最終更新: kyo_miyato 2017年04月28日(金) 20:53:11履歴
織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( 81 )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( 82 )のあたりに建てた。「本能寺の変」により信長が自刃したあと、後継者となった豊臣秀吉が信長の菩提寺として( 83 )を建立した。秀吉は、京都での政権の拠点としての聚楽第建設をはじめ、短冊型の町割、( 84 )、洛中を囲む御土居の建設など京都の大規模な都市改造を進めた。秀吉は死後、( 85 )に葬られ、その山腹に豊国大明神として祀られた。 秀吉の側室の淀殿が、父である( 86 )の菩提を弔うため、( 87 )を建立した。のちに焼亡するが、淀殿の妹である崇源院(お江)が夫の徳川秀忠に願い出て再建し、以来、徳川将軍家の位牌所となった。この寺のある杉戸鐚「白象図」や「獅子図」は( 88 )の作と伝えられ、ユーモラスな表現をしている。 江戸に幕府を開いた徳川政権は、京都を直轄都市とし、( 89 )を京都所司代として、その支配を強めた。また、京都の社寺の復興に努めるとともに、京都産業にも手厚く、特に( 90 )の保護に大いに尽力し、京都は大きく発展するところとなった。 |
(81) 織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( 82 )のあたりに建てた。
(82) 織田信長は、永禄11年(1568)に室町幕府将軍であった( 81 )を奉じて上洛し、将軍のために二条御所を現在の( )のあたりに建てた。
(83)「本能寺の変」により信長が自刃したあと、後継者となった豊臣秀吉が信長の菩提寺として( )を建立した。
(84) 秀吉は、京都での政権の拠点としての聚楽第建設をはじめ、短冊型の町割、( )、洛中を囲む御土居の建設など京都の大規模な都市改造を進めた。
(85) 秀吉は死後、( )に葬られ、その山腹に豊国大明神として祀られた。
(86) 秀吉の側室の淀殿が、父である( )の菩提を弔うため、( 87 )を建立した。
(87) 秀吉の側室の淀殿が、父である( 86 )の菩提を弔うため、( )を建立した。
(88)( 87 )のある杉戸絵「白象図」や「獅子図」は( )の作と伝えられ、ユーモラスな表現をしている。
(89) 江戸に幕府を開いた徳川政権は、京都を直轄都市とし、( )を京都所司代として、その支配を強めた。
(90) また、京都の社寺の復興に努めるとともに、京都産業にも手厚く、特に( )の保護に大いに尽力し、京都は大きく発展するところとなった。
タグ
このページへのコメント
(81)公式テキスト[新]31ページ
(83)公式テキスト[新]123ページ
(85)公式テキスト[新]75ページ