銅金裕司の作品、活動、プロジェクト、考えていることについて(Garden of Cyrus、サイラスの庭、アート、芸術、庭、ガーデン、植物、花、虫、鳥、緑、グリーン、バイオ、バイオアート、bio art、バイオロジー、環境、環境問題、二酸化炭素、co2、オフセット、生態、生態系、エコ、エコロジー、環境芸術、ecology,植物の音楽、植物の声、植物の音、花の声、花の音楽、花の音、音楽、声、リズム、plant、music、voice、植物生体電位,植物とのコミュニケーション,世界、世界の声、ルグィン、世界劇場、存在の大いなる連鎖、イエーツ、ワールブルグ、マニエリスム、魔術、伊藤若冲、石峰寺、動植綵絵、海洋学、海洋、機械、ネットワーク、コンピューター、植物、花、トロン、マック、マッキントッシュ、SE、SE30、脳波、ロボット、ロボットとは何か、電位、FFT、スペクトル、midi、プラントロン、plantron、心、感情、精神、知恵、マインド、認知心理、アフォーダンス、カオス、複雑系、非線形、振動、振動子、内部観測、オートポイエーシス、植物の心、植物の精神、植物の知恵、記憶、徴候、庭、ガーデン、シアター、園芸、園芸文化、花文化、花、箱庭、ラン、orchid、ランの進化、ランの戦略、リゾーム、プルースト、バタイユ、文学、マラルメ、リラダン、ポー、ボルヘス、ナボコフ、アーダ、ユリイカ、メルヴィル、稲垣足穂、中井英夫、椿実、澁澤龍彦、yuji dogane(銅金裕司/メディアアーティスト))

ガーデンシアター








箱庭園芸入門

ご協力していただける方々への案内書
「箱庭園芸」というのは昨年度の3年生のみなさんとはじめて模索しつつ、名前も一緒に考えて、みんなで命名した試みです。これはまったく新しい実験的なかつ実践的な作業です。基本的には、少々大きめのプランターに、ガーデニングしてみようということなのですが、それを一つの景色(けしき)と見なして、その風景で「ドラマがはじまる」(箱庭演芸!?)というようなことです。
箱庭を劇場とみなして、植物の生長・変化につれて、物語もどんどん展開してゆく、そんなことをやってみようとしています。だから、花壇苗や小さな樹木を植えるだけでなく、小さな置物なんかで空想の場面を設営したり、必要な舞台美術をご自分で工作して、主人公や脇役も考えないといけないこともあるでしょう。想像上の言わば「夢のガーデン」と「その物語」の映画を作ってみようという創造的な試みです。さて、いっぽうで箱庭療法という心理療法がかなり有効な癒しの技術として、ひろく評価され、実用されてきております。それは精神的なダメージを受けている人々や心身症、拒食症などの病気の方々への癒しの技術として適用される療法ではありますが、園芸を取り込めば、そのような特別な場合に限らず、一般の私たちの心身世界にもなんらかの良好な効果が期待されるものと考えられますのは、有名な心理学者であるカール・グスタフ・ユングが唱えている理論からも明らかだと思われます。
あなたの心の写(うつし)である「夢のガーデン」と「物語」に挑戦してください。これは、また、あなたの世界がこの宇宙とどう接続して行くか、そういう壮大なテーマの試みでもあると言えましょう。






はじめに
この作業は、基本的に開放的で、自由です。あなたの思うままにやっていただいて結構です。だから、あなた自身の「個人」の作業とします。
だから、管理・メンテナンスもご自分でやっていただきます。
維持管理の責任はあなた自身にあるとお考えください。
週に一度、学校に来られた時は様子を見てください。そして、思ったことや気持ちを記録し、栽培状況のチェックをしてください。
***内容を変更することとか、そのままでいこうとか。
面倒だとか。やめようだとか。それも結構です。
写生してください。写真を撮影してください。
積極的に、人形などでお芝居を創作してください。
植物の栽培のこと。技術的なこと。質問。問題。困難。とか。
ただし、潅水くらいは当番にして、持ち回りでもいいですね。
しかし、持ち帰りは不可としましょう。
そして、ご自分のガイドラインに沿って作業してください。
これらを、こちらからは写真とビデオで記録します。
ビデオは定期的にとるようにしてゆきます。
ビデオでどんなことを撮影してもらうか、を考えてください。
あなたの作業をビデオで見ながら、あなた自身で説明、感想をお願いしましょう。
さらに、また、そのビデオのビデオを見ると、反省、訂正などが必要になるかもしれませんね。授業ではときどきそのような鑑賞会や発表会をします。
記録が充実してきますと、
・作者が作品を語るドキュメンタリー映画を作る。
・箱庭を利用して創作映画を作る。
などに発展するかもしれません。
さて、すべての作業に先立って
1冊のノートをご用意ください。どんどん加えることができるルーズリーフなんかがお勧めですが、普通のノートでもかまいません。
これに、すべてを記録して行ってください。最後に提出していただき記録として残します。できるだけ細かい記録をつけてくださることをお願いします。
そのノートに春〜夏〜秋〜冬でそれぞれの風景を構想してください。簡単に、考えをメモしたり、デッサンをして、物語あるいはシナリオを創ってください。デッサンなんかは別の用紙に書いて、ノートに貼り付けてもかまいません。写真も貼りつけてかまいません。
使用材料の詳細なリストを作成してください。使われる植物の種類や性状を調べてください。置物などは、よければ、それがどういうものか(材質、入手経路、いわれ、思い込み、など)も教えてください。そしてぜひ、必要と思われる置物は積極的に工作してください。
箱庭を劇場空間として、四季や場所を演出する、みたいなことを想像してください。
春〜夏〜秋〜冬でそれぞれの風景を実際に作成して行く計画を考えてください。
それで植物の栽培に関わる作業予定も作成してください。植え替え、肥培など。
そして、それに応じて物語を創ってください。
詩でも短歌、俳句なんかでもいいですね。
あなたが想像する庭や風景を感じながら、物語を展開してください。
途中で変更ありです。気分で変えてください。ただし、風景(植物+装飾道具)の変遷で話も変化してゆくかもしれません。そのたびに植物を変更したり、痛んだりしたときは植え替えなんかもやってください。そういうときの植物が示すことを記録して、あなたの物語にとり込んでください。
栽培で失敗もあるかもしれませんが、意外な思い付きが生まれたり、思わぬ素敵な展開になるかもしれません。
それぞれで、ビデオ撮影をしてゆきますが、そのときに音楽をつけて物語っていただくのもすばらしい試みでしょう。ご自分のビデオで収録して、どんどん作品を作ってくださっても結構です。少なくとも1度はビデオでは語っていただきたいのですが、いかがでしょうか?
それでは、早速、ノートを用意してすべての準備を始めてください。
いまからが始まりです。

ガーデンシアター紙芝居
http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/trdproj/workshop/do...

ワークショップ風景
http://tanpoponoye.blog31.fc2.com/blog-entry-3.htm...






参考データ
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予感と余韻は、ある雰囲気を通して現前していないものを感じること、徴候と索引というのは、いまだ、ないし、もはやそこにないものの兆し、ないし痕跡です。例えば、非常に荒っぽいタッチで描いているフェルメールの絵は、空間的な距離をおいて見るときにはじめて画像として立ち上がる。これを時間性の構造として捉えると、明確に記号化されていないものが、時間的な前後関係のなかで、徴候や索引などになる、ということです。フェルメールの絵はそのキャンバスには現前していません。視る者の明視距離が誘導した架空の画面に絵が精密な輪郭をともなって投影された瞬間に、フェルメールの絵が現われます。視る者はまさしく予感の中に絵を見ようとしています。ズレをともなったこのような関係が、デザインということの最も根源的な風景であると思います。その課題の岸辺に辿り着く時、はじめて「感性」なる気恥ずかしい言葉も口にてきるような気がするのです中井久夫さんは「微分回路的世界、積分回路的世界、比例回路的世界」の違いについてもおっしゃっているのですが、いわゆる我々が世界と思っているのは、比例回路的世界、つまりある感覚的な強度を対数に変換して知覚するので、10倍の強度でも2倍程度にしか感じない。それに対して統合失調症の人などの微分回路的世界というのは、微細な差異を過剰に感じ取ることによって、何かが起こるという不安な未来予想をしてしまうんです。積分的回路世界というのは、症例的にはうつ病になる性格ですけれども、自分の過去のすべてにアクセスしながら出来事を感知していく。実はコンピュータはある種の繊細さを持っているにもかかわらず、その繊細さを比例回路的に、いわば現実世界のメタファーで理解してしまうと、その潜在力を引き出せない。もちろん、本の背表紙を見るだけで内容がすぐに引き出されてしまう積分回路的世界、統合失調症の方が経験しているような、微細な差異の中に未来を認めてしまう微分回路的世界というのは悪夢です。悪夢ではあるかも知れないけれども、その感性の繊細さにおいては、新たな地平を開拓するような可能性を持ったメカニズムともいえるわけですね。もしかしたらコンピュータも、今まで我々が自然的な身体において培ってきたのとは別の回路を提供しているのかもしれない。


鏡像段階
ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力もない状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見るという具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。
鏡像段階という概念は、J.ラカンの古い業績の一つであり、彼は1936年にマリエンバードの精神分析会でそれを報告している。この概念は、実験に基づくいくつかの成果によって裏付けられており、それらは次の二つに分類できる。
1)一つは、鏡に映った自分の像を前にした幼児の振舞いに関する児童心理学および比較心理学から得られた成果である。ラカンは「?その鏡像を歓喜の表情で誇らしく引き受け自分のものにすること、また鏡像による同一化を我が物とするさいの遊戯的な自己満足」を強調している。
2)第二には、動物の生態研究から得られたもので、ある種の動物は自分と同類の動物を視覚的に知覚することのみによって、一定の生物学的成熟と構造化に達するという事実である。
ラカンによれば、人間の場合、鏡像段階が意味を持つのは、その早すぎる誕生?これは生まれた時の錐体路系の解剖学的未成熟によって客観的に証明されうるものだが?と生後数ヶ月の運動調節不全との関連においてである。
(ラプランシュ/ポンタリス 『精神分析用語辞典』 村上仁監訳 より)

鏡像段階(atade du miroir)
ラカンが初めて「鏡像段階」という表現を用いたのは1936年、フランス百科事典の「家族」の項においてである。ラカンは、その後この主題を再び取り上げて彼の教えの中で展開していくことになる。それというのも、鏡像段階は、直ちに理想自我、そして二次的同一化の基礎となる自我の最初の芽生えの成立を説明する理論だからだ。
鏡像段階は一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ。実際、これは6ヶ月から18ヶ月の間に位置する人間存在の構成の一段階であり、この期間は神経系の未発達を特徴とする。この人間における特有の出生時の未成熟性は、分析治療で見られるような寸断された身体( corps morcel? ) の諸幻想によって証明される。この期間こそメラニー・クラインが「分裂的」と呼んだもので、鏡像段階に先立つ時期である。
したがって幼児は、前鏡像期においては寸断されたもの生きている。たとえば自分の身体と母の身体との間、あるいは自身と外界との間に、なんらの差異も設けない。ところが母に抱かれた幼児は、自分の像を認めることになる。実際、幼児が鏡の中の自分を観察し、鏡に映った周囲を見ようと振り向くのを見ることができる(これは最初期の知性である)。そこでこの幼児の身振りとはしゃぎぶりから、鏡の中にある自分の像に対しある種の認知がなされているのがわかる。そして彼は、自分の動きが鏡に映し出された自分の像や周囲ともつ関係を、遊びながら試し出す。
鏡像段階は同一化の一つとして、すなわち主体がある像をわがものに引き受けるときに生み出される変容として、理解されるべきである。この像が形成的な効果を持ちうるということは動物行動学上の観察により証明されている。事実、鳩では生殖腺の成熟には同種が視界内に置かれていることが必要条件となる。しかもそれは鏡に映し出された自分の像で十分である。同様に、トビイナゴの弧棲型から群棲型への移行は、ある段階の個体に、類似の像の動きをただ視覚的に見せるだけで引き起こされ、この類似の像の動きとはその種固有の運動に十分近い様式の運動でありさえすればよい。これらの事実は同種形態的な同一化の次元に属する。そこで同時に像は、すでに自我の誤認 (m?connaissance) の機能を指し示すおとりの能力を保持していることが明らかとなる。
したがって鏡像こそが、幼児に自分の身体の直観的な形を与えると同時に、自分の身体から周囲におよぶ(内界 Innenwelt から環界 Umwelt におよぶ)関係も与えるということができる。すなわち幼児は、その身体の全身像を想像的に先取りする。「主体はみずからが二重化しているのを見て、反射された、束の間にすぎない、かりそめの自己支配の像によって構成された自分の姿を見て、ただ自分が想像していることによってのみ、自分が人間だと思う」。(ラカン、セミネール?、1964 『精神分析の四つの基本概念』 1973)。
しかし、鏡に映った身体像を我がものとして引き受けるという意気揚揚とさせる勝利において本質的なこととは、母に抱かれた幼児が、自分の発見に認証を与えてもらおうとするように、彼に眼差しを送っている母のほうへ振り向くことである。「そう、それがお前だよ、息子ペドロよ」と母に認めてもらうことによりはじめて、「それはお前だ」から「それは私だ」が導かれることになる。
幼児は一連の同一化の過程を経ることで、一定の自分の像を引き受けることができるのだが、しかし幼児の鏡への同一化の内実を、単なる経済論的な次元へ、あるいは(視覚的なモデルが主たる役割を持っているとはいえ)単なる鏡像の領域へ帰すことは不可能である。なぜなら、幼児が自分を見るのはつねに、自分の目によってでは決してなく、彼を愛したり嫌ったりする人物の目によってなのであるから。ここにきてわれわれは、幼児の身体像を基礎づけているものとしてのナルシシズムの領域を、母の愛、彼に投げかけられる眼差しという点から取り扱うことになる。幼児がこの像を我がものとし、内在化することができるためには、彼は大文字の他者(この場合は、母)において一つの場所を持たねばならない。ペドロという名で呼ばれる権利(ないしは呼ばれることの禁止)をもたらす、この母による認知のしるしは、一なる印として働くようになり、そこから理想自我が構成される。この点では、「盲人でさえ自分が眼差しの対象である主体である」。
しかし鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であるという経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)においてであることになる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。
さらに鏡の中に自分を認知するのと平行して、幼児には同等の年齢の者に対する特別な行動が観察される。幼児は他者を前にすると興味深く観察し、そのしぐさをいちいち模倣し、文字通りスペクタクル(光景=見せ物)のなかで、その他者を引きつけ、あるいはその気を引こうとする。それをただの遊びにすぎないとしてしまうことはできない。幼児はそうした行動によって、この年齢ではなお不完全な協調運動に先んじているのであり、また他者になぞらえることで自分を社会的に位置づけようとしている。重要なのは、彼を承認する資格を与えられている者を彼の方から承認することであり、その者に自分の価値を認めさせ、その者を支配することである。
互いに向かい合った幼少の子供にみられる転嫁現象( transitivisme) にはじつに驚かされるが、そこでは文字通り他者の像にだましとられている。ぶった子がぶたれたと言い、そちらの子の方が泣き出してしまう。ここに認められるのは、想像的審級つまり双数的関係、自身と他者の混同であって、人間存在の構造にかかわる両価性と攻撃性である。
自我とは、反転した構造のうちにある鏡像である。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだましとられてしまう。したがって主体は、自ら差し出すことに決めた自分の像のうちに疎外されているのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様のことが言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定めることができる。
鏡像段階とは構造論的な交差路であり、そこで交わっているのは以下のものである。
1.自我の形式偏重。幼児はある像へ同一化するが、この像は彼を形成する一方で、しかし原初的に彼を疎外し、他者に同一化する転嫁現象においては彼を「他者」としてしまう。
2.人間存在の攻撃性。自分が消滅されたくなければ、自らの場所を他者から勝ち取り、他者に自分の価値を認めさせねばならない。
3.欲望の対象の出現。その選択はつねに他者の欲望の対象に準拠している。
(R・シェママ編 『精神分析事典』 弘文堂 より)

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