日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

天文15年(1546年)生まれ、慶長10年(1604年)没。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。又、「かつとよ」とも言われる。幼名は辰之介。

土佐高知藩初代藩主、父は尾張国黒田城主盛豊。盛豊の次男として生まれる。岩倉織田氏をへて、父と兄を討った織田信長へ仕官する。


元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いに従軍、織田軍を攻撃する朝倉軍へ先頭に立ち、左頬から右奥歯に貫通する傷を負いながら、朝倉方の武将である大剛三段崎勘左衛門と戦った、と『一豊公御武功御伝記』などに記される。秀吉の家臣となり、近江・播磨などに領地を構える。

本能寺の変で織田信長が急死すると、秀吉が天下を治め諸侯を各地へ移封するが、一豊はこの時相良.榛原三万石余、佐野郡内2万石、計5万石を領地すべき朱印状を得て、掛川城に入城した。一豊46歳であった。



文禄2年(1592年)、淀の方に秀頼が生まれると、秀次は秀吉により切腹を命じられる。この時秀次の補佐役であった一豊にも火の粉が飛び散り、朝鮮行きなどの難癖をつけられたようである。



慶長5年(1600年)、関が原の戦いでは東軍に属し、関が原の戦いの戦功により土佐1国約20万石の大名となる。長宗我部氏である浦戸氏の一揆があるが一掃、高知城下町を建設し、領国経営にあたった。



慶長10年(1604年)没。59歳であった。墓所は高知県・筆山公園、戒名は大通院心峯宗傳である。
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