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【定義】

元々は日本達磨宗の僧であったが、後に興聖寺道元禅師に参じるようになる。名前は覚禅とも。弟子に、永平寺3世となる徹通義介禅師などがいる。

生没年:不詳だが、没年は一説に建長3年(1251)8月15日とも、建長3年の冬だともされている。
俗 姓:不詳
出身地:不詳

【内容】

生年や俗姓、出身地などの一切が不明である。しかし、長じて達磨宗仏地覚晏に参じて、道号を覚禅とも称したという。覚晏に参じた時期の詳細は不明だが、孤雲懐弉禅師の法兄に当たるため、懐弉禅師が参じたらしい貞応2年(1223)よりは前であろう。

覚晏には数人の弟子がおり、特にそれらのものは名前の一字に「懐」を用いたようである。懐鑑・懐弉懐義尼などがそれに当たる。懐鑑は特に覚晏の上足として、日本達磨宗に伝えられていた中国の拙庵徳光から伝えられた嗣書血脈舎利や経教などを継承して、日本達磨宗三祖となった。

しかし、日本達磨宗が主たる活動場所としていた、大和多武峰の妙楽寺が、奈良・京都の寺院抗争に巻き込まれ焼き討ちされたため、越前(現・福井県東部)の波著寺に移ることとなった。そして、越前で名前が通るようになり、それは『三祖行業記』で道元禅師が「故鑑公は当国の名人である。汝(=義介)、また長嫡たること、国人多く知る」とされていることからも明らかである。

さて、懐鑑の下には、寛喜3年(1231)に、波著寺の地元に住んでいた義介禅師が出家して「義鑑」と名乗り、他にも義演義準などの弟子が参じ、波著寺僧団を作っていた。

ただし、懐鑑はその後、法弟である懐弉禅師が道元禅師に信任されている様子を見たためか、自らも波著寺僧団を引き連れて道元禅師に参じた。仁治2年(1241)のことである。

この後、道元禅師が越前に移るに当たっては、懐鑑も多大なる貢献をしたこと疑いなく、そのためかは不明だが永平寺では首座にまで任じられている。そして、その首座であったとき、覚晏のための上堂を行ってもらうように道元禅師に頼み、それは以下のようなものであった。
懐鑑首座先師覚晏道人の為に上堂を請する。拈香罷、座に就いて払子を取って云く「前来の孝順、誰人か斉肩ならん。今日の廻向、聖霊炳鑑すべし。弟子が先師を仰ぐの深き志、先師独り知る。先師、弟子を憐れむの慈悲、弟子一識る。余人焉ぞ知らん、外人未だ及ばず。所以に道う「有心もって知るべからず、無心もって得るべからず、修証もって到るべからず、神通もって測るべからず」と。這田地に到って如何が商量せん。卓、拄杖?して云く「唯、拄杖有って了々常に知る。拄杖甚と為てか了々常知するや。職として、過去の諸仏も也、恁麼、現在の諸仏も也、恁麼、未来の諸仏も也、恁麼。然も是の如くなりと雖も、這箇は是、仏祖辺の事、作麼生か是、知恩・報恩底の道理」と。良久して云く、哀れなる哉、昔日一団の空。眼華を悩乱して、大地紅なり。血涙胸に満つ、誰に向かってか説かん。只、憑む拄杖?善く流通せんことを。這箇は是、知恩・報恩底の句。作麼生か是、仏祖向上の事、と。拄杖?を階前に擲下して下座。『永平広録』巻3−185上堂

以上に見てきたように、道元禅師は懐鑑が覚晏の弟子であることを認めており、そのための上堂を懐鑑が請うたということになる。しかし、懐鑑はこの後、道元禅師が宝治元年(1247)8月3日に鎌倉へ下向する頃に波著寺に戻ってしまうのである。

その後は、懐鑑は波著寺にいたようで、基本的に義介が波著寺と永平寺を往復しながら、道元禅師との交流を持っていたようである。このような別れてしまう理由としては、基本的な教義の同異問題も考えられている一方で、結局道元禅師は自らの弟子を懐弉禅師に定めており、懐鑑はその意味では懐弉の下風に甘んじるほか無かったことなど、様々に考えられている。なお、この問題は『御遺言記録』という、道元禅師の最晩年の会話を記録した(偽書とも言われているが)ものに以下のような言葉で現れる。
義介白して言く、「故鑑師は、其の次いでに申されて言く、「我れ堂頭和尚嗣書有るを聞く」と」(深草に於いて僧海首座円寂の因、此の事を聞く)先年、拝見し奉るの時、堂頭和尚示して云く、「尤も然る可し。但だ閑人に障有りて、自然に便宜を期す可し云々。之れに依りて心中に其の事相待すると雖も、虚にして一生を終らんと欲す、生涯の恨みは只だ之れに有り。若し汝に仏祖冥助有らば、嗣書を拝見するの時、彼の功徳を以て必ずや先ず我に廻向す可し。我れ当に初め東山辺に有りて此の血脈を伝えん。未だ堂頭嗣書を拝見せざるは尤も恨みと為す。我れ今伝うる所の血脈は、唐の阿育王山の住持、仏照禅師自り津国三宝寺の能忍和尚に相伝の末なり云々」

ここから、懐鑑は道元禅師が伝えている『嗣書』を拝見したいと願っていたが、道元禅師はそれを許さなかったようである。そして、もし義介がそれを見たのならば、その仏縁をもって自分に回向して欲しいと願ったのである。この後、懐鑑は死に臨み、義介に対して日本達磨宗で伝えられていた『嗣書』などを授け、示寂したと伝えられている。なお、示寂した後、弟子であった義準が、道元禅師に対して、懷鑑追悼の上堂を求めている。その詳細は、「義準」項参照。

このページへのコメント

懐鑑が道元のもとで、首座をしていた時期は、いつからいつまでだと考えておられますか?

前任は誰、後任は誰?

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Posted by 得丸久文 2021年10月18日(月) 00:02:02 返信数(1) 返信

> 得丸久文 さん

ご質問の件ですが、そもそも、現代の曹洞宗と同じような位置付けと考えることは困難であり、懐鑑首座の件については、以下のことしか分かっておりません。

・寛元4年(1246)夏安居罷に「懐鑑首座」と呼称されていたこと。

以上です。当時の首座は、役職上に於ける首座と、僧侶個人の呼び方としての首座と2つあり、懐鑑がどちらであったのかは、記録上判然としておりません。

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Posted by  turatura turatura 2021年10月18日(月) 04:22:42
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