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【定義】

僧尼の登録、僧官の任免など、僧侶たちの様々な録事を司る官職のこと。

【内容】

もともと、中国では仏教についても、僧録を置いて一種の官僚化を目指したが、それは日本でも取り入れられた。ただし、日本に於ける僧尼の管理については、律令の「僧尼令」が基本になっていた。南都仏教や平安仏教では、基本的に僧尼令にしたがっている。

しかし、禅宗が興隆してくるのに合わせて、幕府が積極的に帰依してくると、従来の制度に代わるものとして僧録を置いた。足利義満は初めて、相国寺の春屋妙葩を僧録に命じた(康暦元年[1379])が、五山十刹以下の禅寺の住持を定める役割を行わせたためであった。

以来、禅宗では僧録が政治と宗教との関わりを把握するようになり、200年以上、江戸時代の金地院崇伝に到るまで、僧録が置かれている。

曹洞宗では、基本的に五山十刹と関わりがない林下であったが、後円融天皇が応安年間(1368〜74)に丹波永澤寺?通幻寂霊を僧録に命じ、更に後花園天皇が嘉吉年間(1441〜3)に奥州瑞徳寺の笑巌慧忻を奥羽二州の僧録に任じられた。

戦国時代に入ると、各地に群雄割拠した戦国大名は領国内の寺院統制のために、領域内の僧録を置いている。最終的に戦国時代を統一することになる徳川家では、僧録を積極的に用い、天正11年(1583)には可睡斎?を、駿河・遠江・三河という東海僧録に任じ、さらに江戸時代に入った慶長17年(1612)には、徳川幕府の宗教政策によって、各藩毎に僧録が置かれ、藩内の寺院の統括をさせた。総寧寺・龍穏寺・大中寺が関三刹となった。

さらに、總持寺五院が中心となって、寛永6年(1629)6月に、大僧録及び全国に録所を設置している。ここで、先の関三刹可睡斎?を大僧録(可睡斎は東海道大僧録)に任じ、上野・信濃・越後・佐渡について上野双林寺を僧録頭に命じることで、基本的な統制を確立している。

録所は、当初永澤寺?を始めとして50ヵ寺だったが、延宝9年(1681)には、147ヵ寺にまで拡大されている。

【参考資料】

・横関了胤『江戸時代洞門政要』
・栗山泰音『嶽山史論』

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