群青譚詩

初出スレ:5代目182〜

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 土曜日を前にした週末の夕方。
 その日の帰り道、僕はいつもと違う路線の電車に乗り、いつもと違う駅で電車を降りた。
見慣れない街の中を歩き回り、大勢の知らない顔の人達の間を縫うようにして通り抜ける。
夕日に背中を照らされながら、付かず離れず、一人で先を歩いている僕の影が彼女に踏まれた。
外を歩けば自分の影を他人に踏まれ、他人の影を自分が踏んで歩いていることだと思う。
普通なら気にも止めないそんな事も、彼女にとっては気に止める事だったのは間違いない。
僕の隣りを同じ速さで歩いていた先輩が、彼女に気付いて立ち止まる。
僕が知らない彼女の最初の嫉妬で、最初のヤキモチだったのだろう。
 それが2008年の12月、冬のことだ。

 ■

 すっかりと日に焼けて色落ちした薄い生地のカーテンが、ゆらゆらと風に揺れている。
運動場に照りつける夏の陽射し、鳴り止まないセミの鳴き声はどこまでも響いていく。
教室内で団扇を仰ぐ生徒を目にしない日はないし、半袖のワイシャツの袖を更に捲って、
柔らかそうな白い二の腕を露わにした女子生徒達は目の毒であり、目の保養でもある。
涼しい風の入る窓際の特等席で、入道雲の登る群青の空を僕はぼんやりと眺めていた。
「えー、四段活用というのは既にご存知かと思いますが、これは──」
 やたらと礼儀正しい言葉遣いで説明することで有名な古文を担当する年配の男性教師。
黒板にチョークで書かれていく例文を、何人の生徒達がノートに写しているのだろうか。
「この場合はですね、ここで文節の区切りになるので──」
 と、説明の途中で終業のチャイムが鳴った。
それでは今日の授業はここまでです、と告げて教室を出て行く古文の年配教師。
至極退屈で眠たくなる古文の授業が終わった途端、室内が一気に騒がしくなる。
これから一時間の長い休憩時間、昼休み、かっこよく言うとランチタイムだ。
 僕は通学用のトートバッグの中からコンビニの袋を手に取ると、椅子から立ち上がる。
数人の女子生徒達と連れ添い、恐らく学食へ向かうのであろう島田さんを呼び止めた。
「島田さん、この前のお礼」
「わぁ、ありがとねっ!」
 校則違反に触れない程度に染められた茶髪のショートヘアーが、ふわりと風に舞う。

コンビニで買った紙パックの飲み物ひとつで大袈裟なくらい喜んでくれる島田さん。
 先日、財布の中には銀行から下ろしてきたばかりのバイト代の一部の一万円札しかなく、
小銭のない僕が自販機の前で困り果てていると、島田さんが小銭を貸してくれたのだ。
それに対する対等なお礼である。
「朝、買ったからさ、温くなっちゃてるでしょ?」
「大丈夫、大丈夫、学食のおばちゃんから氷もらうから」
 島田さんは胸を反らして──どうしても胸に目が行ってしまう──自慢気な顔で語る。
「それにアップルティーとか、涼介は私の好みがちゃんと分かってるよねー」
 勿論、偶然だ。
「お昼ご飯だしさ、一緒に食べよっ、ね?」
「島田さん、岡本さん達と一緒でしょ。 僕、ちょっと用事があるんだ」
「えぇー」
 あからさまにそうがっかりされても反応に困る。
ほら、島田さんの友達も、なんだか笑いを堪えた様な顔をしているし。
「お昼休みに、お昼ご飯より大事な用事があるの?」
「うん」
「あっちゃあー。 島ちゃん、フラレちゃったかぁ」
「可哀相にね」
 岡本さんと渡さんに茶化された島田さんは、頬を染めて反抗する。
だから、そういう反応をされてしまうと、僕もどういう反応をすればいいのやら。
僕は苦笑いをしながら、また誘ってねとだけ告げると、足早に教室を出て行った。
教室を出たところで、別のクラスの友人の男子生徒に学食へ行こうと誘われたが断った。
夏の陽射しを受けるリノリウムの床、通り過ぎる教室から聞こえてくる生徒達の騒ぎ声。
この学校の校舎の廊下は窓を開けていても風通しが悪く、蒸し暑さが肌に汗を浮かばせる。
 早く彼女に会いたかった、貴重な昼休みの時間、一秒でも長く一緒にいたい。
そう思ってしまうのは、やはり惚れた相手だからに違いない。

 ■

 理科準備室なら分かるが、英語準備室とは一体なにを準備する部屋なのだろうか。
準備室で準備をしなければならないような教材が、果たして英語の授業であるのだろうか。
そんな用途不明の英語準備室のドアをノックすると、どうぞと低く落ち着いた声がした。
キィ──と、準備室の中から、あの古めかしい椅子の軋む音がする。
「失礼します」

 ドアを開けると、廊下と変わらないほどの蒸し暑さと熱気が襲ってきた。
この英語準備室、先生が暑い寒いと文句を言い、エアコンを設置したはずなのだが。
「なんでエアコン、つけないんですか……」
 窓から少し離れた場所に、古めかしい椅子の背もたれに背中を預ける先生がいた。
「ほら、この方が夏らしいでしょう?」
 窓際に吊された鯉の描かれた風鈴と、昭和を感じさせるデザインの扇風機とを指差した。
ちょうど窓から風が入り、ちりんちりん──と、風鈴がその風流な音色を響かせる。
まぁ、八畳程のこの部屋なら、窓から入る風と扇風機の風に当たれば涼しいかもしれない。
それにしても、先生は暑いのが苦手なのだから、素直にエアコンをつければいいのにと思う。
黒のタイトスカート、シワひとつない白いワイシャツは胸元の第二ボタンまで開けられて、
薄紫のキャミソールが──先生の“比較的”大きな胸の谷間も──見えてしまっている。
 あの先生がこんなにだらしない服装をするとは、間違いなく暑いに決まっているのだ。
「先生」
「なにかしら」
「暑いんじゃないですか?」
「伊藤くん」
「はい」
「今朝、コンビニのビニール袋に入れていたアップルティーはどうしたのかしら。
 私はお昼ご飯の時に持ってくるのかと思っていたのだけれど、そうじゃないみたいね」
 しまった、そうきたか。
「……なんで知っているんですか?」
「今朝、廊下で君のことを見たのだけれど、手にはコンビニのビニール袋が下げられていたわ。
 それとこの前、君は島田さんに自販機でジュースをおごってもらったとも言っていたわね」
「それはおごってもらったんじゃなくて、小銭がな」
「三時限目の英語の授業で、私が伊藤くんの教室へ行った時」
 僕の弁明は無視された。
「まだコンビニのビニール袋はあったわよね、鞄と一緒に。 勿論、中のアップルティーも。
 伊藤くんは人から受けた恩を忘れない優しい男の子だし、別に私は君が誰と何をし──」
「あれは島田さんにあげました」
「──伊藤くん」
「はい」
 先生が背もたれから身体を起こすと、キィ──と、椅子の軋む音がした。
先生は無言でビニービニーの黒い鞄の中から未開封のペットボトルの紅茶を取り出した。
準備室にひとつしかない白い正方形の机の上に、氷の入った透明なグラスが置いてある。

僕が来る少し前に用意されたものだろう、まだグラスの中の氷はそれほど溶けていない。
先生はペットボトルのキャップを開けると、その冷えたグラスに紅茶を注ぎ込んでいく。
カラン──と、グラスの中の氷の揺れる涼しげな音が、二人しかいない準備室に響く。
グラスの紅茶は陽射しを受けて、白い机にゆらゆらと揺れる飴色の美しい影を落とした。
 そして、先生はグラスを手に取ると紅茶を飲んでいく。
グラスを傾け、先生の白い喉が少し反らされ、こくんこくんと紅茶を飲んでいるのが分かる。
「──ん、美味しい」
 蒸し暑い校内を急いで来た僕には拷問だった、いろいろな意味で。
「先生」
「なにかしら」
「喉が渇きました」
「ごめんなさい、伊藤くん。 コップがひとつしかなくて」
 ニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべながら言わないでほしい。
先生の細くて綺麗な指が、円形のグラスの縁をなぞる様に撫でる。
「先生」
「なにかしら」
「今度、ちゃんと先生にもアップルティー、買ってきます」
「あら、そう。 ありがとう」
 澄まし顔の先生はまた一口、紅茶を飲む。
「だから、その、友達になにか買ってきてあげただけでヤキモチとか焼かな」
「伊藤くん」
「はい」
 お気に入りの古い椅子を軋ませながら、先生は僕の方に向き直る。
「伊藤くんは私とお付き合をしています、恋人関係です、間違いありませんね?」
「間違いありません」
「私が他の男子生徒と仲良く話しをしながら二人で歩いていたら、君はどう思うかしら?」
 先生が、他の男子生徒、僕以外の男と楽しそうに話しをしながら歩いていたら──。
「──すっごく、嫌です」
「どう、分かってくれたかしら?」
「……あぁー、はい。 よく分かりました」
「そう、ならいいわ」
 僕の答えに満足したのか、先生は机の方に向き直った。
それにしても暑いわね、なんて言いながら、机の上に置いてあった団扇で仰ぎ始める。
今日はこの夏で一番の猛暑らしいですよ、と壁にかけられた温度計を見ながら僕は言う。

カーテンが風に揺れ、入口の隅に鎮座する大きな古時計の針の動く音が準備室に木霊する。
先生が紅茶を飲もうとしたその時、何かを思い出したかの様に先生の動きがピタリと止まった。
「──あ」
「あ?」
「喉の渇きを主張する私の恋人がいます」
 なんだろう、先生が僕を見つめながらニヤリと意地の悪い笑みを浮かべている。
「喉が渇いているのよね、伊藤くん」
「はい」
「ちょっと、こっちに来てくれるかしら」
 そう言って、先生は自分の座る椅子の隣りを指差した。
素直にそれに従い先生の隣りへ行くと、先生はすっと椅子から立ち上がった。
こうして先生と並ぶとよく分かるが、先生は僕より目の位置が少しだけ高い。
 まぁ、先生は大人で僕はまだ十七だし、背丈の差はあって当然だと思う事にしている。
そう言えば、先生との歳の差は今年でちょうど十歳だったかな、と唐突に思い出す。
「喉、渇いているのよね?」
「はい」
 再び確認してくる先生。
一体何なのだろうかと訝しんでいると、先生は机の上のグラスを手に取り、紅茶を飲んだ。
また自分だけ飲むんですかと、心の中で苦笑いをしながらツッコミを入れていたら、
冷えたグラスを持つ先生の右手が急に僕の背中へと周り、その身体を抱き寄せられた。
「わっ、ちょっと、先生!」
左手は僕の頭の後ろへと添えられ、先生と僕の身体が服越しにぴったりと密着する。
この蒸し暑さのせいだろうか、少しだけ頬を紅潮させた先生の顔が僕の目の前にあった。
香水の香りが微かに漂う、頭がくらくらしてくるこの匂いは僕の好きな先生の匂いだ。
後頭部に添えられた先生の左手に促されて顔を近付けると、先生の唇と僕の唇が触れ合った。
「──っ!」
 瞬間、僕の口の中にとても冷たくて甘い液体が流れ込んできた。
訳も分からず気が動転している内に流れてくるそれを、無意識にこくこくと飲み干していく。
先生が口の中に含んでいた紅茶なのだと気付くまでに、やたらと時間が掛かってしまう。
「──ん、ん、……はぁ」
 口の中の紅茶を全て僕の口に流し込んで、舌を絡ませあってから唇を離す。
ぬらりとした先生の舌の感触がたまらなくエロくて、すごく興奮した。
「せっ、せんせっ……」

 余りの出来事に呼吸が乱れ、僕が息を整えている間に先生はまた紅茶を口に含む。
そして、ゆっくりとまた僕に口づけをし、含んでいた紅茶を流し込んでくる。
先生の細い腰に回した僕の両手は震え、先生の白いワイシャツがシワになるほど強く握る。
先生はグラスに紅茶を継ぎ足すと口に含み、僕が何か言う前にその唇を合わせてきた。
こくこくと紅茶を飲まされる度に、暑さだけではない理由で頭の中がぼーっとして、
気が付いたら僕の身体は先生の両手に支えてもらわないと立っていられない程だった。
「……はっ、はぁ、ん、……はぁ、せんせっ、せんせぇ……」
「もっと飲みたい?」
「……は、ぃ」
 先生はニヤリと笑い、またグラスを傾けて紅茶を口に含んだ。
僕の身体は限界を迎えており、先生の口から流し込まれる紅茶も上手く飲む事が出来ず、
僕の口の端からは飲みきれなかった飴色の紅茶がツーっと垂れ、喉を伝い滴り落ちる。
肌を滴るひんやりとした紅茶の雫を先生の舌が受け止め、ゆっくりと舐めとられる。
舌は首筋を零れ落ちた紅茶の軌跡を上へと辿り、僕の唇の端に到達する。
「ん、あぁっ……、せん、せっ……」
 耳朶を甘噛みされてやっと終わりかと思えば、今度は反対側の首筋を舐め始める先生。
先生の責めにビクビクと反応を示す僕の身体は、まるで自分の身体じゃないようだった。
先生に抱き締められながら快感に襲われる僕は、女の子みたいな喘ぎ声を漏らしてしまう。
死ぬほど恥ずかしいのだが、先生にされているからだと思うと、喘ぎが止まらなかった。
「も、もっ、ダメっ……!」
「何が駄目なのかしら?」
「はぁ、はぁ……。 せんせぇ、ダメ、やめっ……、くださ……」
「あら、そうだったの」
 意外だわ、と言った顔をする先生。
今まで散々、好き勝手に責め続けていた僕の身体を、先生はあっさりと解放する。
未だ足腰に力の入らない僕の身体は、冷たい床の上にゆっくりとへたり込んでしまった。
呼吸を落ち着かせて顔をあげると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる先生と目が合った。
「はぁ、……ぇ、あ、せんせ……?」
「駄目と嫌がられてしまったようなので、やめてあげます」
「え……、ちょ、ちょっと、せんせ……」
 先生はとても満足気な顔で言う。
「伊藤くん、ご馳走様」

 いや、あんなことをしてご馳走様って、なんだかとてもイヤらしい表現じゃないですか。
こんな気分のままで終わらされるとは、焦らしプレイか放置プレイかなにかに違いない。
僕の脚の間に割って入り、脚を絡めてきていた先生の太股に僕の硬く膨らんだモノが強く、
それはもう強く押しつけられていたのだ、先生も僕の股間の昴ぶりに気付いているはずだ。
「さ、最後まで、して……、下さい……」
 先生としたい、やりたい。
その欲求は僕を大胆にして、けれど恥ずかしさに耐えて消え入りそうな声で懇願する。
それに対して、駄目よ、と冷たく言い放ちクスクスと笑う先生の姿はまさに悪魔だ。
「そんな泣きそうな顔をしても、してあげないわよ」
 可愛いけれどね、と小声で付け足してくる先生。
「もう昼休みも終わりでしょう、それに学校で性行為はしません」
「そ、それなら、今日! 今日、学校が終わったら、その……。
 せ、先生の家でしてくれませんか、続き……」
 一体、この時の僕はどんな顔で先生を求めていたのだろう、あまり想像したくない。
「駄目──と、言いたいところなんだけど」
 先生は腕を組み、わざとらしく悩む仕草をして見せた。
「私だって、今、我慢しているのよ」
「……先生」
「伊藤くん」
「……はい」
「今日の放課後、駅前の東口で待っていてくれるかしら?
 私も仕事が終わったら、なるべく早くに行くから」
「は、はいっ!」
 僕が返事をしたその時、チリンチリン──と、窓際に吊された風鈴が風に揺れた。
窓から見える群青の空はどこまでも美しく、うるさいくらいの蝉の声はどこまでも響いていく。
先程まで僕と先生が絡み合っていた準備室は、何事も無かったかの様にいつも通りだった。
風に揺れる風鈴の音、蝉の鳴き声、隅にある大きな古時計の針が刻む音、それだけである。
行儀悪く机に腰掛けて足を組む先生が僕の名前を呼び、もう直ぐ夏休みね、と呟いたが
その声に僕は気付かず、風に揺れる先生の綺麗な黒い髪、その美しい横顔に見蕩れていた。
僕はゆっくりと立ち上がると、机に腰掛ける先生の隣りに同じようにして腰掛けた。
「──先生」
「ん?」
「大好きです」
「奇遇ね。 私も大好きよ、涼介」
「嬉しいです」
「それで、私のことはどれくらい好きなのかしら?」
 上目遣いでそう言いながら、先生の身体が僕の身体にそっと寄りかかってくる。
おずおずと左手を先生の肩に回して抱き寄せてみると、先生の頭が僕の肩に乗せられた。
その時の先生の顔がとても幸せそうに見えたのは、僕の見間違いじゃないと思いたい。
 あんなにうるさかった蝉の鳴き声が、今はすごく遠くに聞こえた。
 それが2009年、7月のことである。

 ■群青譚詩 終



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2011年05月17日(火) 16:49:56 Modified by ID:2C3t9ldb9A




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