日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

天文15年(1546)生まれ、天正10年3月11日(1582年4月3日)没。

武田信玄の第4子。甲斐武田氏代20代当主。母は諏訪頼重の娘。生年の確証はないが、『甲陽軍鑑』に天文15年生まれとある。

 永禄5年(1562)、17歳で元服し母方の名を継ぎ諏訪四郎神勝頼となった。同時に高遠城主となり、信州伊奈の郡代にもなったので、俗称として伊奈四郎勝頼とも呼ばれている。

 永禄8年(1565)11月13日、織田信長の申し出により、信長の養女遠山氏を娶り、この日華燭の典を挙げた。ところが一方でこの年の9月、信玄嫡男・義信が陰謀の露見で幽閉の身となり、勝頼への偏愛が家臣団に微妙な翳りを落としたと、『甲陽軍鑑』に記されている。

 永禄10年(1567)、勝頼夫人・遠山氏が一子・武王(のちの信勝)を生む。しかし産後の肥立が悪く、その年のうちに没した。同じ頃、幽閉の身であった義信が自決している。『甲陽軍鑑』によると、武王の誕生を手放しで喜んだ信玄は、童名ばかりでなく武王信勝と名乗りまで付けてしまったという。

 一方、織田信長は養女の死を聞くと、すぐ第二の政略結婚を申し出、今度は織田信忠(当時は奇妙丸)に信玄の息女・お松御料人を娶りたいと申し出た。信玄はこの話に再び乗る事となった。

 永禄年間末から信玄は次第に体に衰えを見せ、病気がちとなって副将格として勝頼を膝下に置かねばならなくなる。勝頼が高遠城からいつ信玄の帷幕に入ったか確かな確証史料はないが、元亀2年(1572)2月、あるいは3月頃だと思われる。

 その前年、信玄は将軍足利義昭に対し、勝頼に官途叙任を賜るように運動をしていることから、この時期より信玄は勝頼を正式な後継として諏訪姓より武田に変えようとしていたようである。甲斐における武田勝頼の文書発行は、元亀2年(1571)卯月の杉浦壱岐守宛て文書が初見であるが、以下、信玄の西上作戦には副将として指揮にあたっていたようである。

 
天正元年(1573)、武田信玄が没するといよいよ武田軍団の総指揮を取るようになる。しかし跡目相続は上手く移行しなかったようだ。『甲陽軍鑑』では、権力代劇にありがちな旧勢力と新勢力が鎬を削り争い、信玄没後の3年秘喪をようやく守ったものの、家臣団の中では一触即発の空気が漂い、勝頼を推して勢いづいた諏訪勢、信州家臣団が旧家臣団と対立し、新勢力を牛耳った長坂調閑、跡部大炊助らの台頭によって不穏な空気を孕んだ。その欠陥は天正3年(1575)の長篠の戦いの大敗という結果で現われた。指揮と采配の乱れを露出し、織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に大敗を喫し、多数の将兵を失い、勝頼自らは信州伊那郡にからくも逃げて何を逃れる。

 その年12月、戦後処理として新軍法を定め、兵制を刷新するとともに戦死者の遺族を扶助し、武士に取り立てたり人材の登用を図るなどして家臣団の再編成をしたと、『武田家文書』にある。外交策で成功したのは、北条氏政との和親強化で、天正5年(1577)氏政の妹を娶った。この時勝頼は32歳。


 天正6年(1578)、上杉謙信が卒中で没する。勝頼は景勝と和睦し、上杉氏の内政に干渉、和睦を結んだばかりの北条氏政の弟・景虎を見殺しにすることとなり、怒った北条氏政と再び断交となった。



このような状況が続く中で勝頼は自国内で敵を迎え撃てる新しい城を築く事を決意。天正9年(1581)、甲府の北西、韮崎片山七里岩の上に要害の新府城を築き、同年12月、甲府の館を引き払い急遽ここに移る。

 天正9年(1581)12月、織田信長は甲州壊滅の侵攻作戦を下し、その宣戦の元に天正10年(1582)2月、木曾義昌が謀反する。木曾と伊那方面の武田家臣団が次々に織田に降伏。勝頼は義昌討伐に信州まで向かうがかえって敗れてしまう。

 新府城に戻った勝頼は重臣とともに善後策を協議するがまとまらず、郡内岩殿城に移り再起をすすめる小山田信茂の意見を用いて新府城を焼き払い東を目指す。しかし岩殿城を守る小山田信茂にも謀反され、進退きわまった勝頼は天正10年(1582)3月11日、天目山にて夫人らとともに自決した。享年36歳。

 墓所は景徳院(山梨県大和村田野)、高野山奥の院(和歌山県高野町高野山)、大泉寺(山梨県甲府市古府中町)、法泉寺(山梨県甲府市和田町)、妙心寺玉鳳院(京都府京都市右京区花園妙心寺町)など。



おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは

は辞世の句である。

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