日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(ばば のぶはる)
永正12(1515)年生まれ、天正3年(1575)5月21日(7月9日)没。


戦国時代の武将で甲斐武田氏・信虎、晴信勝頼の3代に仕えた。親戚である馬場虎貞は武田信虎を諌めて手討ちとなり、天文15年(1546年)晴信の時に侍大将に昇格、虎貞の跡を継ぎ、馬場信房と改めたようである。

 

天文22年(1553)、今川義元をたすけ北条氏康を駿河で防ぎ戦功を上げる。永禄8年(1565)、美濃守となる。同9年信濃更級郡牧野島城を守り、同11年には今川義元攻めの先鋒を務める。その際、今川氏が収集した財宝・名物が消失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示した事を知ると、すぐさま現場に駆けつけ「略奪者と後世の汚名を被る」として財宝を全て焼き払った。信玄は信春の硬骨ぶりに感心すると共に、自身の汚名を未然に防いだ事に密かに感謝したと言われる。

永禄12年(1569)、再び小勢で北条氏康を攻め破り、元亀元年(1570)駿河深澤城を修復して守る。同3年遠江三ケ原の戦いで奮戦し、戦功をあげた。

 天正元年(1573)、織田信長の大軍を破り、美濃岩村城を落とす。信玄没後、山県昌景とともに重臣として勝頼を補佐するが、勝頼の無謀を諌めたが聞き入れられず、勝頼は長坂調閑、跡部勝資らの言葉に乗り、天正2年美濃を攻め、遠江高天神に信長・家康を破り、同3年三河長篠城を攻撃する。信房は甲州流軍学に長じて多年の戦いにおおて一創の傷も受けなかったといわれているが、この戦いで織田軍の鉄砲隊に大敗を喫した勝頼を殿軍を務めて退却させると、自身は反転して織田軍に突撃して戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評されている。

 

享年61歳、墓所は知県鳳来町、山梨県塩山市の恵林寺、同韮崎市の勝頼神社、愛知県設楽町の福田寺、 高野山奥の院 、奈良県安堵町などに供養塔などがある。法号は龍嶽院殿大法寿山居士。

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