(議論テク)思考に慣れていないことの露呈

■とつげき東北


 英語にある程度慣れた人は、仮に「Recommend」という単語を知らなくても、その発音を聞いて「Rekomendo」と書くことはまずないのと同様に、「考えること」や「議論」や「思想」(以下、ここではこれらを「思考」と呼ぶ)に慣れていれば普通はやらかさない、ある種の間抜けな論法や恥ずべき言葉の用法があるのでいくつか紹介しておきたい。

 以下のようなものがある。
  • 具体的な反例が、容易に、死ぬほど見つかる命題を掲げること(1)
  • 用語の定義のしかたによって、命題が恒真になるか偽になるかを好きなだけ変化させられるような用語・命題を、定義や説明抜きで使用すること(2)
  • 実益と原理とを混同した論法の使用(「役立つから→正しい」のような)(3)
  • 善悪や常識等、一般に信じられているが原理的には誤謬ともとれるものを条件抜きで「当然の前提」として進めようとすること(4)
  • 真であること自体からも、真であることによっても、何の知識も得られない命題を堂々と出すこと(5)
  • 議論が充分に進んでいるのに、いまさら辞書の定義を持ち出すこと(6)
などなど。

 なぜこれらによって「思考に慣れていない」と判断できるのだろうか。

(1)自分で物事を考えたり、ロジカルな態度で思想書を読んでいたりする場合、出てきた命題に対して、色々な反論や反例を想定しながら進めるものだ。いくらでも反例が挙げられるような命題を恥ずかしげもなく掲げるような人は、その種の思考をする習慣がまったくないとわかる。例:「何でも2番がいいんだ」(解説:反例「1番にならないと合格できない試験における2番の残念さ」他多数)

(2)真偽が(ある程度にでも)定まらないなら、ようするにそれは論理ではなくて、文学表現にしか過ぎない。例:「バランスが大事」(解説:何をもってバランスとするのかによるが、最適な点をバランスの良い点だとするのなら、最適な点が最適であり、バランスが大事なことは当然である。逆に、「ちょうど中間」などをバランスの良い点だとすれば、バランスの良い点は最適な点とは必ずしも一致しないので誤りである)

(3)実益があるから正しい、というのは、思い込みがちな思考の流れである(伝統的哲学においてもよくある)。このことに無自覚だと、しょっちゅう誤った結論を出してしまうので、思考するときは特にこうした部分に注意するものである。慣れていない人は、真偽の議論を無意識のうちに価値の議論にすり変える。例:「人を殺すことは『悪い』ことではないって……そんなん言い出したら、世の中めちゃくちゃになる」(解説:めちゃくちゃになるからといって誤りであるとは言えない。核兵器は世界をめちゃくちゃにするかもしれないが、核兵器を作る際に用いられる物理学的理論は正しい)

(4)善悪や常識について真剣に考えたことがない人が、思想等を真面目にやっているはずがない(やっていたとすれば、無能だ……)。現代のどんな思想入門書にも、解説があるだろう。

(5)何か新しい分析ができたり、今まで注目されていなかった細部に光を当てるため、あるいは面白い構造を見抜くため等に思考する。「間違っていない」だけの命題をドーンと掲げるのは、思考し慣れていない人がよくやる。筆者の母親は、「勉強は大事だけど、勉強だけしていればいいかと言えば、そうではない」といったものに代表される空虚な発話を、十何年もの間、ことあるごとに筆者に言い聞かせた。あるいは、筆者と議論している者がしばしば「全ては最終的に個人の主観だ」「自分が楽しければ良い」と今さら言い出したりする。凡庸な関係でのコミュニケーションにおいては、「わかっとる」「もう聞いた」「当たり前やろ」――こういった「ツッコミ」はなされないものだ(互いに空虚な発言を投げかけあい、褒めあったり、考えさせられる?かのように装ったりすることが目的だからである)から、これで通用する、これが真面目な会話だ、と勘違いしているのである。→(解説)名言とギャグ

(6)→辞書によると?

「Rekomendo」と書いてしまった人が、英語への慣れについて周囲から抱かれるであろうある印象と同じ印象を、こうした論法を持ち出す人は持たれる。
2006年01月04日(水) 19:10:25 Modified by totutohoku




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