灼熱氷土

585 灼熱氷土  sage 2009/05/01(金) 20:04:41 ID:4vloSoxS
「明日リクオ様とこの地を発ちます。」
「そう…。長い間我が家を守ってくれて本当にありがとう、邪魅。」

騒動の後、品子達は品子の自宅へ戻って来ていた。
リクオは夜の姿に変身してしまった為、清継や島のいる部屋には行けず、品子に別室を用意してもらい
そこで夜明かしする事になった。
今頃は持って来た酒でも飲んでいるのだろう。
自分が清十字団の奴良リクオのもう一つの姿である事は、品子には口止め済みだ。

さて、品子と邪魅はと言うと、これまた別室で膝を突き合わせていた。
品子が世話になった邪魅に酒でも振舞おうと思い立ち、邪魅を誘ったのだ。
しかし邪魅は、品子が飲めないのに自分だけ飲む訳にはいかないと言ってそれを断った。
最初は遠慮するなと言った品子だったが、邪魅が頑として首を縦に振らないので茶を出す事にした。
夏なので冷蔵庫にあった冷たい麦茶だ。氷も入れた。
邪魅は額から垂れ下がっている札を手で器用によけ、口元だけを晒して音もたてずに茶を一口飲み、言った。
「斯様に冷えた茶を飲むのは初めてです。」
それに品子が答える。
「昔は冷蔵庫なんてなかったもんね。それに氷も。」
「はい、あの頃は夏の氷は大変に貴重な贅沢品でした。このぎやまんの器…ぐらすと言うのでしたか。これも。」
「ふふっ。美味しい?」
「美味しゅうございます。死んでから物を口にするのは今宵が初めてですので殊更。」
「ええっ、死んでから初めて!?」
「はい、私は物を食しません。体も汚れませんので湯浴みの必要もございません。」
「どうして?」
「さ、それは…。もしかしたら妖怪化したとは言ってもまだ幽霊の部分が多いのかもしれません。」
「そっか…。」


品子は邪魅の長い髪を見る。確かに汚れてはいない。それどころかしっとりと艶を放っており、女の目から見ても美しい。
邪魅の考察はきっと当たっているのだろうなと思いながら、品子は自分も茶を飲んだ。
そして想像する。邪魅が物を食べ、体も汚れるのだとしたら…。

夜な夜な家人が寝静まったのを見計らい、台所の鍋や冷蔵庫の残り物を漁って食べる邪魅。
ぬるくなり、垢の浮いた残り湯に浸かる邪魅。

「み、見たくない…!」
「は…?」
「あ、ううん!何でもないわ!そ、それより…えっと、そうだわ、昔の話してくれる?私のご先祖様ってどんな人だった?」

品子の問いかけに邪魅は応じ、定盛がいかに立派でその治世がいかに素晴らしかったかを語って聞かせた。
次第に品子は邪魅が人間だった頃の暮らしにも興味を持ち、あれこれと訊ねては色々な話を聞き出した。
邪魅が字を書けるようになった時、おもちゃの太鼓に「たいこ」と書いたら母に物凄く叱られた事。
家の障子を破いて遊んでいたら父に川へ連れて行かれ、橋の上から逆さ吊りにされて大泣きした事。
邪魅がこっそり野良犬に餌をやっていた事に怒った祖父が、犬を山に捨てに行ったが犬が先に帰って来た事。
家に泊めた客人が物を盗もうとしているのを父が見つけて番屋に引き摺って行く時に使用人が塩を捲いたと思ったら実は片栗粉だった事。
定盛の屋敷に仕えるようになったばかりの頃、新人いびりで真冬の氷の張った池に落とされた事。
池から這い上がったは良いが、びしょ濡れになった姿を別の先輩に心配され「水垢離です。」と苦しい言い訳をしてすぐバレた事。
祖父の葬式で祖母が嘘泣きしていた事。
ボケ始めた曽祖父がどうしても花見に行きたいと言うので付き添って道を歩いていた所、女が町人達から石を投げられている所に行きかい
どうして石を投げるのか町人の一人に訊くと「その女は罪人だからだ」という答えが返って来て、それを聞いた曽祖父が
「ならば続けなさい。ただし一度も罪を犯した事のない正しい者だけがそうしなさい。」と言うと町人達は戸惑い、一人また一人とその場を離れ
やがて石を投げているのは曽祖父だけになった事。

久しぶりに人と話す邪魅は見かけによらず饒舌だった。彼自身、高揚感を覚えていた。
自分の昔話に表情豊かに反応する品子が可愛いと思った。
生まれた時から陰ながら守ってきた大切な少女。
自分のせいで恐怖に脅え、土地の者達からも悪く言われて暗い影を落としていた彼女が明るさを取り戻せて本当に良かった。


話している内にいつの間にかとっぷりと夜が更けた。邪魅は話をやめて品子に就寝を勧めた。
「品子様、お休みのお時間です。」
「えー、まだ寝たくないわ。もっとお話しよ!」
「もうお休みにならないと明日に障ります。」
「じゃあ続きは明日…あ、明日はもういないんだっけ。だったら尚更、今日の内に…。」
「なりません。体調をお崩しになったら如何なさるのですか。さ、お休み下さいませ。」

先程酒を断った時といい、どうやら邪魅は頑固なようだ。
この様子ではこれ以上せがんでももう何も話してはくれないだろう。
それを悟って品子は渋々寝る事を了承した。
「グラスは明日片付けるわ。じゃあ…自分の部屋に戻るね。」

後ろ髪を引かれながらもそう言って腰を浮かせた品子だったが、ふとその心に一つの疑問が浮かんだ。
(邪魅ってどんな顔なんだろう…。)
彼は最初に見た時から札の貼られた姿だったので、品子は札も彼の顔の一部の様に感じて「これが邪魅なんだ」と認識していた。
しかし改めて思うとそんな訳がない。札の下には素顔があるに決まっている。

「ねえ、邪魅。寝る前に…あなたの顔を見せてくれない?」
「顔ですか…?私の顔は品子様がお気にかけるような物ではございませんが…。」
「恩人の顔を知っておきたいの。」
「…承知いたしました。」

邪魅が札を捲る。
品子は息を飲んだ。

想像していたのは、ある程度整った顔だった。
過去に衆道を疑われた位なら、不細工やいかにも侍然とした厳つく男臭い顔立ちではないだろうと。
しかし想像以上だった。現れた若い美貌を前にして言葉を失う品子に邪魅がはにかんで見せた。
「何やら…照れ臭うございます。」
その微笑みに品子は身動きまで封じられた。優しそうで少しあどけなさを残していて。
利発には見えるがとても厳しい封建社会で出世した侍とは思えない。役者をしていたと言われた方が納得がいく。
歳は二十五くらいか。定盛の片腕とまで呼ばれた程なのだから、もっと年配なのだと思っていた。
伝説では邪魅は剣の腕も立ったという。確かに神主から騙されて貰った札から出てきた化け物共を彼が切り伏せた所を品子は見ている。
彼は式神の符も一瞬で切り払って見せた。伝説に間違いはなかった。それはわかる。わかるが…。


どくどくと心臓が早鐘を打つ。顔が火照っているのを感じる。きっと自分の顔は真っ赤になっている事だろう。
品子が恥じらいを覚えてやっととれた行動は、うつむくという事だけだった。
「品子様…?」
様子がおかしい品子に邪魅が声をかける。品子は答えない。答えたくとも声が出ないのだ。
そんな事には気づく由もない邪魅は、自分は何かこの方のお気に障る事をしただろうかと考えた。
…何も思い当たらない。自分はただ言われるままに顔を見せただけだ。
一方、品子は邪魅が自分の名を呼んだ事に動悸をさらに早めていた。
先程から何度も呼ばれていたが、自分の名なのだからと気にも留めていなかった。だと言うのに。

リクオから邪魅がずっと自分を…菅沼家を守っていてくれた事を知らされた時には有難さと誤解をしていた申し訳なさが溢れた。
それでもやはり彼が自分達人間とは異なる妖怪という存在である事を考えると近づき難さを拭い去れなかった。
だが帰って来て邪魅と話をしている内に、品子はあれだけ恐れていた彼にすっかり親しみを持つようになっていた。
のみならず、心にはこの人ともっと一緒にいたい、話したいという渇望のような欲求が湧いていた。
それは家族や友達に寄せるものとは違う初めての思いだった。
その事に品子は気づいていたが、明日には別れてしまうのだから惜別の念が現れたのだと思っていた。
本当にそうなのかもしれない。しかし…そうじゃないかもしれない。
祖先に無実の罪で投獄された事が元で人としての命を失ったにも関わらず、何百年もその子孫を守り続けた一途さはどうか。
穏やかで優しげで耳当たりが良く、その持つ髪のように艶やかな声と言ったら。
顔を見てしまう前から、自分は目の前の男に魅かれていたのかもしれない…。

品子は恋に落ちていた。


嫌でも自覚できた。今までにも恋をした事はある。だがそれとは比にならぬ遥かに別格の激しい恋情が、この夜品子を支配した。
灼熱。そんな言葉が脳裏をよぎる。体が震え、知らず涙が零れる。
「品子様…何故お泣きになるのですか…?呼吸も荒くていらっしゃいます。どこかお加減がお悪くなられたのでしょうか…?」
心配して問う邪魅に、品子は逆に問いかけた。
「邪魅は…人間だった頃…結婚していたの…?」
「は…?いいえ、私は独り身のまま死にましたが…。」
「女の人と付き合った事は…?」
「ございません。」
「じゃあ…男の人とは…?」
「お、男!?」
「邪魅が人間だった頃は…衆道っていうのが流行っていたんでしょ…?私のご先祖様とはそういう仲だったかもしれないって伝説が…。」
「そのような伝説は今すぐゴミ捨て場に叩き込んで下さい!ご先祖様と申されますのは定盛様の事でいらっしゃいますか!?
あの方はそのような方ではございませんでした!無論私もです!確かにあの時代にはそうした風習があり、私も何人もの男から恋文を送られたり
宿直の折に夜這いをされた事がございます。しかし全て断りました!無理矢理手篭めにされかけた時にはこれ以上ない程焦りましたが、
渾身の力で抵抗し切り抜けました!」

定盛との衆道を疑われた邪魅は激しく狼狽し、語気も荒く言わなくて良い事まで告白した。その衝撃の過去に品子が冷や汗を垂らす。
「も、もてたのね…。」
「嬉しゅうございません!戸惑うばかりでした!」
「恋文は…全部で何回もらったの…?」
「七回目からは数えるのをやめました。」
「夜這いは…?」
「四…いえ、五回です。」
「どうしてそんな事になったんだと思う…?」
「そういう…時代だったからなのでしょう。そうとしか…。」

彼は自分が女のように見目麗しい男である事を自覚していないようだ。誰からも指摘されなかったのだろうか。
例え指摘されずとも、それだけ他の男達を引き付けていたのなら普通は自ずと気づくものではないのか。
(鈍感なんだわ…。)
可笑しくなって品子はくすりと笑った。そして涙を拭う。
邪魅が男色を全力で回避する真っ当な男であった事に安堵しながら、もう一度質問を投げかける。
「女の人に興味は…?」
「興味…と申しますか…私は長男で家を継ぐ子を儲けなくてはなりませんでしたので、いずれ見合いをするつもりではおりました。」


子を儲ける。

邪魅は何気なく言ったが、その言葉の意味する所は…。
品子の中で、邪魅が大人の男性である事実が急に浮き彫りになった。
「邪魅は…子供の作り方を知っているのね…。」
「そ、それは存じております。私は子供ではございません。品子様も大人におなり遊ばせば知識が身につきますので、
今この場で私にその説明をお求めになるのはお止め下さいませ。例えお訊ねされましてもお教えいたしかねます。」
「どうして…?」
「それは…。」
「私がまだ子供だから…?」
「…はい…恐れながら…。」
思春期の少女を子供呼ばわりする事は気が引けた。この年頃になれば子の作り方を知っても良い頃だ。
自分もこの位の頃に教わった。初めは信じられなかった。既に精通を迎えていたから男の仕組みについては体で理解していたが、
それでもいやらしい、汚いと思った。しばらくは両親の顔がまともに見られなかった。そんな事を、どうして異性に教授できよう。
相手が同じ男であったとしても言葉に詰まるだろう。頼むから訊かないでくれ。それが邪魅の本音だった。
しかし品子は彼の願いを粉砕した。

「私、子供じゃないわ…。」

その呟きを耳にした瞬間、血の気が引くのが分かった。これはまずい。最悪の展開だ。
次に来るであろう恐るべき質問を何と言ってかわそう。逃げたい。
邪魅はいっそ姿を消してしまおうかとも考えたが、品子が突然震えたり泣いたりしていたのを思い出し、踏み止まった。
とっくに下げられた札の向こうでその目は完全に泳いでいる。
彼は気づいていない。先程品子と「夜這い」という単語を使った会話をした事に。
品子がもう繁殖の奥義を知っている事に。

私から見ればまだ子供でいらっしゃいます。さ、もうお休み下さいませ。私はこれで失礼いたします。ご馳走になりました。
…と言って、返事を待たずにすかさず退場。これだ。幽霊交じりだからか何なのか、自分は消える事ができる。
邪魅が高速で頭の中に台本をしたため、台詞を声に出そうとした時だった。
卓を挟んだ向かい側に座っていた品子が立ち上がり、彼の元へ歩み寄って来た。
そして邪魅の傍らに腰を下ろし、言った。
「邪魅…キスして…。」


お休みくださいませ。私はこれで失礼いたします。ご馳走になりました。…と言って、返事を待たずにすかさず退場。
…していれば良かったのだと、後になって思う。だが、昔人の彼は品子の発した言葉の意味がわからず、つい訊いてしまった。
「きす…とは?」
「口付けの事よ…。」
「ああ、口付けですか。承知いたし…ええっ!?」
膝の上に乗せていた手に、品子のそれが重なった。
「し、品子様…!」
今度は邪魅が固まる番だった。
「邪魅…。好きよ。私…あなたが好き…。」

女から言い寄られるのは初めてではない。人間だった頃に幾度かあった。
恋文は男からだけではなく、女からも送られた。直接思いを打ち明けられる事もあった。どちらも嬉しかった。
しかしそれ以上に気恥ずかしかった。
だから彼は、こんなのはふしだらなのだと、男女は然るべき人の紹介で出会うべきなのだと思うようにし、応える事はなかった。
自分から恋をし、誰かに相談して仲介人を立ててもらおうと真剣に考えた時期もあったが、厳格な家で育った影響か結局行動は起こさず終いだった。
早い話が奥手だったのだ。

「あの…私達が口をきくのは今日が初めてですが…。」
体だけではなく口まで硬直しそうだったが、必死に言葉を紡いだ。
「そんなの…関係ないわ…。」
「わ、私は妖怪…しかも恐らく半分は幽霊です…。」
「関係…ない…。」
「品子様にはいずれ良き御仁が…。」
「あなたがいいの!」
伏せていた目を見開いて、顔ごと邪魅を見上げながら品子は強く言い放った。
熱を孕んだその双眸には、また涙が浮かんでいた。

一体何がどうなってこうなってしまったのか。どうすれば良いのか。
落ち着け、落ち着け私…。この状況を打開する策を練るのだ。そ…そうだ、実は男にしか興味がないというのはどうだ?
いや、それはさっき自分で思いっきり否定した。今さらそのような事を申し上げてもすぐ嘘だと見抜かれるだろう。
よしんば成功したとしても、惚れた相手が同性専門だったという傷は一生残る。大切なこの方にそのような人生を歩ませたくはない…。
どうすれば…どうすれば…。ああ、リクオ様はまだ起きていらっしゃるだろうか。直ちにこの場に現れて話を中断させていただけないものか。
と言うか一生のお願いですから是非ともいらして下さい。滂沱の涙を流し、諸手を上げて歓迎いたします。


「し、品子様は…その…そう!私を誤解なさっておいでです!」
「誤解って?」
「私は…私は…。」
駄目だ、続かない。
「私は何?」
口を突いて出たのは先程没にした筈の案だった。
「リクオ様と深い仲なのです。」
申し訳ございません、リクオ様。
「嘘!そんな暇どこにあったって言うの?信じる訳ないじゃない!」
当然だ。阿呆か私は。せめて定盛様と申し上げていれば…いや、嘘でも言った時点で奥方が怨霊と化し私を攻め滅ぼしに参られるだろう。
「実は私はもう手篭めにされているのです。穢れた身で品子様に触れる訳には…。」
どうしても男関係の嘘しか思い浮かばない。私の頭はどうなっている。
「それも嘘!邪魅強いもの!」
「それは物凄い荒武者に襲撃されまして。いきなり刀を突きつけられ、体を差し出さねば殺すと脅され…。」
「嘘!嘘!嘘!もうやめて!」

やめて欲しいのはこちらですと言いかけてしまった…。こうなれば卑怯に徹して逃げるか。
だがそれでは空前絶後の後味の悪さを残す事になる。品子様のその後も気にかかる。

邪魅が卓の木目を見つめながら途方に暮れていると、突然ガシャンと音がした。それが聞こえて来た場所に視線を向ける。
麦茶の入っていたグラスが割れていた。独りでに割れる訳がない。品子が卓の角を使って割ったのだ。
品子はグラスの破片の中から一番持ちやすく鋭い物を瞬時に選び取り、その細く白い首筋に当てた。
「何を…!?」
「切るわ!キスしてくれないなら切って死ぬ!」
「死!?」
「本気よ!」
破片を皮膚に押し当てる。首筋を赤い血が伝った。
「お止め下さい!ご家族が悲しまれます!ご友人も!」
「家族?友達?それが何だって言うの?あなたは悲しまないの!?」
「勿論私も悲しみます!いいえ!悲しいどころではございません!品子様は私の大切なお方!
あなたがお亡くなりになれば私も生きてはおりません!」
「だったら…だったら私の言う事をきいて!」
「…承知…いたしました…。傷口のお手当てを…。」
「そんなのいいから!」
「ですが…!」
「邪魅!」
「……。終りましたらすぐ様お手当てを…。」
「ええ。」


邪魅が札を捲る。口元が露わになった。
「顔も見せて!」
「は…。」
「私の背中に空いてる方の腕を回して。」
「こう…ですか…?」
「そうよ。じゃあ…して頂戴…。」
「は…ですがその前に…。」
「何?」
「そのぎやまんの破片をお渡し下さい。」
「嫌よ!渡したらそのまま消えちゃうんでしょう!」
「滅相もない!」
「邪魅は嘘つきだもの。信じないわ。キスしてくれたら渡すから…早く…。」

品子がグラスの破片を持っていない方の手を邪魅の広い胸に当て、目を閉じる。
「では…失礼…いたします…。」
自分が望んだ事ではないのに一言断ってから、背の高い邪魅は上半身を丸め、品子に触れるか触れないかの口付けを与えた。
途端、品子が目を見開き怒声を上げる。
「駄目よこんなの!ちゃんとして!」
「も、申し訳…」
「謝らなくていいから!」
「で、ではもう一度…。」

今度は確かに触れた。これなら口付けと呼べるだろう。しかし品子はまた怒った。
「もっと長く!舌も入れるのよ!」
「し、舌!?そ、そんなものを入れるのですか!?」
「そうよ、大人のくせに知らないの?」
「私は…勉学と武芸と仕事に明け暮れ…男女の睦み合う作法などついぞ知る機会がございませんでしたので…。」
「じゃあ私が教えてあげるわ。して…。」
「は…。」

口付ける。邪魅はしばらく戸惑っていたが、やがて意を決して舌の先をおずおずと品子の唇の間に差し入れた。
入れただけで動かさない。動かすなどという知識は彼にない。増して互いの舌を絡ませ合うなど。
品子の舌が邪魅の舌に触れ、ちろちろと動いた。
「んっ…!」
何事が起きたのかと驚いた邪魅が、呻いて品子から顔を離す。品子は今度は怒らなかった。
唇と舌が触れ合った事で気を良くしたのか、優しく諭すように言った。目つきも柔らかくなっている。
「舐め合うのよ、邪魅。舌は唇に挟むんじゃなくて口の中まで入れるの。そうしながら唇も吸って。
さあ、もう一度…長く…ね?」
「は…い…。」
また口付ける。言われた通り舌を口内まで侵入させてみると、品子の舌が絡み付いてきた。
(う…気色…悪い…!)
ただでさえ初めての事。加えて望まぬ口付けと来た日には快楽は一切伴わない。自然と眉根が寄った。
もうやめたいと彼は思った。だが品子の気が済むまで好きにさせてやらなくては、彼女はあの破片で本当に首を切るだろう。


品子に唇を吸われる。吸いながらも彼女の舌は依然動いたままだ。
(そうか…吸うのだったな…。こ、こうか…?)
吸ってみる。ちゅうと音が鳴る。舌を動かす。吸う。それを繰り返す。品子のように二つを同時にはできない。
品子の所作と合わさり、淫猥な音が耳に入るようになった。
ぴちゃ。くちゅ。

荒い息づかいで深く口付けて来る品子の腕は、いつの間にか邪魅の首に回されていた。
グラスの破片ももう持っていない。両腕が彼に絡まっている。掌が、指が、男の長く美しい髪を撫で、時に掴む。
(な…長い…まだ終らんのか…。)
口付けというものは、唇を一時重ねて終わりなのではないのか?
その後見詰め合い、照れ笑いなどをするのが普通なのだと思っていたが。
自分はこの行為が終った後に笑える自信は皆無だ。笑おうとする気力すらない。
もしかすると今させられているのはこの方が独自に考え出した新しい口付けなのかもしれない。

「んっ…ん…。」
「うぅん…。」
くちゃ。ちゅぷ。
呻きながら、音を立てながら思ってしまう。思ってはいけないのはわかりきっている。だが思ってしまうのだ。
私はまるで犯されているようだ。

いつ終えるとも知れなかった長い時から、おもむろに開放された。
閉じていた瞼を持ち上げる。重さなどほとんどない筈なのに、半分も開かない。眉根も寄ったまま、動かない。笑えない。
あれが終った証としてのように、また自分を防御するかのように札を下ろす。
いつの間についた札なのかは記憶にないが、これがあって良かったように思う。こんなものは何の役にも立たないとも思う。
息を整えよう。いや、それより傷の手当を…居間に行けば救急箱がある。あれには消毒液と、がーぜという物が入っている。
女である品子にはあまりそういう事はなかったが、品子の父は子供の頃やんちゃをしてはよく怪我をしていた。
大きな怪我は知られぬようにできる限り防いできたが、ふとした拍子に転んだり、何かに肌をひっかけてしまった時の傷を
大人達が手当てする様子はいつも心配して見ていたので、簡単な事位ならわかる。
「居間へ行き救急箱を取って参ります。しばしお待ちを。」
品子は邪魅の首に腕を回したまま、離れない。
「品子様…終ったのならお離し下さい。」
言って、はっとなった。


自分は何を。今、何という物の言い方を。
謝らなくては。謝罪の言葉を…。お詫び申し上げますと一言。

…出て来ない。何故だ。
「邪魅。」
笑っているような放心しているような、如何とも形容し難い表情の品子が、声だけは普段通りに囁いた。
「しましょう。」
「また…ですか…?」
「キスじゃないわ。セックスよ。あなたにわかるように言うなら、共寝。」
「と…も…ね…。」
意味はわかる。だが…だが…。
「そう、契るの。言ったでしょ?私、子供じゃないわ。」
「なりません!」

高く裏返った声で叫ぶと同時に、ここは何処だと不可解な疑問を抱いた。
長く見知った菅沼邸である事は知っている。だが、ならば何故斯様に凍えるのか。
これは寒気などというものではない。前にてれびで見た遠い北の果て、永久氷土とやらを思い起こさせる凍気だ。
「大声出さないで。みんなが起きちゃう。」
起きてくれ。
「どっちから脱ぐ?脱がせっこしましょうか。ふふっ。」
逃げなくては。
「あなたの子を産むわ。」
一刻も早くここから逃げなくては!
「お目を…覚まされませ…。」
定盛様!
「くすくす。さっきは寝ろって言ったのに。もう、何なの?邪魅面白い。」
リクオ様!

「私はあなたを抱けません。」
「どうして?」
「あなたは私の妻ではございません。」
御名で呼べなくなっている。
「気にしないわ。」
「私が気にいたします。」
「今はそんな時代じゃないのよ。あなたこれからも生きるなら時代に適応しなくちゃ。」
「そのような適応、できずとも構いません。」
「やっぱり頑固ね。そこが好きよ。」
「私もあなたをお慕い申し上げております。」
「それも嘘なのね。」

犯されているようだったのではない。犯されていたのだ。
凍えるのは血が凍ったからだ。


妻に会いたい。私に妻はいない。だが会いたい。
照れ臭いから一緒に外を歩く時は少し離れて歩いてくれ。周りに人がいなければ手を繋ごう。
私は甘いものは好まぬが、時々流行りの菓子など食べに連れて行ってやる。
そのかわり晩酌の時には酌をしろ。恥ずかしいが口移しで飲ませる悪戯をするのも悪くない。
飲んだ後は褥で優しくしてやろう。終われば頬を撫で、可愛いと言ってやるから。
子はどちらか一方ではなく、二人ともに似ているのが良い。共に歳をとろう。

「明日お父さんにお揃いの指輪を買ってもらいましょう。」
「指輪…を…?」
「ええ。私達結婚するのよ。知ってる?結婚指輪は薬指に嵌めるの。」
品子が邪魅の手をとる。
「指、長いのね。綺麗…。」
うっとりと撫で、頬ずりをし、唇を当てる。
痺れるような不快感。
「結婚するって言ったら、お父さんもお母さんもきっとまだ早いと言って反対するわ。結婚は女は十六歳からだもの。
でもさせてくれなきゃ自殺するって言うの。そうすれば許してくれる。それでもお父さんはあなたを殴ろうとするでしょうね。
でも大丈夫。こうしていてあげるから。」
そう言って邪魅を抱き締める。
「私は明日にはリクオ様と…。」
「そんなの許さないわ。…結婚式に着るのは絶対ウェディングドレスだと思っていたけど、白無垢もいいわね。
あなたはタキシードも似合うでしょうけど、やっぱり着物が一番だわ。高砂やを聞きながら三々九度をするの。」
「結婚…など…致しません…。」
「するのよ。」
「そんな気は…毛頭ございません…。」
「照れているのね。可愛いわ。」
何を言っても通じない。

「さあ、しましょう。初めてだから優しくね。」
「致しません…。」
「そう。じゃあ…さようなら。」
また首を切られた。先程よりも深く。流れ出る鮮血に目を奪われ、反応が遅れた。
「お止め下さい!」
首に食い込むグラスの破片を持った品子の腕を掴む。品子は抵抗したが、男の力には叶わない。
奪った破片と卓の上や床に散らばっていた破片を集めて羽織の裾にくるむ。最初からこうしていれば良かった。
「これで失礼いたします…。お休みなさいませ…。」
「刃物なんていくらでもあるわ。台所には包丁が。私の部屋には鋏もカッターもある。窓を割るという手だって。
それをあなたが全部始末しても、買って来ればいいだけよ。」


絶望とはこの事か。
死山血河の道を征き、殺戮に殺戮を重ねた後に自分のして来た事を悔いる時、このような果てなき奈落に閉ざされるのかもしれない。
一条の光もない昏黒の常闇。深淵の冥府。根の国に。
煮え滾る血の池に落とされたい。岩をも溶かす業火に焼かれたい。永劫に。
それを嘉し寿ぐ掛けまくも畏き神の名はさぞ美しかろう。勝鬨を上げ快哉を叫ぶ救世の英雄の輝ける瞳と魂の如く。あるいはそれよりも。
最早逃げられぬ。天地より万物に至るまでの理。その一切を知ったのだ。

ガシャン。
集めたグラスの破片が滑り落ち、音を立てて再び床に散らばった。
破戒する。
「お脱ぎ下さい…。私には…その着物の脱がせ方はわかりません…。」
「決心がついたのね。嬉しいわ。」
「一度きり…。一度きりです…。これだけは…これだけは何があろうとも絶対にお譲りできません…!」
「ええ、いいわ。」
品子が服を脱ぎ始める。邪魅も羽織を脱ぎ、刀を置いて袴の腰紐を解いた。
そして両者、互いに裸体を晒す。
「抱き締めて…。」
抱擁。
「キスを…。」
口付け。

品子が仰向けに横になった。
「来て…。」
その傍らに邪魅が膝をつき、覆い被さる。だがそれから先はどうしていいのかわからない。
妻が相手ならできるのに。
「ど…どうすれば…。」
「知っているんじゃなかったの?…そうね、首筋を舐めて胸を揉んで。」
「は…。」
言われた通りにする。
「あ…ん…。」
しばらく続ける。
「次は…乳首を舐めたり吸ったりして。片方の胸は揉んだままよ。」
そのようにし、次の指示を待つ。
「ん…ふぁ…はぁん…。」
若い女の肌に触れ、その喘ぎ声を聞いているというのに些かも劣情を催さない。
「手を下へ…。おまんこを触って濡らせて…。」
「おまんこ…?濡らす…?」
「おまんこはここの事よ。」
品子が足を開き自分の手で指し示す。
「女はセックスの時、気持ち良くなるとここが濡れるの。濡れてないのにあれを入れると処女じゃなくても痛いんですって。
そんな事も知らないのに昔子供を作ろうと思ってたの?邪魅は本当に可愛いわね。…さあ、触って頂戴…。」


指の腹でそこに触れると、せがまれてしている事なのに禁断不可侵のかむどに踏み入ったかのような罪の意識と心細さに見舞われた。
「あ…気持ち…いい…。もっと…。あ…あ…。」
撫でていると本当に蜜が溢れて来た。ぬるぬるとした感触に怖気が走る。
「舐めて…。」
一瞬、何を言われたのかわからない。だが意味を推測し、びくりと手を止める。
「舐める…とは…まさか…ほとを…ですか…?」
「ほとって何…?」
「ここの…事です…。」
「そう…そこを舐めたり唇で揉んだりするの…。」
何というご無体なご注文をなさるのか。はしたないなどというものではない。一体全体何処でお憶えになったのか。
「できません!そのような事…!」
「するのよ…。でないと死ぬわ…。」
切り札を出されれば奴婢となるより他にない。
「仰せの…ままに…。」
憚りなく広げられた両脚の間に身を屈め、顔をほとに近づけた。目を閉ざす。何か饐えた様な臭いに吐き気が込み上げた。
「ほら…こうなっているのよ…。興奮するでしょう…?」
見えていないのでわからないが、もしかしたら指でそこをお広げになったのかもしれない。
舌を這わせる。臭い液が纏わりつき、唾液と交わる。汚い。
「舌を…入れて…。」
何故情欲が湧き上がって来ないのだろう。この方を可愛いと…欲しいと思えないのだろう。醜女でも老婆でも仇でもないこの方を。
口付けに酔いしれ、求婚に歓喜し、裸体にそそられ、共寝に昂ぶる。何故それができない。私はどのような女を相手にしてもこうなのか。

割れ目が男を受け入れる支度を済ませている事を舌先が感知した。だが私は…。
「あぁん…凄い…。凄く…感じる…。邪魅、指を挿れて…。」
この指は我が魂である刀の柄を握る掛け替えなきものだ。だが今この時、私は奴婢だ。
嫌悪するものと事柄をあまねく跳ね除ける王ならざる隷属者だ。
「痛ぁ…!あっ、あっ…!中…を…ほぐして…!ん…痛ぁい…!」
内側も潤っている。斯様に濡れそぼり…淫らな…。
「あ…!痛い…!けど、んっ…ちょっと…くすぐったい…。指、を…もう一本…。」
応える。
「あぁ!あ!痛!あ!あぁ!」
この次の要求は実行できない。だが指令が下る。
「指抜いて!腰のを挿れて!」
このままでは腐敗し、壊死するのではないかと思われた指を素早く引き抜き、肩で息をしている品子を見下ろす。
股を広げ膝を折っているその姿は蛙を連想させた。人の形をした珍らかな蛙なのかもしれない。泳ぐのだろうか。
「いい…?ゆっくりよ…ゆっくり…。」
奴婢はだが応えない。あたかも夜のしじまに溶け去ろうとするかの如く、座して沈黙している。
「どうしたの…?早く結ばれましょう、邪魅。あなたももうたまらないでしょ?」
応えない。
「心配しているのね。大丈夫。痛いのは我慢できるわ。していいのよ。」
「打つ手がございません。」
「打つ手…?」
「勃ちません。」
「え…?」


言葉の意味を噛み砕くのに時間が掛かった。ようやく飲み込み、ばっと身を起こす。
「そんな訳ないわ!」
男のものを見る。今この身を貫くと思っていたそれは、眠っていた。
「信じられない…あれだけの事をしておいて…。」
「させられたのです。私が望んだのではございません。」
品子は聞いていない。自分は若い女だ。胸こそ膨らみきっていないが、容姿は秀でている筈だ。それなのに…。
彼が先程、自分は男にしか興味がないと言ったのは本当だったのか。
「嫌!そんなの嘘よ!嫌!」
「もう充分でしょう。終わりに致します。お着物をお召し下さいませ。」
邪魅が襦袢を手に取る。
「ま、待って!抱いて!」
「勃たねば抱けぬは道理。あなたに私を勃たせる事は叶いません。決して。」
襦袢を着ながら言う。
「試してみなくちゃわからないわ!」
「先程からご存分にお試し遊ばしたではございませんか。これで失礼致します。私は疲れました。とても…。」
下着と袴を引き寄せる。
「まだしてない事があるわ!こうするのよ!言っとくけど抵抗したら死ぬわよ!?」
品子が邪魅の腰に顔を寄せた。
「何を…?」
それは彼女が幼かった頃に風呂場で見た父のものとは違っていた。赤黒くない。
「邪魅はこんな所まで綺麗なのね…。」
手に取り、先端を舐める。
「ひっ!」
ぺろり。ぺろり。

邪魅は床に後ろ手をついた。
「何を…!何という事をなさいます!お止め下さい!」
くわえられた。口内を陵辱したあの舌で舐められる。吸われる。甘噛みされる。
「嫌です!こんなのは嫌だ!」
「嫌よ嫌よも好きの内…。体は正直よ。勃ったわ。こんなに太いのね。男らしくて素敵よ。」
十五、六の頃は恋をしていなくてもよく女が欲しくなり、夜も眠れぬほど身悶えた。自分を慰める事を知ったのは何時だったろう。
誰に見られている訳でもないのに恥ずかしくてならなかった。若い男なら誰でもする事だと知ってからも。
だがそうしなければ眠れなかった。眠れたとしても朝が大変だった。だからしていた。気持ち良かった。
あの頃の事を体が憶えていたのだろう。刺激を与えられた事で固くなり、屹立している。
「今度こそ…できるわね?それを脱いで。」
「は…い…。」
堅固な城に篭城したい。ご禁裏様のみあらかに息を殺して身を隠したい


品子が蛙になった。覆い被さる。
「そっとね。」
ああ、いよいよだと先端をほとに当てる。
「そこじゃないの、もう少し下…。あ、そう…そこよ。」
男を受け入れる為にある筈のそこに抵抗されながらも、ゆっくりと進んで行く。
「痛い!痛い!痛い!あああーっ!」
全て沈んだ。狭い。自分で如何様にも調節できる掌とは違う。緩慢に腰を振る。終われ。早く終われ。
気がせいで動きが荒々しくなった。猛っているのではない。ただ息を止めて腰のみを須差ぶらせる。
品子様のお叫びは止まらない。家にいる者達は何故気がつかないのだろう。
「邪魅!邪魅!邪魅!好きよ!好き!呼んで!私の名前呼んで!」
呼ばないくらいではお亡くなりにならないだろうと思い、恐れながら無視した。かわりに一言仄めかした。
「私は…こんなにもあなたを…。」
恐れ、戦慄している。尊崇申し奉る神より轟来した降御雷を見たかの如く。
時折息継ぎをし、また止める。頂が近い。一層勢いを増して打ち付ける。
「うぁ…。」
声が漏れると同時に精が放たれた。

大いなる災いの終焉に言い様のない開放感に満たされ、心より安堵する。身を起こし、襦袢を着ながら言う。
「終わりました。お着物を召されませ。傷のお手当てを致しましょう。」
「あ…?あ…、うん…。痛かった…まだ痛いわ。あ…何か胸が一杯…。私…大人の女になったのね…。嬉しい…。ねえ、手当ての前に…。」
抱き締めて。そう言おうとした。だが、起きようとしてふと自分の腹が目に入り、憤る。
「何よこれ!どうして中に出してくれなかったの!?」
「身篭らせない為です。」
後ろ向きになり、かつ襦袢で隠しながら下着を着け、素早く袴を履いた。
「どうして!?私は子供が欲しいのよ!あなたの子供を産みたいの!」
「私は要りません。」
腰紐を結ぶ。
「どうして!?」
「あなたが私の妻ではないからです。」
刀を佩き、羽織を羽織る。
「だから!結婚するのよ私達!」
品子は邪魅の正面に回り込んで言う。
「致しません。」
「抱いておいて…!」
「あなたが死のうとなさるから請われる通りに致したまでです。私は最初お断り申し上げました。」
「…いいわ、今度は中に出して頂戴。」
「今度…?」
「そうよ、痛いだけじゃ嫌。気持ち良くなるまでするの。何着物なんか着てるの?脱いで。」
「一度きりと申し上げました…!これだけは絶対にお譲りできないと!」
「聞いてないわ。」
「しかとお返事を頂きました!」
「知らない。ねえ、早くしないと朝になるわ。早く脱いで抱き締めて。そしてキスを…。」


しなだれかかって来た品子に下腹部をまさぐられ、突き飛ばす事ができずに後ずさる。
「恥ずかしがらないで。こうされるとしたくなるでしょう?」
もう御免だ。もう限界だ。いや、もうとっくに限界を超えていた。何故気付かなかったのか。
がくがくと腕が震える。膝が笑う。幽霊を見てしまった人間の様に。
「うぇ…。」
猛烈な吐き気に屈んでえづく。物を食べていないのだから何も出ては来ない。胃液が逆流するばかりだ。
「うぅっ…えっ…。」
「な…何…?どうしたの…?」
今度こそ逃げなくては。だが動けない。どうすれば良いのか。涙が流れる。吐き気がする。震える。
「大丈夫…?」
触れられた。
「うあぁ!」
手を払い除ける。最早何が無礼であるのかわからない。体を支えきれずに崩れ落ちた。畳に手をつく。
「どうしたのよ!しっかりして、邪魅!ほら、早く抱きなさいよ!」
自分の事しか考えていない。それが余計に恐怖を煽る。
「邪魅!言う事きかないと私死ぬわよ!いいの!?」
「あ…あぁ…。」
なりません。あなたは私の大切な…。言おうとしたがそれは言葉にならず、かわりに叫んでいた。
「ああぁあぁ!リクオ様ーーーーーーーーっ!!」
腹の底から引き絞られた大絶叫。
「おいで下さいませリクオ様!!お助け下さい!!怖うございます!!リクオ様!!リクオ様!!」
「ちょっと!何言ってるの!?やめて!」
「後生です!!リクオ様!!おいで下さい!!すぐに!!」
「本当に来るわ!やめて!やめなさい!」
「もう遅ぇ。」


入り口に、長い銀の髪を煌かせたリクオが立っていた。人間と妖怪の血を併せ持つ、魑魅魍魎の主となるべき少年。
手には百鬼を束ねる大妖の祖父より受け継ぎし長ドス、祢々切丸を携えている。
「あぁあ…。リ…リ…。」
邪魅が這ってその足元へ行き、腰に縋りつくとリクオはその腕をぐっと握り返してくれた。
「し…死ぬと…。結婚…。共寝…を…。」
リクオは品子の首の傷と、床に散乱する壊れたガラスの破片を見て言った。
「品子。てぇしたタマだな。声が聞こえるからやってるのには気付いてたが…命を盾に男を…それも恩人を襲うたぁ…恥を知れ!」
「来たのね。いいわ、あなたに言いたい事があったの。」
一糸纏わぬ姿である事を恥じもせず、品子は要求した。
「この人を連れていかないで。」
「断る。こいつはもう俺のもんだ。」
「私のものよ。私、この人に抱かれたの。もう夫婦なのよ。ねえ、あなた。」
「馬鹿が。一回やったぐれぇで夫婦になるかよ。しかも脅してやった事なんざ物の数にも入りゃしねぇ。邪魅、来い。」
「やめて!邪魅、行ったら私死ぬわよ!」
「よし、死ね。見ててやるから今死にやがれ。」
「私は邪魅に行ってるの!」
「な…りま…せん…!」
「返事なんざしなくていい。立て。ほら、行くぜ。」
「し…かし…死ぬ…と…。き…切って…。」
「絶対死なねぇから安心しろ。こりゃ死ぬ死ぬ詐欺ってやつだ。今流行ってんだよ、憶えとけ。」
「詐欺なんかじゃないわ。見なさい!」
品子がグラスの破片を拾い、首筋に当てた。そして力を籠めて切る。
「あ…あぁ…!し…しな…!」
品子の元へ這って行こうとする邪魅をリクオが制する。
「死ね、品子!死んで見せろ!」
「う…ぐ…!」
押し当てていた破片を首から離し、品子はぎゅっと目を瞑った。
「連れて…行かないで…!好きなの!結婚するの…!」
「死なねぇのか。なら俺が殺してやらぁ。よくも俺の子分をやってくれたな。こいつがお前に逆らえねぇからって。…お返しだ。」
祢々切丸を抜く。鈍色の刀身が蛍光灯の光を反射し、妖しく輝いた。儚い程鋭い切っ先が品子の喉元に突きつけられる。
「う…嘘よね…?人殺しなんか…しないわよね…?」
「俺は妖怪だ。人間一匹殺すくれぇ訳ねぇよ。」
秀麗な顔に浮かべられた凄絶な笑みが本気を物語った。わずかに喉を刺す。血が流れた。
「お前に覚悟は期待しねぇ、そっ首跳ねてやらぁ!」
邪魅が止める間もなく、宿命に定められた敵を殺す目で掲げた長ドスを品子の首目掛けて横に振った。
品子が膝をつき、倒れ付した。血が流れている。


寸止め。品子は意識を手放していた。動くのは彼女が傷つけた首から流れる血だけだった。
「お手当て…を…。」
「俺がやる。」
「いいえ…私が…。」
「お前動けねぇんだろ。いいからまかせろ。包帯とか何処にあんだ?…と、その前に服着せた方いいな。」
腹の精を拭って品子に服を着せる。下着については純粋に嫌だったのと、仕組みがわからなかったのとで品子の部屋に放り込んでおく事にした。
邪魅から救急箱が居間にある事を聞きだしたリクオがそれを取りに行くと、途中で品子の母親に声をかけられた。
「だ、誰!?」
「清十字団の者です。」
愛想笑いをして答える。
「私が見た時、あなたみたいな子はいなかったわよ。何時の間に来たの…?」
「は?やだな、最初からいましたよ?」
「そう…だったかしら…。」
「いたんです。」
笑顔を崩さない。疑問を持つ事を許さない。
「そう、憶えてなくて御免なさい。こんな所で何してるの?」
「トイレを探してたら迷ってしまって。この家広いですね。」
自分の家も広いけど。
「ああ、トイレならここを真っ直ぐ行って右を曲がった突き当たりよ。ねえ、さっき大声がした気がするけど、何かあったの?」
気がした、か。あの未曾有の大絶叫を。どんだけ寝汚ぇんだよ。まあ、助かったが。
「すみません、合宿みたいで楽しくて仲間と巫戯けすぎました。もう寝ますから。」

戻ると邪魅が突っ伏して泣いていた。可哀想に。敬愛した君主の、何百年も大切に守り続けた子孫からこんな仕打ちを受けるたぁ。
あの糞女本当にぶち殺してやりてぇ。だがそれをやればこいつも生きちゃいねぇだろう。この逸材を死なせる訳にはいかねぇ。
「持って来たぜ。まずは止血か。」
いたわる気持ちはないので、不慣れなふりをして全力で適当に手当てをした。包帯をぐるぐる捲きにしておけばそれなりに見えるだろう。
あんな事があったのだから今すぐこの家を出て行きたかったが、そうもいかない。連れがいる。
救急箱は居間へは戻さず、邪魅を連れてあてがわれた部屋へ戻った。邪魅はずっと泣いている。
「うっく、えっく、ぐすっ。母上…。うっうっ…。」
「面上げろよ。拭いてやる。」
ティッシュを片手に彼の札を捲くる。邪魅の素顔を目の当たりにリクオは溜息をついた。
ああ、見せたんだな。この面を。こんなお綺麗なご面相をこいつはあの恥知らずの痴れ者の発情期の強姦魔に見せてしまったんだ…。
改めて怒りが湧いた。自然死でいいから早死にしてくれ。切実に祈りながら邪魅の涙と鼻水を拭いてやった。
リクオについて来ていた小妖怪達も気遣わしげに邪魅を見ている。毒汁は彼の手を頬で撫でてやり、3の口は指を掴んで離さない。
「えっ、えっ、気持ち…悪かった…。ほとが汚くて…うぅっ…。」
「ほとって何だ?」
「おまんこの事です。ぐすん…。」
「お…お…おおおおまっ…!?お前その言葉絶対人前で言うんじゃねぇぞ!いいな!つーか…き…汚かったのか…。最悪だ…。」
「うぅ…。あ…あんな形で男になって…しまった…。うええぇぇん…!」
初めてだったのか。怯えぶりからそうだと踏んではいたが。
「お前幾つで死んだんだ?」
「に…二十五…。ううぅ…うっうっ。」
若い身空だ。これから結婚しようって歳じゃねぇか。心底可哀想な奴だ。
硬派なリクオだが、彼にもそれなりに女に対する夢はあった。


泣き止まない邪魅の腰から刀を引き抜き、布団の中へ入れてやる。
何が悲しくて野郎なんざと同衾しなきゃならねぇんだとも少し思ったが、あまりにも哀れでならなかった。
「怖かった…凄く怖かった…。ひっく…すんすん…。」
「寝ろ。野良犬に噛まれたと思って忘れちまえ。」
背中を撫でてやったり、トントンと優しく叩いてやったりする。母親になった気分だ。
「あんなもん物の数に入れるんじゃねぇぞ。家に着いたら俺がいい女紹介してやるから。」
歌も歌ってやる。自分で作詞作曲した自信作だ。
「俺の〜家は〜築二分で〜駅から十五年〜。だけど〜土砂崩れで〜ドカンドカ〜ン。ララルララ〜。ヘイヘ〜イ。」
その歌は二十七分続いた。邪魅は感動した。そしてやがて眠りについた。彼が布団に横になるのは久しぶりだった。
この体になってからあまり眠る必要はなくなったのだが、眠る時はいつも物置のような小部屋に座り壁に背中を預ける姿勢だった。
リクオ様のお手とお声はお優しい。何となく男を愛する男の気持ちがわかるような気がする。わかりたくないが。

夢を見た。見事な満開の桜の下で、定盛様とリクオ様が酒をお酌み交わしになり話しておられた。
よろしく頼むと。まかせろよと。

凍えが止まった。

朝が来てどちらからともなく目を覚ました。人間の姿になったリクオが邪魅に言った。
「お早う。ねえ邪魅。僕寝てる間に夢を見たよ。桜の下でお侍とお酒を飲む夢。いい着物着てたからどこかのお殿様だと思う。
何か色々話したんだけど、何を話したか忘れちゃった。」
それを聞いてわかった。ああ、そうか。定盛様がおいで下さったのだ。あの方はずっと私をご覧になっておいでだったのだ。
「う…。」
「はいはい、泣かないの。男でしょ。あ、そういう意味じゃなくて!とにかく泣くのは昨日でおしまい!笑って笑って。」
「はい…。リクオ様、昨夜はまことにありがとう存じました。一生ついて行きます…。」
「うん、こちらこそよろしくね!」
小妖怪達にも昨夜はありがとうと礼を言うと、彼らは泣きじゃくっていた邪魅が元気を出した事に安堵し、笑顔を見せた。
とたとたと軽やかな足音が聞こえて来て障子の前で止まった。お仲間の気配だったので隠れる事はしなかった。
「リクオ様見ーつけたっ!」
現れたのは少女だった。昨夜の事を思い出し、びくりとなって体が固まった。冷や汗が出る。
「あれぇ?この人は誰ですか?」
「新しい組員の邪魅だよ。この土地で生まれた妖怪で、きのう杯交わしたんだ。」
「へー。私、雪女っていいます。よろしくお願いしまーす。」
にこやかな笑顔が愛らしいと思えた。良かった。差し出された手を取り西洋式の挨拶を交わす。握手というやつだ。
「ああ、よろしく頼む。入ったばかりでわからない事だらけだから、色々と教えてくれると助かる。」
「まっかせなさーい!」
雪女は満面の笑みでぶんぶんと繋いだ手を振った後、リクオを朝餉に誘った。
品子様はどうなさっておいでだろう。もうお目はお覚ましになったのか。リクオ様に何かなさらねば良いのだが。
そう思い、彼も姿を消してついて行く事にした。


品子は朝餉の席にいなかった。
「品子ったら寝ぼけて死んだお祖父ちゃんの部屋で寝てたのよ。それで寝違えて。朝早く起きて自分で湿布を貼ったみたいだけど。
まだ痛いから起きられないって。御免なさいね、皆さんが帰る時には挨拶させるから。」
品子の母が困ったような、申し訳なさそうな顔で言った。
「ところで昨日の夜、時代がかった格好をした髪の長いヤンキーの子がいたけど、あの子は…?」
「は?ヤンキー?」
「そんなのうちにいませんけど…。」
「おかしいわね。トイレの場所を訊かれたのよ?もしかして…ど、泥棒だったのかしら!」
泥棒ヤンキー呼ばわりされた本人はしれっと、「きっと夢でも見たんですよ。」と言って海苔の袋をパンと叩いた。
「まあまあ、邪魅は僕たちに恐れをなして逃げ出したんだから良しとしましょう!」
「あんた話が噛み合ってないわよ。」
「うまいっすねこのメシ!家はボロいけど!」
「聞いてないわね…。」
清継と鳥居が無意識に漫才をしているのをカナが笑う横で、雪女は出された料理を一つ一つ妖気で冷やして食べている。
リクオはこのご飯も美味しいけれどやはり母の味が一番などと考えていた。
巻と島はおかわりをねだり、彼らが鱈腹食べた頃に朝餉の時間は終わった。

全員の帰り支度が済んだ頃、品子が起きて来てリクオを呼び問いかけた。
「邪魅は何処?」
「さあね。」
冷徹な目で一蹴するリクオを見て、邪魅はこの方は人間のお姿の時もこのようなお目をなさるのかと感じ入った。
「邪魅は私の事が嫌いなの?」
「さあね。」
「教えて!」
「教えないと死ぬの?いいよ、死んでも。」
「……。」
「死んでよ。ほら、早く。」
「私は…いけない事をしたの…?」
「したんだよ。命を獲られて当然の事を。僕が君を生かしたのは邪魅を生かす為だ。」
「……。」
「邪魅は連れて行くから。じゃあね。」
「待って、奴良君!」
「何?」
「…邪魅に…私が謝っていたと伝えて…。それから…ずっと好きだって。抱いてくれてありがとうって…。」
「やってしまう前に止まって欲しかった。君の傷は時間が経てば治るけど、彼の心の傷は一生消えない。妖怪の一生は数百年だ。」
「ごめんなさい…ごめんなさい…。ごめん…なさ…。」
顔を覆って泣く品子を見て、リクオは思う。あのまま殺していたら妄執から死後悪霊を経て妖怪化していたに違いない。
空恐ろしい話だ。邪魅もそんな事は決して望まない。殺さなくて良かった。
「死ぬまで反省してよね。君の気持ちは一応伝えておくから。」
「有難う…。」


菅沼邸を後にする清十字団を前にした品子は明るかった。そのように振舞っているだけで、後でまた泣くのだろう。
初夏の陽光が降り注ぐ。やわらかに吹く風は潮の香を運び、ここが海辺の町である事を物語りながら木々の枝葉を揺らしている。
生まれ育った愛しい土地の風景をを心に焼き付ける。離れるのは寂しいが、あのお優しい新たな主の元での新たな暮らしが待っている。
身命を賭し誠心誠意お仕えしよう。かつて定盛様にそうしたように。

主が変われど思いは変わらない。時は過ぎ逝て留まる事能わずとも尚。
不滅なのだ。

<灼熱氷土・完>



2009年05月12日(火) 11:55:37 Modified by ID:P3EJOw3Z0Q




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