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タグ検索で懐弉は21件見つかりました。
光明蔵三昧
日で、道元禅師の遷化された日に一致する。懐弉禅師が、81歳という最晩年であったが、自らの寿命を考えて、先師への追慕の念によって書かれたものとも推定される。 &color(blue){''【開版の由来】''} 現在見ることが多いのは、[[面山]]が明和3年(1766)に公刊した刊本であるが、本書は久しく永平寺に秘蔵されていたらしい。面山が入手した経緯について、次のように述べられている。 ''上毛の東海老宿有りて、此の一巻(=光明蔵三昧)を以て、余(=面山)に付属して自ら謂く「二十年前、越の祖山(=…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%f7%cc%c0%c2... - 2007年01月09日更新
達磨宗
りとなった。その中でも、高弟であった[[懐弉]]は[[興聖寺]]に[[道元]][[禅師]]を尋ね、弟子入りしている(正式な弟子入りは、文暦元年[1234])。 さらに[[覚晏]]の弟子であった[[懐鑑]]は、越前[[波著寺]]を拠点として活動していたようだが、門下であった[[義介]]・[[義演]]・[[義準]]などを引き連れて道元禅師に弟子入りし(仁治2年[1241]とされる)、彼らは成立当初の[[日本曹洞宗]]の初期にあって重きをなしている。 ただし、日本達磨宗の教義と、道元禅師の宗教思想とは、[[…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c3%a3%cb%e1%bd... - 2007年12月31日更新
道荐
&color(blue){''【定義】''} [[懐奘]][[禅師]]に師事し[[法嗣]]となった、初期永平寺僧団に所属した僧侶。美濃の西願寺に住し、また同国衆林寺の[[開山]]になる。 生没年:?〜正応2年(1289) 出身地:不明 &color(blue){''【内容】''} 道荐禅師の名前は、『三祖行業記』「懐奘禅師章」で、懐奘禅師の伝戒弟子に見えるが、詳細は『日本洞上聯灯録』巻1「道荐禅師章」に見られる。その内容は、高野山にて[[出家]]した道荐禅師は、秘儀の潅頂法を習い、阿字観を修めてい…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c6%bb%e8%a8... - 2021年07月18日更新
懐弉
後を嗣いで[[永平寺]]2世として住した懐弉(えじょう・懐奘とも)[[禅師]]のこと。[[道号]]は孤雲ともされるが、古伝には見えない。諡号は道光普照国師。 生没年:建久9年(1198)〜弘安3年(1280) 出身地:京都 俗 姓:藤原氏(九条家系) &color(blue){''【略歴】''} 藤原氏に生まれた懐弉禅師であるが、史伝では「九条大相国」と称された藤原伊通(1093〜1165)の曾孫であるとされる。比叡山横川に円能法印に就いて[[出家]]し、建保6年(1218)に[[菩薩戒]]を受けた…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%fb%d7%b2... - 2020年08月24日更新
懐鑑
晏に参じた時期の詳細は不明だが、孤雲[[懐弉]]禅師の法兄に当たるため、[[懐弉]]禅師が参じたらしい貞応2年(1223)よりは前であろう。 覚晏には数人の弟子がおり、特にそれらのものは名前の一字に「懐」を用いたようである。懐鑑・[[懐弉]]・[[懐義]]尼などがそれに当たる。懐鑑は特に覚晏の[[上足]]として、日本達磨宗に伝えられていた中国の拙庵徳光から伝えられた[[嗣書]]・[[血脈]]・[[舎利]]や経教などを継承して、日本達磨宗三祖となった。 しかし、日本達磨宗が主たる活動場所としていた、大和…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%fb%b4%d5... - 2008年07月03日更新
三祖行業記
祖]][[道元]][[禅師]]・二祖[[懐弉]]禅師・三祖[[義介]]禅師の3人の伝記としては、最古のもの。撰者や成立年代については奥書も識語もないため不明であり、また応永年間(1394〜1427)には存在していたことが知られている(1399年成立『[[仏祖正伝記]]』に引用される)が、詳細は不明である。異本として『[[三大尊行状記]]』があり、また『[[伝光録]]』や『[[建撕記]]』との対応も考えなくてはならない。 &color(blue){''【内容】''} 道元禅師・懐弉禅師・義介禅師の3人に…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b0%c1%c4%b9... - 2007年02月23日更新
懐奘
こと。なお、直筆と伝わる文書には、懐奘・懐弉ともに表記が確認されているが、懐奘が実際の表記であろうと考えられている。ただし、当Wikiでは、先に[[懐弉]]を立項した関係で、そちらをご参照願いたい。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%fb%d4%f9... - 2017年04月18日更新
三大尊行状記
の[[初祖]][[道元]]禅師・二祖[[懐弉]]禅師・三祖[[義介]]禅師の3人の伝記としては最古のものとされる『[[三祖行業記]]』の異本。長い年月にわたり、書写伝承される間に字句に異同が生じたものと推定されており、基本的には同一。成立年代については奥書も識語もないため不明で、撰者についても「門人集記」とされているものの、詳細は不明。 また、『[[三祖行業記]]』などでは、各祖師の名前を比較的おとなしめに「初祖道元禅師」「二祖弉禅師」「三祖介禅師」と表記されるだけだが、『三大尊行状記』ではそれぞれ「越…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b0%c2%e7%c2... - 2007年02月23日更新
正法眼蔵随聞記
行]]に於ける用心を説示された内容を[[懐弉]][[禅師]]が記した[[語録]]とされる。 &color(blue){''【内容】''} 全六巻であり、写本によって編集が異なる。面山本にとっての六巻目が、長円寺本にとっての第一巻であり、その後の巻は全て一つずつずれている。 内容は、[[懐弉]][[禅師]]が道元禅師と[[仏法]]に関する対話をされた内容を事細かに記したものである。[[修行]]の用心をはじめ、特に[[大乗仏教]]では[[持戒]]に関して注意を必要とするが、道元禅師は具体的で身近な例や故…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c0%b5%cb%a1%b4... - 2008年08月22日更新
義介
、その後、[[永平寺]]2世となった[[懐弉]]禅師に[[嗣法]]し、その後を嗣いで同寺の3世として住し、さらに加賀[[大乗寺]]を開いている。号は徹通、名は義介。別に[[義鑑]]とも称する。弟子に、[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]を輩出した。 生没年:承久元年(1219)〜延慶2年(1309) 出身地:越前国丹生郡北足羽郷 俗 姓:藤原氏 &color(blue){''【略歴−誕生から道元禅師の下での参学】''} 承久元年2月2日に越前国丹生郡北足羽郷にて、藤原氏に生まれた[[義介]][[禅師]]は、…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%b2%f0... - 2008年03月02日更新
義尹
[禅師]]の[[門下]]であり、後に[[懐弉]]禅師の弟子・[[法嗣]](諸説ある)となって九州地方に[[曹洞宗]]を広めた。号は寒巌(かんがん)。後の[[法系]]は[[寒巌派]]、[[法皇派]](法王派)などと呼ばれた。 生没年:建保5年(1217)〜正安2年(1300) 出身地:京都 出 生:後鳥羽天皇の実子とされてきたが、近年の学説では順徳天皇の実子とされる。 &color(blue){''【略歴】''} 天皇家の落胤であったことから、世に[[法王長老]]などと呼ばれた義尹禅師は、幼いときに比…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%d5%fa... - 2007年12月02日更新
義演
[[道元]]禅師の門下であり、後に[[懐弉]]禅師の弟子・[[法嗣]](諸説ある)となって、後に[[永平寺]]4世として入った。 生没年:?〜正和3年(1314) 出身地:不明 俗 姓:不明 &color(blue){''【略歴】''} 元々は、越前(現:福井県)の波著寺で日本達磨宗の[[懐鑑]]の下で仏法を学び、仁治2年(1241)に初めて[[道元]]禅師に謁して、弟子となった。 [[道元]]禅師の生前中、[[永平寺]]に移ってから[[侍者]]として仕え、特に『[[永平広録]]』を編集する場合…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%b1%e9... - 2006年11月28日更新
秉払
。[[道元]][[禅師]]の下では、[[懐弉]]禅師が[[興聖寺]]最初の[[首座]]になったと伝えられている。 ''嘉禎二年[[臘月]][[除夜]]、始めて[[懐弉]]を[[興聖寺]]の[[首座]]に請ず。即ち[[小参]]の次、秉払を請ふ。初めて首座に任ず。即ち[[興聖寺]]最初の首座なり。『[[正法眼蔵随聞記]]』巻5−4''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e3%bd%ca%a7... - 2007年10月04日更新
宝慶記
'42・初心後心得道'' ''後書 [[懐弉]]と[[義雲]]の奥書'' このように、「坐禅時の注意点」「[[身心脱落]]の内容」「経行法」「経典の読み方」「威儀の基本」「礼拝偈」等々が記されている。なお、上記文献では、42問にしているが、古来からは50問といわれてきた。その数え方を行うものとして、『日本禅籍史論』では、問答28、慈誨22と数える。道元禅師は、特に如浄禅師にお願いしてこうした質問をする許可を得たのであるが、その経緯が「宝慶寺本」等に記載されている。 ''道元、幼年より菩提心を発し、本…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%f5%b7%c4%b5... - 2008年01月07日更新
侍者司
又侍者司に居す。 『[[伝光録]]』[[懐弉]][[禅師]]章''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%f8%bc%d4%bb... - 2012年02月26日更新
侍者
道元禅師の元では、[[詮慧]]禅師・[[懐弉]]禅師・[[義演]]禅師などが侍者として『[[永平広録]]』を編集したことが知られている。ただ、それでも特に懐弉禅師が専門的に侍者を務めていたことが明らかになる。 ''[[聴許]]ありしより後、相随ふて一日も師を離れず、影の形に随ふが如くして二十年を送る。設ひ諸職を補すと雖も、必ず侍者を兼ぬ。職務の後は又[[侍者司]]に居す。 『[[伝光録]]』懐弉禅師章''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%f8%bc%d4... - 2007年06月02日更新
義準
る。[[道元]]禅師が亡くなった後、[[懐弉]]禅師に参じてその力量を認められたともいうが、最終的には高野山に登り、名前を義能と改めて、播磨の加古郡に無量寿院を開いたという。 生没年:不詳 俗 姓:不詳 出身地:一説に越後の人とも。 &color(blue){''【内容】''} 元々日本達磨宗の[[懐鑑]]に弟子入りしたが、後に比叡山に登って経律論の三蔵、そして天台教学を学んだとされている。また、[[興聖寺]]にて[[道元]]禅師に参じた。 [[道元]]禅師が越前に移ると、[[興聖寺]]にとどまっ…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%bd%e0... - 2006年10月10日更新
仏僧
(blue){''【定義】''} [[懐弉]][[禅師]]に師事し[[法嗣]]となった、初期永平寺僧団に所属した僧侶。仏聴とも呼ばれ、また僧首座とも呼ばれる。 生没年:不詳(懐弉禅師が[[示寂]]した1280年の後、3年以内に[[遷化]]との説あり) 出身地:近江の人 &color(blue){''【内容】''} 母が夢に、インド僧が錫を振って堂に入り、そして[[三帰戒]]を授けてくれたという。目覚めると、仏僧が生まれていた。仏僧が成長すると、世俗を超えるような意趣を見せるようになり、自ら[[仏性…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%a9%c1%ce... - 2009年08月20日更新
義信
が、道元禅師は自らの後継者を、早々と[[懐弉]]禅師に定めていたらしく、その下風に甘んじることを余儀なくされた。 ''元和尚の会裏に、諸[[頭首]]の[[秉払]]を許さず。〈中略〉義信首座、才有り言有り。一会に肩を斉しくする無し。秉払を望むと雖も、元、許さず。 『[[三祖行業記]]』「懐弉禅師章」''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%bf%ae... - 2010年12月03日更新
弉公
】''} [[永平寺]]二世の孤雲[[懐弉]][[禅師]]のこと。懐弉公を略して、弉公と呼ぶ。 ''弉公問ウテ云ク、[[叢林]][[学道]]の[[儀式]]は百丈の[[清規]]を守るべきか。 『[[正法眼蔵随聞記]]』巻2-1''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%d7%b2%b8%f8... - 2008年10月28日更新