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ナジュド・サウード王国
المملكة العربية السعودية
  

    (国旗)          (国章)
国の標語لا إله إلا الله محمد رسول الله
国歌ナジュド国歌
公用語アラビア語(ナジュド方言)
首都リヤド
政治体制絶対君主制
国王サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ
首相サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ(兼任)
国土ナジュド地方
人口6,623,056人
宗教イスラム教シーア派
通貨ナジュド・リヤル
時間帯UTC +3



概要

ナジュド・サウード王国(ナジュド・サウードおうこく、アラビア語: المملكة العربية السعودية)、通称ナジュドは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はリヤド。
かつてはアラビア半島で大勢力を築いていたが、ヒジャーズ地方、ハサー地方を奪われ内陸国に転落。中東有数の最貧国となっている。

歴史

サウード家の勃興と第一次サウード王国



ワッハーブ派の宣教師ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブとナジュドの豪族出身であるムハンマド・イブン=サウードが、アラビア半島のアラブ人勢力の結束とオスマン帝国による支配からの自立を目指して1744年に建国された。
初めはナジュドの地方勢力にすぎなかったが、アラビア湾岸地域を征服する。
その後、アスィールも服属すると、北に勢力を拡大し、1801年にシーア派の聖地であるカルバラーおよびナジャフを陥落させた。
また、1803年にはヒジャーズも勢力下に置き、聖地であるメッカとマディーナも陥落させた。
しかし、これらの聖地の守護者であったオスマン帝国は警戒、エジプト総督ムハンマド・アリーにサウード家の王国を滅ぼすよう命令を下した。
そしてエジプト軍が1813年にはメッカを奪回、さらにアラビア半島中央部まで侵入し、1818年、首都ディルイーヤを包囲した。首都でのディルイーヤ攻囲戦は数ヶ月に及んだが、エジプト軍の勝利に終わり、第一次サウード王国は滅亡した。
しかし、第一次サウード王国の成立はアラブ人の民族としての自覚を生み、同時にオスマン帝国の弱体化を表すものだった。

第二次サウード王国



第一次サウード王国の滅亡後の1824年、ギリシャ独立戦争の隙に乗じて、サウード王族トゥルキー・ビン・アブドゥッラーがリヤドに移って第二次サウード王国を建国した。
しかし、第二次サウード王国は内紛が激しく、北部のラシード家がジャバル・シャンマル王国を建国し、徐々にサウード家を圧迫するようになる。
1891年、最後の王であるアブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウードがラシード家により。リヤドを追われたため、第二次サウード王国は滅亡した。

ナジュド及びハッサ王国

政治

政体

政体はサウード家による絶対君主制であり、ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており政教一致体制である。国王(マリク)はワッハーブ派イマームを兼ね、要職は王族が独占している。

憲法

明文憲法はないが、「シャーリア」を事実上の憲法としている。

外交

国際関係

対ジャバル・シャンマル関係
ジャバル・シャンマル王国のラシード家とは、アラビア半島をかけて争った歴史があるため、対立関係にあり、現在も改善されていない。
対ペルシア関係
ペルシアは敵対するシーア派を国教としているため、宗教的な対立関係にある。国民レベルでも険悪で、国交断絶レベルである。
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