしまいそうになる。これが原さんの文章の怖いところだ。だまされたと思ってやり過ごす方が賢いのか、それとももう少し格闘すべきか。
それは、寂れた漁村の秋の夕暮れである を α: P(A) (つまり、1番)と定義する。
すると、その景色のうちに寂れた漁村でないところが現象する。
それは、桜や紅葉咲き誇る秋の夕暮れである を α: P(not A) (2番)が定義される。
ここで、寂れた漁村(A)の反対は、桜紅葉咲き誇る場所じゃないだろうという反論はできない。というのも、ここでnotという記号は、Aと同一平面上に現れるAではない様相の中で任意に選ばれる一つの要素へ移動する、ということを意味するからだ。これが「notが運動を誘起する力である」(p262)という文章に現れる。
つまり、1番と2番が組み合わさって3番が生まれるのだ。もっと簡単に言えば、先ほどの高校教師による説明では、1番と2番が3番になりますよ、という説明でしかない。<非ず非ず>にはさらに次がある。
ところで、その前に確認しておきたいのだが、これも弁証法なのではないのか?原は弁証法と<非ず非ず>を通時的、共時的として、別のものとして捉えているが、この区別は妥当なのか?もしこの区別が付かないのだとすれば、<非ず非ず>の俗の俗なる図式である(3-a,b)はともにただの弁証法2回分になってしまう。二階論理?とかいうやつだ。でも論理学なんて勉強してられないので、先に進む。
<非ず非ず>には、この寂れた漁村である、かつ桜紅葉の咲き誇るところの同時存在体を否定するようなもの、つまり4’が出てくる。これは一般的な論理学では4番とは違うみたいだけど、僕には分からないので同じことにしておく。
α: not ΓA = α: not(P(A)/P(not A))----4'
これはむずかしい。
今まで思い描いていたこの空間とは別の空間を同一平面上に置けと言っているのだ。
そんな馬鹿な、トポロジーかよ。
ここで原はどのように展開するか。
「日本の中世美学が目指したのは、この全体を見透す<非ず非ず>を描出することであった」(p267)
つまり、今問題になっているnot ΓAが日本の中世美学と関係すると言っている。そしてそれは二つの戦略があった。
一つ目は、芸術の限りない展開からヴァリエーションの累積を生み、全体化を促す。これって、つまり折衷様式時代にパターンブックを量産することによって、その中で面白さが生まれてくるということを言ってるの?ある意味Flashや同人誌を媒体とした二次創作が氾濫する現代みたいな世界だろうか?これは、つまりΓAのことを言っているのである。
二つ目は、恐らくこちらが重要であるのだが、一つ目の逆なのである。つまり、not ΓAである。Aと、めちゃくちゃ大量の(もしかすると無限に近似してもいいくらいの)not Aが同時存在している世界で、それを意識させることがnot ΓAでもあるのだと言っているのだ。このとき、not ΓAが具体的にどんな空間であるかを想像する必要はもはやない。重要なのは、ΓAという空間を相対化してみせたのだという身振りを示すことなのだ。そしてそれこそがΓA/not ΓAである。端的に言えば原は、先の高校教師の説明そのものが、定家の芸術の一部だと言いたいのである。
これは、すごいことだ。こんな落ちだったのか。面白かった。いや、おもしろがってる場合ではない。
ここまで粘ってその程度の理解か、と思われそうだが、今の僕の理解ではここが限界である。もっと深い読みは可能かもしれない。けれども、ここまでで考察は終わりにして、結論に進む。
本論は、コラージュの問題だったのである。しかし<非ず非ず>を読んだあとには、コラージュそのものを問題にすることはできない。オーバーレイされるその美学の問題へと進んでしまったのである。ここでコラージュとは同時存在ということ。そしてその同時存在がいかなる空間を作るか、その豊かさが建築家(あるいは芸術家?)の力量なのである。やっぱりこれって、二次創作の話なのか?いや、ぜんぜん違う。いくつもの二次創作が同時存在するその空間の設計をしろと言っているのである。原広司、こんなこと考えてたのか、恐ろしい。
でもここまで考えて、今さら思うことは、これって建築空間の話に結びつくのだろうか?今の僕にはまだ本論と坂本一成とを接続できない。そのレベルまで達していない。これについてはまだこれからもう少し考えていく必要があるだろう。
最後に否定神学について。神様については良く知らないけど、次の歌の中で、「ガンダム」のところだけそのまま歌えばこれは否定ガンダム学である。
<非ず非ず>についてもう少し考えました。それを追記します。
いや、卒論をしている場合ではないのかっ!と、自分を叱咤しつつ。
前回の考察では、結局藤原定家のことしか言っておらず、
建築とは関係なかったのでした。
残念です。
これを建築の問題系へと結びつけたい、
どう展開すれば良いのか、を考えるつもりでした。
でもいつのまにか、監視社会の話になってますね...
最後の方はちょっとうざいかもしれません。
<非ず非ず>の論理的展開
これから、<非ず非ず>を展開していきたい。ケーススタディというやつだ。
ただし、僕の<非ず非ず>に関する解釈は前回からほとんど変わっていない。あれが間違っていれば以下の展開は全部間違っている。無意味である。
弁証法と<非ず非ず>は、展開させる力を持つ、と原も序文に明記している。だから何とか現代的問題を展開させてみたい(それが出来なければ、解釈が間違っているということだ)。
そこで選んだのがセキュリティの話。セキュリティは都市の問題としてかなり重要だが、残念ながら画期的な建築的解決はまだ無いと思う。というか、建築の力ではたぶん無理なんじゃないかなと思っている。
去年辰野を取った卒業設計も、学校を地域社会に開放するという提案だったが、東浩紀に一蹴されてしまった(あれには驚いた。前提を覆されたというか、とにかく衝撃的だった)。
しかし一般にセキュリティといっても、その適用範囲は広い。学校の問題もあれば住宅の問題、情報管理やテロルなどなど。問題の抽出のため、「過防備都市」(五十嵐太郎著 中央公論新社 2007)などをブラウズしてみるが、うまくまとめているだけに、かえって難しい。どうせケーススタディだからということにして、「過防備都市」p32から始まる「偏在する監視カメラ」の章を参考に、「監視するところ」をP(A)と置いてみよう。すぐさま、
1-----監視するところ
2-----監視されるところ
が定義される。「notは移動を意味する」ので、「監視されない」でも良かったが、それだと展開できないだろうと思い、とりあえず「監視される」としておく。このとき、次が定義される。
3-----監視し、かつ監視されるところ
ここからが問題である。この3番目の空間、監視し、される場所(もっと建築的には見る/見られるところ)を相対化してしまうような、そういう空間が求められている。これには既に一つの答えがあって、特殊な場所だが、それをパノプティコンという。
パノプティコンは一望監視することと、監視する者の姿が見えないことばかりが取り上げられるが、もう一つ特徴がある。それは他の受刑者との関係である。
パノプティコンにおいて受刑者は、監視している棟を見ることができる。そして、他の受刑者が同様に監視されるということを見ることも出来る。このことから自分と監視者との関係を相対化できるという理屈である。
このとき、4番目をどう書けばいいのか分からないが、一応そのまま書いてみよう。
4-----(他人が)監視し、かつ監視されるところを見られるところ
この3と4の空間の統合がパノプティコンである、と展開できるのではないか。
さて、これでとりあえず<非ず非ず>の展開例を示した(つもりである)。しかしセキュリティの問題は一向に解決していない。監視カメラが次々と増殖していく都市空間に対して、建築家が何を作れば良いのか。まさか都市をパノプティコンにするわけにはいくまい。つまりパノプティコンという特殊な状況下ではなく、住宅街とか、学校をどうすれば良いかを考えねばならない。
このとき問題なのは、パノプティコンで監視されるべき対象(受刑者)の位置がある程度制御可能であるのに対して、現代社会の都市や郊外では、誰でも監視すべき対象に変化しうるということだ。すぐ近くを通りすがる人が、いつキレて、刃物で切り付けられても不思議ではない、という脅迫観念が、現在の監視カメラの問題を、あるいはセキュリティの問題を難しくしている。
いや、問題はもっと深い。
パノプティコンにおける解決点は、他人が監視されていることを自覚させる点にあった。しかし、監視社会を叙述する五十嵐はこのように書いている。
「もしかすると、誰かに見られていることよりも、誰にも見られていないことのほうが不安なのである」(p41)
つまり、ほとんどの人々は監視カメラの権力なんて先刻御承知なのである。そして、そのことこそ安心の糧にしているのである。監視カメラが現実をこえたひとつの共同幻想になっていること、これこそが現代が監視社会と言われるゆえんである。ゆえにもはやパノプティコンと同様の解決はありえない。問題はさらに先に進んでいるのだから。社会に迎合して、監視カメラをたくさん使った建築を建てたって、無駄なのである。
この問題に建築的解決ができるのなら、原広司風に言うと「新しいスケッチ」を描けたら、その人はすごい建築家だ。でもたぶん、建築が解決できる問題では無い気がする。
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H1Xcak A big thank you for your blog article.Much thanks again. Really Great.