追記:1900年までは史実ベースでいく。修正はまたのちに
独立まで
カリビアンの成立まで
近代から現代
独立まで
15世紀〜 | 探検家により「発見」。シェナフ帝国の入植がはじまる。 |
1650年 | カリブ海貿易の拠点として,ハバナ,サントドミンゴ,ポルトープランスが栄える。 |
1700年 | シェナフ帝国からの独立機運が高まる。独立運動の開始。 |
1710年 | 正式にキューバ国として独立。カリブ海地域はシェナフ帝国との同君連合となる。 |
カリビアンの成立まで
1715年 | 経済の見直し。当時未知数であったいわゆる社会主義を一時的に導入。 |
1730年 | 国の産業基盤を整えたタイミングで国家体制を移行する。独自に皇帝を推戴した。 |
1731年 | ハバナ事変および,軍は中米作戦への作戦計画を練る。 |
1732年 | ジュビリー作戦、このころからかつての同君連合を集め一つになる,という思想が結実する。 |
1735〜1750年 | メキシコを含む中米を平定.初めての本格的な対外戦争。 |
1752年 | カリビアン帝国の独立を宣言。 |
近代から現代
19世紀半ばから末期 | |
1914〜1919年 | 第一次世界大戦,カリビアンでは欧州大戦と記録される |
1920年代〜1930年代 | |
1939〜1945年 | 第二次世界大戦 |
1975〜1980 | ホンジュラス州とニカラグア州との間で,対立激化。内戦一歩手前まで治安悪化。 |
1981 | 両州の復活プロジェクト始まる.ホンジュラス州の州都がテグシガルパになる. |
1985 | ベリーズ州の州都がベルモパンになる.(ハリケーン被害) |
キューバとして
15〜17世紀初頭
シェナフ帝国のとある探検家が,中南米諸国を「発見」して以後,入植と貿易(植民地化)が活発に進められた。搾取を受ける対象は,原住民の他に黒人奴隷や入植者などである。砂糖や貴重な天然資源があること,南米および北米大陸に行くにしてもかならずカリブ海の港を経由することから,貿易が発展した。
17世紀半ばから18世紀にかけて
アムウェイ連邦やオスマン国の台頭とともに,本国の力が相対的に下がると,現地の発言権が増していき,搾取を受ける対象であった者たちが中心となり,カリブ海の諸島をまとめて,独立を果たすようになる。1710年,キューバ人民共和国として独立した。そのときは中米エリア,メキシコエリアは別の国として独立していた。
それ以後も,シェナフ帝国と同じ君主を仰ぐ同君連合(英連邦がモデル)であったのだが,さらなる本国の衰退により,現地の人間が君主を選び,統治を行うようになった。
シェナフ帝国から独立するまでは、モノカルチャー経済により産業の発展など望むべくもなかった。国の官僚による計画経済で効率化(ノルマの明確化)、一次産品を外国に大量供給する代わりに、輸入品に対して関税をかけること、一部の官僚(後述)による外資を誘致した。これにより、工業をはじめとする基礎産業を育成することに成功し、国民の統合には、建国者の一族、政治のトップには革命の立役者を配置し、権力と権威を分離させた。
帝政の経緯
シェナフ帝国独立直後から,共産化ではなく,帝政への動きはあった。ただ,経済での力をもつことを最優先したため,キューバは計画経済による共産化を選んだのである。しかし,南米新興国の台頭や,活発化する世界情勢への,共産主義への限界をさとり,かつての同君連合のような君主を必要とした。
また,中米諸国を統治する存在としても,皇帝がその地域の統治者を兼任するというシステムの方が,共産主義よりも共感を得やすかった。
そこで,かつての本国と決別する(真に独立国であり,対等である)ことを示すため,皇帝を選出した。
帝政への移行に伴い,国家システムをあらたに構築しなおし,国境線の再画定をおこない,カリブの制海権を他に渡さないようにした。
さらに,経済の生命線あるいは,地政学的な要衝として中米の地域は絶対に,他の国に取られる前に確保せねばならなかった。
そして,皇帝への贈り物(ジュビリー)として,中米,パナマ,メキシコを献上することを時の首相は考え,実行に移した。
そこに至るまでの経緯はハバナ事変と中米事変を参照のこと。
15〜17世紀初頭
シェナフ帝国のとある探検家が,中南米諸国を「発見」して以後,入植と貿易(植民地化)が活発に進められた。搾取を受ける対象は,原住民の他に黒人奴隷や入植者などである。砂糖や貴重な天然資源があること,南米および北米大陸に行くにしてもかならずカリブ海の港を経由することから,貿易が発展した。
17世紀半ばから18世紀にかけて
アムウェイ連邦やオスマン国の台頭とともに,本国の力が相対的に下がると,現地の発言権が増していき,搾取を受ける対象であった者たちが中心となり,カリブ海の諸島をまとめて,独立を果たすようになる。1710年,キューバ人民共和国として独立した。そのときは中米エリア,メキシコエリアは別の国として独立していた。
それ以後も,シェナフ帝国と同じ君主を仰ぐ同君連合(英連邦がモデル)であったのだが,さらなる本国の衰退により,現地の人間が君主を選び,統治を行うようになった。
シェナフ帝国から独立するまでは、モノカルチャー経済により産業の発展など望むべくもなかった。国の官僚による計画経済で効率化(ノルマの明確化)、一次産品を外国に大量供給する代わりに、輸入品に対して関税をかけること、一部の官僚(後述)による外資を誘致した。これにより、工業をはじめとする基礎産業を育成することに成功し、国民の統合には、建国者の一族、政治のトップには革命の立役者を配置し、権力と権威を分離させた。
帝政の経緯
シェナフ帝国独立直後から,共産化ではなく,帝政への動きはあった。ただ,経済での力をもつことを最優先したため,キューバは計画経済による共産化を選んだのである。しかし,南米新興国の台頭や,活発化する世界情勢への,共産主義への限界をさとり,かつての同君連合のような君主を必要とした。
また,中米諸国を統治する存在としても,皇帝がその地域の統治者を兼任するというシステムの方が,共産主義よりも共感を得やすかった。
そこで,かつての本国と決別する(真に独立国であり,対等である)ことを示すため,皇帝を選出した。
帝政への移行に伴い,国家システムをあらたに構築しなおし,国境線の再画定をおこない,カリブの制海権を他に渡さないようにした。
さらに,経済の生命線あるいは,地政学的な要衝として中米の地域は絶対に,他の国に取られる前に確保せねばならなかった。
そして,皇帝への贈り物(ジュビリー)として,中米,パナマ,メキシコを献上することを時の首相は考え,実行に移した。
そこに至るまでの経緯はハバナ事変と中米事変を参照のこと。
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