数学は答えがひとつ

■とつげき東北


 プログラムが書ける人はコンピュータについて何でもわかる、といった思い込みと同様、きわめて知識が細分化された理科系の分野に対しては、「答えがひとつに定まるからつまらない」という偏見が存在する。このことから、数学や科学は「知識」の領域に属し、逆に文科系の科目においては「創造性」が大事であるとされる。「勉強ができるという意味ではない頭の良さ」といった滑稽な印象は、たとえば上記のような誤解に基づいて形成される。

ひらめき
創造性?

 だがこれは、明らかに誤りである。
 数学を含む理科系の技術を利用する学問は、創造性が大変に重要であり、その「量」は、ブランド化や結果のみが重視される世界での「創造性」よりも、おそらくはるかに深いものである。

 たとえば数学が、かなりの程度の水準で厳密な公理体系と論理によって(つまり数学基礎論や「哲学」的な厳密な観点を除いて)構築されていることは事実であり、ある種の論理なくして数学は成立しない。
 ただし、数学のひとつひとつの問題を解く際に、必ずしも論理的であれば容易に解けるというものではない。入試数学ひとつとっても、論理性さえあれば解ける問題などというのはほとんど出題されないのである。論理は最低限の必要条件であって、十分条件ではないからである。
 入試の証明問題を思い出せばよい。既に正しいことを、どう証明するかが重要なのであって、論理的であれば解けるのではなく、その論理を見つけ出す力が試されるのである。それはひらめき、あるいは練習量または運の問題であって、論理性の問題ではない(論理的に正しいかどうかを検証する方法論は存在するが、正しいはずの論理を一定の方法で導く方法論は現在のところ存在しない)。
 確かに、既にできあがった理論なり体系については、誰もがそれを一定の順序に従って検証可能であるという点で「答えは一つ」であり、後付で当たり前の論証とみなされる。だがその事実は、そこに至る過程が単調な一つの道筋であったかどうかとは無関係である。ちょうど、迷路の道順を知ったあとで迷路を解くことが、いかにも容易であるように。高校数学の教科書を見れば、いくつかの公理から「当たり前」に到達可能と思われる公式が並んでいるではないか。だが、何もない状態から、公理を頼りにそれを見つけ出すことができる人など、ほとんどいないのだ。

 数学屋から見た物理学の「数学」がかなり曖昧であるように、硬い科学分野から見た応用科学は、ずいぶんとずさんな数学を用いている。ただ、だからといって応用科学の分野が劣っているということにもならない。銀行等が用いる金融関係のリスク管理などにおいて、ノーベル賞を取った学者の理論が通用せずに破綻するような例は、それを如実に表している。その世界の実情に見合った方法論が(曖昧さを多分に含んでいても、主要な部分でのモデル化が適切である限り)、必要なのである。
 つまり上記を含んだ広い意味での「数学」は、実際のところモデルの「創造」にこそ本質があるのであって、その方法はまさに十人十色であり、その上結果が客観的に現れるという点においては、適当に何か奇抜な絵を描けば「創造性」であるとされる世界と比較すれば、遥かに高度なそれが要求されるものだ。

(解説)知の原理主義への批判?

 ニュートンの物理学は答えに漸近した優れた(=客観的で答えが一つに見える)ものだったが、アインシュタイン等によって結果的に覆された。数学(や科学)は答えが一つである、というのは、それを享受するだけの観点から見ればともかく、それを見つけ出す立場から見ればまったくの思い違いであり、すなわち、科学とは直感と創造と芸術の世界なのである。
2006年05月07日(日) 05:33:10 Modified by totutohoku




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