当たり前

■とつげき東北


 何の根拠もない考えを、当然共有できるべきものであるはずであって相手が理解できないのは相手に常識?がないからだとミスリードするために用いられる場合と、相手が持ち出した理屈が「大したものでない」と印象づけるために用いられる場合とがある(念のために注釈をつけておくなら、本当に相手が大したことのないことを言っている場合も当然ある)。

 前者の例としては、殺害の善悪の問題に関する話題において、議論が白熱してきたにもかかわらず、いまさら「人を殺してはならないのは―だ」などと発言するような状況が挙げられる。

 後者については次のとおりである。
 数学の問題集の答えを見ながら、うんうんそのとおりだ、確かにそう計算できる、などと「同意」しながら最終解にたどり着くのは、よほど学力が劣っていない限り簡単な作業であるはずだ(普通に数学ができる人間なら、東京大学の入試数学の解答を見ながら「納得する」ことは実にたやすい)。ただし、模範解答がない場面で、自分だけの力で解を導くことは、圧倒的に困難である。
 経験的に理解できるはずのそうした事実を忘れ、誰もが気づいていなかった結論を出すという行為に対して、「それは―だ」と一蹴してみせる人物は多い。
 今、お金を入れてボタンを押せば切符が出てくるのは「当たり前」である。回路工学等の理論を学べば、そのような仕組みを作ることさえそれほど難しくはない。だが、それを「当たり前」で「難しくない」と認識できるようにするための根底の考察、研究、あるいは表現にこそ、重要な何かがあるのだ。

※ちなみにこれは、拙著『科学する麻雀』(講談社現代新書)での筆者の記述に対して「ここで示された結論は、上級者には当たり前のことです」などと評する連中がいて、そうした連中が何も結果を出さないこと(麻雀の技術においても、それを明確化することにおいても、もちろん戦術書を出版することにおいても)に対する、筆者の当てつけでもある。
2006年05月07日(日) 03:13:24 Modified by totutohoku




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