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ミリタリ関係

ビリー・ミリガンと39枚の編成表




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Q.ドイツ軍の師団にトラックは何両くらいあったのでしょうか。

A.第2次大戦中に有効だった、ドイツ軍105ミリ榴弾砲中隊の編成表は39種類ありました。ツイッターで43種類と書いてしまいましたが、77ミリ旧式野砲のもの(KStN 436)を2種類数えてしまっており、150ミリ重榴弾砲の同一KStNで兵器名称が違うものものを4種類数えてしまっていました。でもその後、2種類新たに見つけました。訂正します。出先で無茶苦茶やっていたイメージのある日本陸軍も、動員計画と整合性を取って新設された師団なんかはいちいち細かい定員表がついてきて、同じようなものを探して整理すればけっこう種類はあります。ドイツの事情は多少エキセントリックだけど唯一孤高の存在じゃないと留保をつけたうえで、どうして39種類もできてしまうのか事情をお話ししたいと思います。

 中隊レベルの編成表にはKStN番号がついていますが、「ひとつの番号、ひとつの日付、しかし違う兵器を持つ中隊を一枚に並べて書いてしまった編成表」があるので注意が必要です。

 39種類の内訳は次の通りです。
KStN種類数(日付の違うもの)
433(R)1
433(O)1
4333
433a1
433c1
433(Erg)1
433F3
433(LL)1
433(Lw)1
433n3
433v2
4344
434(gek)1
434(fG)2
434a2
434b2
4353
435(fG)1
435a1
4371
437n1
437v1
4501
450b1
合計39


 433(R)と(O)はそれぞれReich、Ostpreussenの略です。大戦初期の105ミリ榴弾砲部隊は飛び地領土である東プロイセンと本土で編成が違っていたのです。残念ながら現物を見ることができませんので違いは分かりません。ただ別の編制表で(R)(O)の両方がわかっているものを見ると、違いは行李・段列の一部がトラックになっているか、馬車かという点でした。狭いからか燃料補給の問題か、東プロイセンは自動車化が後回しにされていたようです。

 433は「輓馬編成歩兵師団の105ミリ榴弾砲中隊」編制表です。砲を引くのも弾薬を運ぶのも馬という編成です。おそらく433(R)と(O)もそうだったのでしょう。ただし日本陸軍と違って、行李・段列の一部はどの師団でも原則として自動車でした。糧食を毎日補給する部分のうち、師団補給処と自分の中隊(大隊単位でまとまることもある)行李を行き来するところは原則としてトラックによりました。

 433aは433を砲3門に減らしたタイプ、433cは433aの一部の馬/馬車を自動車に置き換えたタイプ(tmot)です。1942年4月に初めて登場するので、どこぞの歩兵師団が装備を値切られたのでしょう。433(Erg)はErganzung(練成)で、3門編成の訓練中隊です。この編成表は戦前から存在します。

 433Fはbodenstaendig、つまり海岸防衛のため固定することを前提に、輸送機材を砲の数の半分しか措置しない部隊です。ノルマンディーにいた700番台師団はだいたいこれですね。砲の数は「3または4」となっています。

 433(LL)は1941年2月に発効した「Luftlande」部隊のための編成表です。グライダーで輸送されることを前提とした部隊のことで、第22歩兵師団がこのタイプの部隊に改編されましたがクレタ島作戦には結局使われず、末期のチュニジア戦戦に送られて全滅しました。1944年にノルマンディーにいた第91歩兵師団は「第91空輸師団」ともしばしば書かれ、第6降下猟兵連隊も指揮下に置いていましたが、その砲兵連隊は山岳砲兵連隊の編成表を適用されたので、この編成表は結局第22歩兵師団専用ということになります。

 433(Lw)はLandwehrのためのものです。第1次大戦まで、Landwehrは日本で言うと「予備自衛師団」みたいなイメージの組織でした。予備役軍人のほかに市民を応召させて特定の部隊に所属させ、ときどき訓練召集をかけて、「現役兵士になったことはないが軍隊には慣れている市民」をたくさんつくっておいたのです。これは大戦初期の動員スピードを上げたので、ヴェルサイユ条約はうるさいくらいドイツの予備役制度が機能しないように制限しました。

 1933年から1939年までドイツは猛烈な勢いで軍拡をやったので、常設師団の兵士は足りても士官が深刻に足らず、警察にも制服警官(いわゆる秩序警察)というプールがあったので、Landwehrの再建は後回しになったようです。大戦に向けた動員が始まると、いくつかのLandwehr部隊も作られましたが、現役部隊と明らかに異なった部隊名をつけることは結局取りやめになって、それらにLandwehrと名のついた部隊も組み込まれていきました。

 明らかに兵質の悪い(現役兵士をあまり含んでおらず平均年齢が高い、ワイマール共和国期に20代を過ごしたので軍隊にも慣れていない)部隊というのはもちろんあって、それらはフランス戦期に東部国境などを守る任務が終わると連隊〜大隊のピースに分けられ、後方や占領地域の警備にあたるようになりました。ですから433(Lw)を適用された部隊はほとんどなく、それも短期間で433(無印)に改編されたであろうと思います。

 433nはあとで出てくるfG=freie Gliederungと同じ性質のものです。もともとドイツ軍の中隊にはそれぞれ行李・段列があって、フィールドキッチンを持ち、毎日もっと前方にいる戦闘部隊まで温かい食事を(といっても昼食だけなのが原則ですが)届けていました。これをある時期、大隊に補給中隊を作ることでひとつにまとめたのです。これで編成表は全部書き直しということになったわけです。nはneuer Art(新型)でしょうね。また、ひとつは馬でなくRSO装備のもので、1945年になるとKStN437が433に統合されたようですね。

 余談ですが、スターリングラードですらこのシステムはマニュアル通り動いていました。市街に陣取った行李・段列から頻繁に自動車が市内に突入し、毎日位置を変える自分の中隊の生き残りをどうにか見つけて、食料を届けていたのです。スターリングラードの包囲環が閉じるとき、この行李群も追い散らされ、アメーバのように友軍同士で固まっては脱出口を探す羽目になりました。このグループからはいくらか友軍への生還者が出たのですが、即席懲罰部隊のようなものが作られて歩兵として戦線維持に駆り出され、さらに生存者が減ってしまったようです。

 434と434(fG)は自動車化部隊の105ミリ榴弾砲中隊です。3トンハーフトラックが標準的な牽引器材です。http://www.wwiidaybyday.com/では5トンハーフトラックを図示していますが、1938年の最初の編成表ではちょっと余裕があったのでしょう。

 434(gek)は何かをgekürzt(縮小)しているのですがArt. Kzg. Staff.抜きだと言います。Artillerie Kraftzug Staffelらしいのですが、KStN 466、467、468、469がArtillerie Kraftzug Staffel単体の編成表になっていて、1939年10月に最初のものが出てきています。KStN 434(gek)は1939年11月に最初のものが発効していますから、おそらく中隊固有の弾薬班を切り離し、大隊レベルの弾薬中隊に集約する場合の編成表ではないかと思います。末期最貧話というわけでもなく、装甲師団の増設増設で首が締まったということでしょうか。

 434aは433aの自動車化部隊版で、主に訓練部隊の砲3門タイプ。434bは砲4門ですが、牽引器材がRSOになったタイプで、Behelf(代用)という言い訳がついています。

 435系は装甲師団版で、なにかと優遇されていたろうなとは思います。

 437は1944年に新設された、1944年型歩兵師団につくRSO牽引の105ミリ榴弾砲中隊編制表でしたが、2か月後に行李・段列の改編があって437nとなり、437vはその国民擲弾兵バージョンです。

 そして450と450bはですね。どうやら「4門×3個中隊を6門×2個中隊に減らして中隊本部の人員器材を節約する編成表」のようです。

 このように分類が細かいことが編成表が多い主因で、行李・段列の改革で一気に2倍になったことを除くと、戦局の変化で増えた分はそれほど多くないように見えます。ただし「105ミリ榴弾砲の代わりにチェコ製のあれとかPAK97/38とかを配備したことに伴う編成表」はまた別にありますんで、それはそれで編制表はちゃんと増えているのです。

 ところで「ドイツ軍の師団にトラックは何両くらいあったのでしょうか」に対する答えは、とても短いものです。

 決まっていません。

 連隊レベル、師団レベルで持っている段列には、KStN 515 「 le. Art. Kol. (32 t) (mot)」のように運搬能力がトン数で表示されているものがあります。この場合、3トントラックや1.5トントラックをかき集めて合計でこの数字を満たすわけで、結果的に何両で満たせるかは決まってすらいないのです。フランスからの接収トラックなんかも雑多に受け入れているので、決められないのですね。

付記:

 上記のような台数不定のKStNでは、「全部3tトラックだったら」という要員数が示されています。トラックが増減したら運転手が増減するわけです。

 Nieholster氏のサイトに1939年開戦時の第1波歩兵師団各種定数一覧表があります。39個しかない第1波歩兵師団の編成がすでに同一時点で10種類あるわけですが、'Load Carriers & Prime Movers'の数は、上記のように段列を「全部3tトラック」と仮定すると、408〜648両(7通り)です。いちばん多いのは615両の師団です。それ以外の台数になるのはどういう事情かというと、
  • 砲兵連隊に観測気球中隊がついている師団が少しある。トラックがそれだけ増える。
  • 東プロイセンに駐留していた第1、第11、第21歩兵師団は、他の師団ならトラックである補給車両の一部を馬車に値切られている。馬車が多くてトラックが少ない。
  • オーストリア陸軍の兵士を集めて作った第44、第45歩兵師団はまだいろいろ足りないものがある。
  • 国境警備専門の独立歩兵3個連隊を基幹として編成した第50歩兵師団は、砲兵連隊が変則編成になっている。
 といったものです。

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