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【定義】

道元禅師の門下であり、後に懐弉禅師の弟子・法嗣(諸説ある)となって、後に永平寺4世として入った。

生没年:?〜正和3年(1314)
出身地:不明
俗 姓:不明

【略歴】

元々は、越前(現:福井県)の波著寺で日本達磨宗の懐鑑の下で仏法を学び、仁治2年(1241)に初めて道元禅師に謁して、弟子となった。

道元禅師の生前中、永平寺に移ってから侍者として仕え、特に『永平広録』を編集する場合には、5〜7巻について中心的役割を果たした。

道元禅師が示寂した後は、永平寺2世となった懐弉禅師に就いて学び、悟りを開いたという伝記資料も存する。しかし、果たして義演禅師が懐弉禅師から嗣法したかどうかは古来から記述が分かれる。古い伝記資料である『三祖行業記』などでは義介禅師や義尹禅師は「付法弟子」となっているのに対し、「伝戒弟子」と記述が変わっているためである。

また、兄弟子である徹通義介禅師の後で、永平寺4世の住持となった。この時期についても不明な点が多いのだが、『三祖行業記』の記述によれば、義介禅師は弘安10年(1287)に永平寺を追放されており、その頃であろうとも推定される。また、後に瑩山禅師はこの義演禅師から『仏祖正伝菩薩戒作法』を受けたのが正応5年(1292)であるため、遅くともその時期までは住持となっていたのだろう。

晩年は永平寺の経営を維持できず、報恩寺に退き、そこで正和3年10月26日に示寂したとされる。

【特記事項】

義演禅師は、古来より三代相論という初期永平寺僧団内で発生した騒動で中心的役割を果たしたともされるが、現在では様々な点から調査が進み、古来の位置付けから徐々に変化の兆しが見える。

【著作】

・義演禅師には目立った著作はないが、『永平広録』の編集に功があり、懐弉禅師を助力して、『正法眼蔵』の書写などの任に当たっている。

【論文】

・横山和弘「10 義演」(『道元思想のあゆみ1』吉川弘文館、所収)
現存するのが数少ない、義演禅師に関する史料を丹念に当たって、それまで不明な点が多かった伝記を完成させた労作である。

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