最終更新: kyo_miyato 2017年04月26日(水) 20:36:31履歴
大徳寺は、鎌倉時代末期に( 21 )が創建。建武の新政を断行した( 22 )の帰依を受け、京都五山の上に格付けされて保護されたが、室町時代になると、幕府の保護を辞して、在野の寺院となった。一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( 23 )の援助で復興。さらに、安土桃山時代には( 24 )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( 25 )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。 |
(21) 大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建した。
(22) 大徳寺は建武の新政を断行した( )の帰依を受け、京都五山の上に格付けされて保護されたが、室町時代になると、幕府の保護を辞して、在野の寺院となった。
(23) 大徳寺は一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した。
(24) 安土桃山時代には( )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( 25 )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
(25) 安土桃山時代には( 24 )が、織田信長の葬儀を大徳寺で行い、菩提寺として塔頭「( )」を建立した事から、これに倣う諸大名の塔頭建立が相次いだ。
東寺の正式名称は( 26 )で、唐から戻った空海により真言密教の根本道場に定められた。また、空海は庶民のための学校「( 27 )」を建立したことでも知られている。 東寺の五重塔の高さは、現存する木造の塔としては最大であり、焼亡再建を繰り返し、現在は( 28 )代目にあたる。東寺は密教美術の宝庫で文化財の多い寺として知られ、( 29 )などの絵画をはじめ多数の国宝を有している。東寺の境内や門前では弘法大使の月命日である毎月( 30 )に、「弘法さん」と呼ばれる市が開かれ、大勢の人で賑わっている。 |
(26) 東寺の正式名称は( )で、唐から戻った空海により真言密教の根本道場に定められた。
(27) 空海は庶民のための学校「( )」を建立したことでも知られている。
(28) 東寺の五重塔の高さは、現存する木造の塔としては最大であり、焼亡再建を繰り返し、現在は( )代目にあたる。
(29) 東寺は密教美術の宝庫で文化財の多い寺として知られ、( )などの絵画をはじめ多数の国宝を有している。
(30) 東寺の境内や門前では弘法大使の月命日である毎月( )に、「弘法さん」と呼ばれる市が開かれ、大勢の人で賑わっている。
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