【定義】
号は大虚、名は喝玄。永平寺40世として入り、『永平丈室夜話菩薩戒義』を著した。
生没年:寛文2年(1662)〜元文元年(1736)2月5日
出身地:不明
俗 姓:不明
【略歴】
大虚喝玄は、嶽宣性華の法嗣で、武蔵洞雲寺、下総総寧寺?を経て永平寺に40世として晋住した。円成実性禅師の勅諡号を賜っている。総寧寺に住していた享保6年(1721)に、同寺の歴住記『安国山雑誌』を編集し、また永平寺にいる間には、享保17年に『永平丈室夜話菩薩戒義』を撰述した。学僧でもあったようで享保20年12月には、嶺南秀恕?の『日本洞上聯燈録?』の序を書くなどしている。また、享保19年(1734)9月に、若狭空印寺?の面山瑞方師が上山し、半月ばかり逗留した時には、お互い道交を深めており、様々な問題について、熱心に話し合い、検討された様子が『傘松日記』に伝わる。
『永平寺史(下)』では、元文元年に世寿75歳で遷化したとする(932頁)ため、その記載の通りであれば、生年は寛文2年(1662)であると思われる。
号は大虚、名は喝玄。永平寺40世として入り、『永平丈室夜話菩薩戒義』を著した。
生没年:寛文2年(1662)〜元文元年(1736)2月5日
出身地:不明
俗 姓:不明
【略歴】
大虚喝玄は、嶽宣性華の法嗣で、武蔵洞雲寺、下総総寧寺?を経て永平寺に40世として晋住した。円成実性禅師の勅諡号を賜っている。総寧寺に住していた享保6年(1721)に、同寺の歴住記『安国山雑誌』を編集し、また永平寺にいる間には、享保17年に『永平丈室夜話菩薩戒義』を撰述した。学僧でもあったようで享保20年12月には、嶺南秀恕?の『日本洞上聯燈録?』の序を書くなどしている。また、享保19年(1734)9月に、若狭空印寺?の面山瑞方師が上山し、半月ばかり逗留した時には、お互い道交を深めており、様々な問題について、熱心に話し合い、検討された様子が『傘松日記』に伝わる。
『永平寺史(下)』では、元文元年に世寿75歳で遷化したとする(932頁)ため、その記載の通りであれば、生年は寛文2年(1662)であると思われる。
タグ
コメントをかく