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マルマラ帝国
マルマラ帝国(RES PUBLICA ROMANA)は、アナトリア半島およびバルカン半島にまたがって存在する国家である。名称はマルマラ地域からくるものであり、本人たちは「ローマ帝国(RES PUBLICA ROMANA)」を名乗っている。
概要
国名(自国表記)RES PUBLICA ROMANA
国名(日本語表記)マルマラ帝国
標語神はわれらとともにあり
国歌賛歌
首都コンスタンティノープル
国旗
国土
言語ギリシャ語(事実上)
ラテン語
皇帝パウロス2世
首相テオドロス・パパドプロス
元老院議長カリアス・ミツォキタス
人口2960万9223人
面積8万3100㎢
水面積率1.0%
GDP(EMR)5198億4300万ドル
GDP(PPP)9400億8700万ドル
政治体制君主制
通貨ドラクマ
ISO 3166-1RO/ROM
ccTLD.rom
国際電話番号388



概要

1920年、第一次世界大戦において、ギリシャはオスマン帝国とセヴ―ル条約を締結しマルマラ地方及びイズミル地域一帯を獲得。しかし1967年に軍事クーデターが発生し、国王派は1973年までこれらの地域を拠点として抵抗した。これらの間は王国正統政府を称していたが、ギリシャからの分離以降はコンスタンティノープルを領有していることを根拠に東ローマの後継を名乗り始めた結果今に至る。
ボスポラス・ダーダネルス海峡を隔て、アナトリア半島とバルカン半島にまたがる国土は黒海と地中海を結ぶ要所として貿易によって経済が成り立っている。高い経済力を背景とした安定した通貨事情と裏腹に、ギリシャ系民族とトルコ系民族の慢性的対立を常に抱えており、民族融和を至上の課題としている。軍事面において海峡を防御しうる海軍力はかろうじて有しているものの、弾道迎撃能力に関しては不十分であることが防衛白書?において示されている。

歴史

オスマン帝国下におけるギリシャ

 1460年、1453年に陥落したコンスタンティノープルに加え、ビザンツ帝国最後の拠点ミストラがオスマン帝国によって制圧された。これによりギリシャのほぼ全域がオスマン帝国支配下に収まることとなった。これ以降第一共和制による独立までの期間を「トルコクラティア」と呼ばれている。
 オスマン帝国支配下において、ギリシャ及びギリシャ人に対してオスマン帝国の支配は寛容であったと言える。オスマン帝国はイスラム系国家ではあったが立地そのものはビザンツ帝国に近く、文化的・技術的影響をビザンツ帝国から受けていた。正教徒のギリシャ系住民を早期から取り込んでいったオスマン帝国は、教会を破壊しモスクに作り替えるなどの政策はとったものの、イスラムへの改宗を強制したという記述は見受けられないことから、宗教面における寛容性が確認できる。このような宗教的寛容性は統治政策にもみられており、非イスラム地域はミレット制と呼ばれる支配形態をとり、ジズヤ等の貢納を条件にミレット・パシュを中心とした宗教・法・生活習慣を保持したままでの自治が許されていた。ただしギリシャ人ンにしろブルガリア人にしろ、正教徒であれば雑多に正教徒として区分され民族意識は二次的なものであった。

ギリシャの独立

 16世紀から18世紀にかけて、西欧諸国は急速に近代化が進みその力はオスマン帝国を上回っていった。結果「オスマンの衝撃」と恐れられたオスマン帝国は「西欧の衝撃」を恐れる事態へとなっていった。オスマン帝国は露土戦争におけるキュチュク・カイナルジ条約によってクリミア半島を失陥し、ロシアが正教徒の保護者としての立場を得、オスマン帝国に対して内政干渉を行える立場となった。また「西欧の衝撃」はバルカン半島の民族に対してナショナリズムを植え付ける契機となり、「パクス・オトマニカ」の崩壊を促す運動を活発化させることとなった。
 18世紀以降、ギリシャ内ではフランス・ロシアの影響を受けてナショナリズムが台頭してきた。特にフランス革命は大きな影響を持っており、オスマン帝国内においてフランス人商人が締め出され、ギリシャ人商人が外界における活動できる環境が出来上がったことはこれらの影響を強く及ぼす大きな原因となった。このような状況下においてギリシャ内においては秘密結社による独立運動が推進されていった。特にオデッサの商人エマニュエル・クサントス、ニコラオス・スクファス、アタナシス・ツァカロフの三人によって結成されたフィリキ・エテリアは当初活動が低迷であったものの多くのギリシャ人が参加し、1821年にワラキア蜂起と同時期にヤッシーで蜂起。ここにギリシャ独立戦争が開始された。
 当時ヨーロッパでは親ギリシャ感情が高まり、ギリシャ以外の独立地域においてもロシアの介入があると期待し宣言まで出していた。しかし、オスマン帝国弱体化を望まない国家は非協力的姿勢を示し、加えてロシアはこれら一連の独立戦争に対して憤慨し、現地で反乱軍を指揮していた将軍を処刑。翻ってオスマン帝国の援助を行う姿勢まで見せるまでした。本格的なヨーロッパの介入は1825年のイギリスの仲介を待たねばならない。さらに各地の連帯はオスマン帝国に妨害を受けるなど戦況は混迷を極めていった。しかしギリシャ各地に飛散した火はとどまるところを知らず、3月25日に「革命政府」が開設された。これ以降飛び火が止まることなく、4月にプサラ島・イドラ島、5月にテッサリア、6月にはクレタ島で蜂起が発生した。これらの蜂起に対してオスマン帝国は大軍を差し向けたが、海戦における苦戦が重なり撤退せざるを得なくなった。こういった状況が重なる中、ヨーロッパ各国はヨーロッパ文明の起源でもあるギリシャへの同情が高まり義勇軍が送り込まれた。しかしこの義勇軍の中には古代ギリシャの幻想を抱く者、自らの思想の実験場とする者も少なからず存在していた。
 上記を見る限りにおいて一見ギリシャが一方的に優位であるように見えるが、この段階であってもオスマン帝国とギリシャとの間に決着はついていない。これはまずペロポネソス半島にディミトリオスと名望家が、中央ギリシャ西部にアレクサンドロス・マヴロコルダトスの西部ルーメリ会議が、中央ギリシャ東部にテオドロス・ネグリスの東部ルーメリ・アレオパゴスがそれぞれ政府として存在し、加えて各地域ごとに党派が組まれそれぞれが独立した状態にあって統一性を欠いていたことが原因である。というのも、彼らは目的こそギリシャ独立であったが、その過程や方法、思想が異なると同時に参加者自身オスマン帝国に多少なれども依存していることには違いなかった。そのため権益の喪失を恐れた人々は戦争に参加しようとはしなかった。これら三政府は1823年のギリシャ中央暫定政府の設置まで分裂は続き、対立に至ってはなおも解消することはなかった。挙句各派閥の対立は加速し続けついには内戦状態に突入した。
 

地理

地方行政区分

政治

軍事

交通

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