曹洞禅・仏教に関するwikiです。人名・書名・寺院名・思想・行持等々について管理人が研究した結果を簡潔に示しています。曹洞禅・仏教に関する情報をお求めの方は、まず当wikiからどうぞ。

【定義】

江戸期の曹洞宗が輩出した天桂伝尊による『正法眼蔵』の註釈書。なお、江戸時代より前には詮慧経豪の『御抄』があるが、江戸期に入ってから全巻に対する本格的な『正法眼蔵』註釈書は、この『弁註』が最初となる。

【内容】

江戸期に入ると、幕府は学問を奨励し、各宗派の僧侶は自宗の開祖が記した著作の参究を始めた。日本曹洞宗では、『正法眼蔵』の特定の巻について開版され、徐々に世に広まりつつある状況にあって、天桂は自身が仏知見を開いたという確信と、曹洞宗・臨済宗の諸師に参学した成果と、そしてあらゆる経論の知識をもって『正法眼蔵』の註釈作業に入った。それは、享保11年(1726)、天桂79歳の時に思い立ち、同14年、82歳の春に完成させた。

なお、この『弁註』にかける天桂の想いは凄まじいもので「老僧戢化の日、他に報告すべからず。老僧を供養せんと欲せば欽んで正法眼蔵の弁註を拝覧せよ。是れ第一の孝順心たるべきものなり。」(『天桂和尚年譜』)と述べたとされ、その後の天桂門下は、『正法眼蔵』註釈に生きる者が少なくなかった。父幼の『那一宝』はその1つである。

そして、天桂の撰述意図であるが、天桂以前には主に、『正法眼蔵』は各地の寺院で「秘書」として秘蔵されており、またようやく江戸期に入って参究が進んでも、文字にこだわり、道元禅師の真意に通じる者がいなかったことを嘆いたためとされている。また、宗統復古運動にて曹洞宗の嗣法は「一師印証」「面授嗣法」を基本とされたが、天桂はそれをも否定した。道元禅師の著作で、嗣法に関する内容を持つのは『正法眼蔵』「面授」「嗣書」「授記」の三巻であり、このうち、「面授」「嗣書」巻はそれぞれに道元禅師のものとは思えないような言葉が入っているため、「授記」巻にしたがった嗣法をすべきだと主張するのである。

さらに、天桂はまず、各地の写本を渉猟し、その校訂を行って60巻本系統の『正法眼蔵』及び、18巻を足して78巻だけが道元禅師のものであるとした。また、実際に天桂が註釈を行う場合には、道元禅師が意図的に、引用する漢文を改めたところも、それを再び経論によって元の表現に改めたり、天桂の宗乗眼にかなわない箇所は、提唱中に筆でもってその場で聴講者に改めさせたという話も伝わっている。

ただし、以上のような独自性のため、永らく異端とされ、明治期に入り西有穆山禅師の『正法眼蔵啓迪』に見られるような、宗義への取り入れが行われるまで、天桂派以外では批判の対象であった。しかし、西有禅師以降は、広く参究が行われるようになった。

【『弁註』の構造】

『蒐書大成』第15巻に収録された天桂の法孫が書写した『弁註』の構造は以下の通りである。

・正法眼蔵弁註序
・永平正法眼蔵品目頌竝序
・永平正法眼蔵弁註調絃
天桂の『弁註』撰述意図や思想的背景などをまとめている。それは天桂の嗣法観や『正法眼蔵』編集に対する考えも収録。
・高祖元古仏正法眼蔵弁註目録
・60巻本への註釈
・拾遺として16巻分の本文のみ収録

他に「凡例」を持つ写本もあるが「調絃」がその機能を果たしてもいる。それから、天桂は他者への批判は激烈な言葉を用いたため、それが逆に天桂をして、異端者扱いせしめられる原因ともなった。そこで、法孫達は合議して余りに酷い言葉を削除した。それは、天桂独自の註釈や書誌学的研究は、天桂以外の学僧から激烈な批判を浴びたためでもあろう。天桂存命中には、ほとんど反論はなかったが、天桂死後、他の学僧は猛烈な勢いで反論を開始したのである。

そこで、天桂の本心に迫るには、退蔵峰で保管されているという天桂の『弁註』草稿本に当たらねばならなかったが、近年その内容が刊行されているため、それを参照されたい(河村孝道・小坂機融「天桂傳尊直筆艸稿『正法眼蔵辨註』の翻刻(全10回)」『駒澤大學佛教學部論集』など)。

【テキスト】

・『正法眼蔵註解全書』(全10巻)
・『永平正法眼蔵蒐書大成』第15巻

【論文】

・鏡島元隆「天桂宗学について」『永平正法眼蔵蒐書大成』「月報8」
・志部憲一「天桂宗学考『現成公案巻・弁註』における『御抄』批判とその背景」『曹洞宗研究員研究生研究紀要19』
・鈴木祐孝「天桂伝尊の研究」『宗学研究26』

他にも天桂、及び『弁註』に関する研究は多い。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます