日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(くろだ よしたか)
天文15年11月29日(1546年12月22日)生まれ、慶長9年3月20日(1604年4月19日)没。


播磨・姫路の土豪である黒田氏。黒田職隆の子で黒田長政の父。剃髪し、【如水】の名前も有名だが、クリスチャンとして洗礼も受けており、洗礼名は【ドン・シメオン】という。(サイモン・ジョスイとも)。マニラのサンセバスチャン教会に名前が記されていると『黒田如水伝』にある。官位は勘解由(かげゆ)。

 天正16年(1588年)、主家であった小野寺氏に織田家と通じるように勧め、豊臣秀吉を播磨へ入れた。天正16年(1588年)7月、九州征伐の戦功として秀吉より豊前六郡を与えられ、上洛。以後、秀吉の元で播磨攻略、備中高松城攻め、毛利氏と講和交渉などに当たった。
 秀吉はお伽衆に「あの黒田官兵衛なら天下が取れる」と語ったと逸話がある。又、秀吉が官兵衛自信に「次の天下は誰が取るか答えてみろ」と質問したところ、官兵衛は「毛利輝元」と答えたが、秀吉は「目の前のお前だ」と答えたとも言われる。他にも秀吉は「世に恐ろしきものは徳川と黒田である。然れど徳川は温和なる人だが、黒田の瘡頭は、何とも心許し難きものだ」との話を側近にしていたという逸話も残っている。 事実、九州平定後の官兵衛の褒章は豊前六郡の12万3000石にとどまっている。

 87年、官兵衛は中津に入部、89年に家督を長子である長政に譲り、剃髪をし隠居をする。44歳。文禄・慶長の役に出陣をする。関が原の戦いでは東軍に組し、九州にて戦う。

官兵衛は家臣を大切にし、使うのが上手な大名としても有名である。官兵衛の座右には『家中間善悪の帳』という、家臣の間の交友関係を記した書物があった。家臣間の人間関係を調べ、馬が合う合わないをきちんと把握し、仕事がしやすい環境を作っていたようである。又、官兵衛は質素を心がけ、家臣などに褒美をやる際には惜しまずそれを与えた。自らが日ごろ倹約をするのには、家臣に存分に褒美を取らせたいからだ、と語ったと言われる。こういった家風は以後の黒田藩の家風となった。官兵衛が率いる軍団はとても勇猛果敢であり、【黒田二十四騎】と称される。
 幼少期より文学に触れ、和歌などもたしなんでいた。「古今和歌集」や「源氏物語」などにも接していたようである。官兵衛は自ら「剣を振るい刀を取って敵と戦うのは苦手なほうだ。しかし采配を持って一度に多くの敵を討ち取るのは得意だ」と後年語っているように、どちらかといえば、頭脳で戦をするタイプであったのかもしれない。


 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、伏見にて没。
「おもひおく言の葉なくてつひに行く 道はまよはじなるにまかせて」は官兵衛の辞世の句である。墓所は博多の崇福寺。

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