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ミリタリ関係

ドイツの西北ラスカンのとなり〜アーヘン1944




ドイツの西北ラスカンのとなり〜アーヘン1944その2

フォン・シュヴェーリンの戦い(2) 9月10日〜16日


 Haasler[2011]は9月10日のB軍集団や第7軍の命令、報告、戦況地図などを調べて、それらがひどく間違い、互いに矛盾していたことを指摘している。他の部隊を当てにできず、すでに敵に触接した状態ではあったが、結果的に10日午前中の戦線は静かなものになった。

 第116装甲師団に増援として約束されていた第394突撃砲旅団は1944年5月編成(旅団昇格は6月)で、ノルマンディーで戦って全車両を失い、新車両22両をようやく受領して10日昼にアーヘンまで馳せつけてきた。ただし受け取ったばかりの車両で照準調整などが済んでおらず、それらに目をつぶっても戦闘可能でないものがまだ7両含まれていた。

 旅団の一部が燃料不足で南西に取り残され、アメリカ軍に掃討されて全滅した。思い切って後退したはずのリンブルクはもう前線だった。歩兵が足りない。せっかく引き抜いたSS歩兵2個大隊だがヤーボのせいで昼間移動ができない。第7軍は第394突撃砲旅団を第116装甲師団に配属した。

 このあたりはアルデンヌの森の北側にあたる。森とは言えない。森とは言えないのだが、畑の境界に並木が並び、地上の視界が悪い。アメリカ軍が優位を生かせないのである。第7軍のブランデンバーガー司令官はSSからの戦闘団が到着次第、リュージュに向け反撃するよう第116装甲師団に命じた。モーデルはブランデンバーガーほど楽観的ではなかったようである。もちろん実行できるものではなく、Guderian[2001]は言及すらしていない。同じ11日、アーヘンに後退したはずの第9装甲師団が前線に出てきた。Nevenkin[2008]によれば、1個装甲擲弾兵大隊(相当)を中核とする第9装甲師団戦闘団が7日に編成され、11日にようやくアーヘン南方に到着したのである(p.273)。同日、第105装甲師団は第116装甲師団からこの戦闘団に配属先が変わった。後のことになるが、9月24日までこの戦闘団はアーヘンで戦い、翌25日に第105装甲旅団は第9装甲師団に吸収される。

 Haaslerによると、9月10日現在、第105装甲旅団の戦車はパンター16両、突撃砲(IV号駆逐戦車のことであろう)7両にまで減っていた。そして、第9装甲師団戦闘団は次のような構成だった(p.132)。数字は(士官/軍属/下士官/兵)の数である。番号はバラバラだがすべて第9装甲師団固有の部隊である。
  • 第11装甲擲弾兵連隊第1大隊(10/0/86/548)
  • 第86装甲工兵大隊第1中隊(4/0/20/150)
  • 第102装甲砲兵連隊第1大隊(6/0/27/105)
    • [おそらく本部と段列の人数と思われる]
  • 同 2個中隊 3/0/21/27と3/0/20/85
    • それぞれ105ミリ榴弾砲leFH18/40を4門ずつ保有
  • 第278陸軍対空大隊(8/2/62/245) 
    • 88ミリ砲5 連装37ミリ砲6 37ミリ砲6 20ミリ4連装砲3 20ミリ単装砲2
    • ただし37ミリ砲は弾薬なし

 Guderian[2001]は西方軍とB軍集団の戦時日誌を根拠に、特にクレブス中将(のち大将、グデーリアンの後を受け参謀総長事務取扱、当時はB軍集団参謀長)の名前を挙げて、ヒトラーの同意を受けてケルンのガウライター(地区指導者)がアーヘンとモンシャウの市民に避難指示を出したのが9/10日の夜だったので、可能な限りぎりぎり時間を稼いでほしいと第7軍に指示したことを指摘している(p.124)。なお、西方軍はこれについて「[アーヘンに撤退されると]避難民の流れで補給が滞る」と指摘しているので、必ずしも民間人を逃がすためだけの指示ではない。p.140にはさらに記述があって、このガウライターはJosef Groheという名前であり、避難指示はOKWが出したという。英語版Wikipediaの「アーヘンの戦い」が描いているのと全く逆に、行政機関や警察も一緒に撤退するのであり、撤退しないものは裏切り者として扱うという公示がなされた。しかし駅などでのパニック、伝達の遅れなどから完全には実行されず、相当数の市民が残ったままになった。

 これはフォン・シュヴェーリン「が」アーヘンから市民を脱出させたという話と矛盾する。軍政長官というわけでもないので、そんな権限はもともとないのである。避難指示はOKWから地方自治体の代わりを務める党組織を通じて出ていたし、国防軍の上級司令部もそれを承知していた。その党組織からの逃亡者が一兵卒として東部戦線に送られたという話が英語版Wikipediaに載っているが、出典である書籍が何を根拠にそう言っているのかちょっと心もとないところはある。フォン・シュヴェーリンは結局、陽光うららかなイタリア戦線に送られるのであるが、そのことは後で述べよう。

 さて、第353歩兵師団はファレーズポケットから第116装甲師団と抜きつ抜かれつの脱出をした師団である。Guderianによると、この師団司令部がこの時期のアーヘンでの雑多な防衛部隊を取りまとめていた。Lexikon der Wehrmachtによると、10月以降この師団はもっと南のルクセンブルク国境の都市、Trier(トリールまたはトリーア)に移る。その後(というより、Lexikon der Wehrmachtでは9月から)防衛部隊と集成部隊の取りまとめをしていたのは第49歩兵師団である。

 この第49歩兵師団は、先に出てきた第47歩兵師団同様、番号は若いが歴史は浅い、沿岸防御用の日本陸軍でいう張り付け師団である。それがさらに敗走して、ほとんど自前の戦力がないので、構成がこうなってしまった(Lexikon der Wehrmacht、同師団の項による)。
  • 第31要塞機関銃大隊
  • 第57要塞機関銃大隊
  • Westheer-Infanterie-Bataillon 302(第302西部集成歩兵大隊)
  • 第305西部集成歩兵大隊
  • 第1423要塞歩兵大隊
  • 第78擲弾兵訓練大隊
  • 第1空軍要塞大隊
  • 第6空軍要塞大隊
  • 第9空軍要塞大隊
  • 第18空軍要塞大隊

 西部集成歩兵大隊は通算で6個作られており、他の部隊に吸収されるので概して短命である。原隊とはぐれたり、原隊が消滅したりした兵士をいちいち軍管区まで送り返さず、すぐに戦場に送り出すための部隊だった。日本陸軍がフィリピンでいくつか「集成大隊」を編成しているので、こう訳しておく。

 どちらがアーヘンを仕切っていたかはともかく、第353歩兵師団の内実も似たようなものであった。Haasler[2011]によると、9月10日現在、次のような状況だった(p.134)。*をつけたのは(明白に)師団固有の部隊である。
  • 第943歩兵連隊*
    • 第II/6郷土防衛訓練歩兵大隊
    • 第III/6郷土防衛訓練歩兵大隊
    • 第I/9郷土防衛訓練歩兵大隊
  • 第353戦車駆逐大隊*
    • 75ミリ対戦車砲4門
  • 第353砲兵連隊*
    • 第353砲兵大隊
      • 105ミリ榴弾砲1門
    • 第997自動車化砲兵大隊第8中隊
      • 152ミリ砲3門(たぶんソビエトからの鹵獲砲)
    • 第12SS砲兵連隊"ヒトラー・ユーゲント"第8中隊
      • 105ミリ榴弾砲5門
    • 第I/76予備砲兵大隊第3中隊
      • 100ミリカノン砲4門
  • 工兵大隊(番号表記なし)
  • 混合(mixed)通信大隊(番号表記なし)
  • 第328擲弾兵訓練大隊
  • 第473擲弾兵訓練大隊
  • 第504要塞戦車駆逐大隊
    • 3個中隊、88ミリ対戦車砲合計26門
  • アーヘン高射砲グループ
    • 軽対空砲151門
    • 88ミリ対空砲20門
    • 88ミリ対空砲17門

 本来、この師団は第941〜943歩兵連隊を持っている。それが連隊本部ひとつになり、3つの郷土防衛訓練(Landesschutzen-Ausbildungs)歩兵大隊を持っている。Landesschutzenというのは35才以上の兵員から成る部隊で、保安師団などに配属されて後方警備や捕虜収容所管理などにあたる。詳しくは「後方任務の国防軍部隊」参照。そのまた訓練大隊ということは、「兵役に就いたことがない35才以上の兵士から成る部隊」だったのだろう。II/6とは第6連隊第2大隊ということで、もともと郷土防衛連隊は連隊単位で編成されたが、実際は大隊単位でバラバラに使われた。通信大隊がmixedなのは、たぶん電信部隊と電話部隊がごっちゃに含まれているという意味だろう。88ミリ対空砲が2つのエントリを持っているのは、どちらかが長砲身のFLAK 41なのだろうし、88ミリ対戦車砲はPAK43であろう。

 9月10日、ブラッドレー(第12軍集団)はホッジス(第1軍)に、アーヘン〜ケルンでライン川を渡るよう命じた。その前日、MG作戦が裁可されていたことは記憶に値する。イギリス軍に補給を回しながらも、早々にライン川が渡れるとアメリカ軍は踏んだのである。9月前半に見せたドイツ軍の潰走から、アメリカ軍の敵情評価が楽観的になっていたことは明らかである。だがホッジスは弾薬と燃料の補給を積み増す必要を感じ、2日間の停止を命じた。だがホッジスの先鋒であるコリンズ中将(アメリカ第7軍団)はこれに苛立ち、「偵察」の許可を取り付けると、精力的に前進のチャンスを探った。第116装甲師団とこのところ対峙してきたアメリカ第3戦車師団もその隷下にいた。さすがにもともと232両あった戦車も、戦闘に耐えるものは70〜75両になっていた。

 9月10日19時30分、第105装甲旅団は「第9装甲師団戦闘団が到着次第、その指揮下に入る」よう第81軍団から命令を受けた。師団戦闘団の任務は遅滞戦闘だった。9月11日未明、戦闘団長のミュラー少将はリンブルクに入った。少し北東のHeggen(エゲン)に旅団指揮所、さらに道沿いにアーヘン方向のWalhorn(ワロンヌ)に段列がいた。この時点になっても、旅団にはまだ2両のブルムベアがいた。残ったパンターは2両ずつで戦線のあちこちに伏せられたが、この筋悪な運用には当然異論もあった。

 9月11日の午前中に、リンブルクはヤーボの支援を受けたアメリカ第3戦車師団に占領された。ドイツ軍はリンブルクの南側などで抵抗し反撃もしたが、20時ごろまでには一帯から追い払われた。北西のViller(ヴィレー)では150人ほどのドイツ軍歩兵が取り残されて降伏した。こうした動きとは別に、Eupen(オイペン)の南でもアメリカ軍が東へ進んでおり、オイペンを南北から包囲する態勢ができかかっていた。ドイツ工兵が橋を爆破したり道路に大穴をあけたりしてオイペン南の道路をふさいでいたのだが、アメリカ工兵は短時間でそれを何とかしてしまった。最終的にはドイツ工兵隊そのものが追い付かれ壊滅してしまった。午後に入るとオイペンでの戦闘が始まった。リンブルク南で孤立の危機にさらされたドイツ軍はあわてて東へ突破した。午後に第9装甲師団指揮所に現れた第81軍団長・シャック中将は、師団指揮所を西方防壁(ドイツ国内)に移すことを許可した。だが夕刻から夜にかけての無線連絡で、第9装甲師団そのものはまだドイツ国境への撤退が許可されなかった。西方防壁強化のため、まだまだ血を代価とする遅滞戦闘が求められていた。第105装甲旅団のわずかな生き残りは、ドイツ国境まで4kmのEynatten(エイナッタン)に防衛線を張ろうと努力した。

 12日朝から連合軍はエイナッタンを中心に激しい空爆を加えた。日中の前進は偵察にとどまった。Guderianは12/13日の夜からアーヘンの一角(南の森林地帯)にアメリカ軍が取りついたとみなしている。これはRoetgen(レートゲン)の対戦車障害物(竜の歯)地帯への攻撃だった。

 13日になると、ホッジスは第3戦車師団に第1歩兵師団の1個連隊をつけ、アーヘンの数キロ東にあるStolberg(シュトルベルク)を「威力偵察」させた。まずアーヘンを迂回し、包囲する可能性を試したということになる。第353歩兵師団は第116装甲師団の指揮下に入った(ドイツ軍は隣接師団の一方にもう一方への指揮権をしばしば認める)が、ふたつの師団はうまく協力できていなかったし、どちらにしても第353歩兵師団は非力だった。第353歩兵師団にもふたつの空軍要塞大隊が割り当てられたが、彼らはフィールドキッチンすら持っていなかった。

 シュトルベルクにあらわれたアメリカ軍の脅威を排除するよう、軍団司令部はシュヴェーリンにせっついた。例によってアーヘン北に謎の転進をしたりしたシュヴェーリンだったが、13日夕方にはシュトルベルクの西側から南へ向かってアメリカ軍の側面をついた。アーヘン南部は第9装甲師団戦区との境界であったため、両師団が参加する乱戦となった。16時ごろ、国境を2キロ越えたNuetheim(ニュハイム)付近に進出したアメリカ軍は突然強力な阻塞射撃を受け大きな損害を出した。この日、ドイツ軍は戦車26両撃破を報告し、アメリカ軍は戦車14両損失を記録した。歩兵大隊の増強を受けた第3戦車師団先遣隊はニュハイム周囲のリンゴ園の安全を確認し、夜を明かした。アーヘンの南東Kornelimuenster(コーンエリミュンスター)が危機に瀕し、第9装甲師団第86工兵大隊長ボックホフ少佐を中心とする戦闘団がこの町の南縁を守った。だが結局、予期されていたアメリカ軍の夜襲はなかった。この間に、第9装甲師団の指揮所はシュトルベルクの東5キロにあるHamich(ハミヒ)に移った。すでに第105装甲旅団の作戦可能なパンターは3両、ほか重対戦車砲(IV号駆逐戦車のことか)が1両と追いつめられていた。

 14日には最前線から下げられた部隊と到着した部隊がシュトルベルクで合流し、防衛線を敷き始めていた。アメリカ軍は朝のうちにコーンエリミュンスターの南北を十数両の戦車で突破したので、ボックホフはDorff(ドルフ)を通る今日のK13道路までの退却を命じた。アメリカ軍がアーヘンを包囲しようとしているなら、当面の焦点は小さな集落Krauthausen(クラウトハウゼン)だった。クラウトハウゼンへの最初の戦車による攻撃は歩兵の肉薄で撃退できた。だが夕刻にかけて、コーンエリミュンスターに200両のアメリカ戦車が集結しているという情報がもたらされた。

 その夜のうちに、アメリカ軍の先鋒はEilendorf(アイレンドルフ)に達した。もうドイツ軍は「戦線」を維持できなくなって、拠点と拠点の間がスカスカだからこうなるのである。ただしアイレンドルフ自体にはドイツ軍がいて、その周辺にアメリカ軍の偵察隊が陣取った。

 13/14日の夜に、第105装甲旅団は第9装甲師団からBreinig(ブライニヒ)の守備を命じられた。この時点では最前線はまだコーンエリミュンスターである。14日の昼に戦車を先頭に立ててアメリカ軍がやってきたが、戦わずに村を明け渡すしかなかった。最後の戦車はシュトルベルクに後退していた。

ブライニヒ周辺の地図

 さて、シュヴェーリンである。Guderian[2001]によると、次のような順番で事態は進行した。
  • 9/10日夜 ヒトラーがアーヘン市民の撤退許可を出す。
  • 10/11日夜 OKWがケルン/ボン大管区のガウライター、ヨゼフ・グローエにアーヘン市民を行政組織とともに避退させる指示を出す。
  • 11日夕刻 アーヘンを担当するkreisleiter(小管区指導者、Eduard Schmeer)にやっと指示が届く。
  • 12日 市民に避難指示が出され、パニックとなる。
  • 13日午前5時 警察がすべて撤退し、移動手段のない残存市民は取り残される。
  • 13日午前6時 第116装甲師団がアーヘン防衛司令部である第353歩兵師団の指揮権を得る。
  • 13日日中 アーヘン北側に司令部を置いたシュヴェーリンが市内に入る。22ヶ所の防空壕に25000人、たぶんそれ以外の場所に5000人ほどの市民がまだ残っている。街角でパニックを起こしている市民に対し、シュヴェーリンは(独断で)帰宅するよう指示する。さらに郵便局員に「私は市民の避難をやめさせたので救援をよろしく願う」と「アーヘンを占領したアメリカ軍司令官殿」宛の置き手紙を託す。手紙はどうしたものか噂になり、アーヘンの電話交換所からの報告が14時50分には第7軍からB軍集団に報告される。託された郵便局員が電話をして当局に盗聴されたものか。のち現物も見つかる。
  • 14日 博物館長Dr.Kuetgensを首班として、取り残された30000人ほどの市民を暮させる臨時行政組織ができる。シュヴェーリンに面会し、市民脱出への援助を求めるが拒絶され、むしろ市内にとどまれと指示される。いっぽうヨゼフ・グローエは第81軍団と第7軍司令部に乗り込み、シュヴェーリンが市民避退を妨害していると抗議。夕刻、シュヴェーリンは解任される。日付が変わる直前、「アーヘン市民はみな避退させよ」という念押しの命令が下る。
  • 17日 警察とトラックがやってきて残りの市民を避退させる。 

 結局シュヴェーリンの避退妨害は当時の混乱を鎮めるためやむを得ない一時的な処置だったとされ、アメリカ軍への手紙のことを含めても警告で済ませることになった。12月にしばらく第90装甲擲弾兵師団を指揮した後、シュヴェーリンは第76装甲軍団長となり、のち大将に昇進してイタリアで終戦を迎えた。

 14日夜に、第9装甲師団と第116装甲師団はシュトルベルクを含む西方防壁の防衛責任を第353歩兵師団から引き継いだ。第353歩兵師団は後退し、おそらくそのあとトリーアに陣取る。シュトルベルクはすでに西方防壁の一部であり、要塞化された地帯があった。結局のところ、シュトルベルクの失陥はアーヘンのそれの少し後になるのである。

 危機だということは十分にOKWもわかっていた。6月にバグラチオン作戦で全滅した第12歩兵師団は、第12国民擲弾兵師団として8月に再建されたが、これを西部戦線に投入することが決まり、13日朝には先遣隊がアーヘンから20km北東のJuelich(ユーリッヒ)に入った。同日、第107装甲旅団と第108装甲旅団をそれぞれ第116装甲師団と第2装甲師団に編入し、第2装甲師団の一部をアーヘン周辺に投入することが決まった。だがMG作戦が始まってしまうと、両旅団とも現地に近かったためそちらに投入されてしまい、編入は空約束に終わってしまった。

 15日朝、シュトルベルクに西と南から通じる道の両方をアメリカ軍砲兵の煙幕弾が覆った。突撃砲や対戦車砲が前進するアメリカ戦車をとらえた。ある戦区では、対戦車障害物の中で撃たれる戦車も、乗り越えたところを狙い撃たれる戦車もあった。第105装甲旅団の第2105装甲擲弾兵大隊は、生き残りを2個中隊と大隊本部に再編した。前日後方に退き、再編のために5つの各種「訓練」「予備」大隊を配属されていた第353歩兵師団がもう一度戦線を張らされることになった。

 シュトルベルクは持ちこたえた。15日の戦闘記録は錯綜しているが、連合軍のヤーボに関する記述がみられない。すでにMG作戦の影響が出ていたのだ。そして16日に決定的な前進が見られなければMG作戦が始まってしまうことをホッジスは知っていたに違いない。

 16日、アメリカ軍はシュトルベルク北東のEschweiler(エシュヴァイラー)に阻塞砲撃をかけ、シュトルベルクの南側を遠巻きにするように戦車を配置した。同時に、シュトルベルクの西側を、アーヘンと分断するように攻撃した。後者が第105装甲師団の持ち場であり、結果的にアメリカ軍のこの日の攻撃は南西側に集中した。昼までにシュトルベルクの南端はアメリカ軍にかみつかれ、ブンカーはひとつひとつ銃眼からの攻撃で沈黙させられた。Buesbach(ビュスバッハ)を中心とするドイツの防御は、現在のコンラート・アデナウアー通り73の地点にあった倉庫が焦点になっていた。12時になるとビュスバッハに2両のパンターが到着した。戦車と戦える待望の戦力である。このパンターにアメリカ軍はすぐ気付き、偵察大隊は前進を控えた。

 竜の歯と組み合わさったブンカーはいくらかまだ生きていて、アメリカ軍は15時過ぎからさらに高火力の部隊(戦車・戦車駆逐車約20両を伴う歩兵1個大隊、砲兵1個大隊の支援つき)を投入して一気にビュスバッハを掃討しようとした。ドイツ軍はパンターに加え、第394突撃砲旅団と第50戦車駆逐大隊の自走砲でこれを迎え撃った。弾切れを起こしながらも、その日のそれ以上の前進は阻まれた。22時にはまた2両のパンターが到着した。

 16日朝に到着した第12国民擲弾兵師団の第27フュージリア連隊はシュトルベルクとアーヘンの間にたどり着き、夕方にかけて反撃作戦を行った。アメリカ軍が撤退した後にいくつかのブンカーを取り戻すことができたが、アメリカ軍が阻塞砲撃を加えてくるとそれ以上前進できなかった。第116装甲師団はこの夜の時点で、戦車4両、突撃砲1両を保有しており、別に第394突撃砲旅団の突撃砲4両を指揮下に置いていた。

 第9装甲師団長ミュラー少将は、補充隊から補充人員を呼び寄せるのが遅いとか、どうせ10両あるかないかの戦車数に関する報告が軍団から上がってきた数字と合わないとか、戦線の混乱についての細かい不満をたびたび軍団司令部や第7軍司令部から寄せられていたようである。B軍集団のモーデル元帥は第9装甲師団を交替させ、同時にミュラー師団長を更迭することにした。すでに中隊規模も割り込んでいた第105装甲旅団は、第12国民擲弾兵師団に属することになった。

 少し遅れてアーヘンの北からアメリカ第2戦車師団も攻撃をかける準備に入ったが、17日からMG作戦が始まり、イギリス軍が長い側面をさらして攻撃を始めたため、延期になった。また、シュトルベルクへの攻撃も中止になった。第9歩兵師団はさらに南にあるヒュルトゲンの森に攻撃を仕掛け、この地における長い出血の始まりを刻んだ。

遠すぎた橋のちょっと右 9月17日〜24日


 シュトルベルクへの攻撃は「中止」されたと書いたが、これは正確ではない。おそらく実態としては、「第3戦車師団を中心とするコリンズの威力偵察が中止になり、戦線を張っての対峙が始まった」という表現が話の大筋を捕まえているのではないかと思う。MG作戦が展開されている間、アメリカの戦車と歩兵と砲兵は決して休んでなどいなかった。

 MG作戦は25日にイギリス空挺部隊の救出作戦が行われて終わるのだが、この節はその1日前までを扱うことにしたい。この日、第105装甲旅団が存在することをやめたからである。

ここらでもういちどグーグル地図を張っておこう。

アルンヘムとアーヘンの位置関係

連合軍はMG作戦で地図真ん中やや上のアルンヘム(アーンエム、アーネム)にある橋を取り、ライン川の渡河点を確保しようとした。最後の橋が取れずライン川を一気に渡ることができなかったので、連合軍は10月になってアーヘンへの攻勢を再強化した。

 この地図で「A」の赤い吹き出しで示してあるのは、アメリカ軍が1945年3月に取ったレマゲン鉄橋である。もちろんイギリス軍も少し遅れて空挺作戦と連動し、Rees(レース)やWesel(ヴェゼル)でライン川を渡ったし、バットンの第3軍も独自の動きをした。だがやはりアメリカ軍の主力はホッジスの軍であり、それは結果的にアーヘンを通ってライン川を渡ったといっても過言ではないであろう。

 17日には第12国民擲弾兵師団の残り全部と、第183国民擲弾兵師団の先遣隊がアーヘンにやってきた。第183国民擲弾兵師団はたびたび名前の変更があったが、8月から編成を始めた師団であり、3つの歩兵連隊と砲兵連隊以外の戦闘部隊は全く欠けていた。要塞機関銃大隊もひとつやってきた。パンター10両、第217戦車大隊のためのブルムベア10両などが第7軍に届いた。

 前日に焦点となったシュトルベルクとアーヘン中心市街の間隙は、第12国民擲弾兵師団の第27フュージリア連隊が第116装甲師団砲兵の支援を受けて、夕方までにアメリカ軍を排除して穴をふさいだ。あちこちで少数のブンカーの取り合いがあった。東方では前日までにアーヘン後方へ回り込もうとしたアメリカ軍がSchevenhuette(シュヴェンヒュッテ)まで進出していた。アーヘンを迂回してドイツ内奥に攻め込まれる懸念もあり、第12国民擲弾兵師団の第89擲弾兵連隊が2個中隊を出して攻撃したが、おそらく火力に大差があって大損害を受け後退した。シュヴェンヒュッテのアメリカ軍(第47歩兵師団の一部)は突出した位置にあり、この攻撃を受けてまずは現在地を固めることにし、抵抗の弱い森林部を伝って後方の地点を確保することに注力した。逆に第12国民擲弾兵師団の残りは、まさにシュヴェンヒュッテの西にある村のMausbach(マウスバッハ)を奪回する攻撃をかけたが失敗した。

 アメリカ軍は阻塞砲撃ゾーンを設けて守備にかかる流血を節約し始めた。Whitingによると、この日までの1週間にアメリカ第1軍が被った損害は2万人にのぼり、アメリカもドイツと同様に対空砲要員、MP、陸軍航空隊の地上要員などをなりふり構わず補充に使っていた(p.67)。このほか、燃料の不足と悪天候による空軍支援の困難もコリンズが攻勢をいったん止めた理由だった。


 アーヘン周辺の地図を見ると、森林の途切れた田園地帯に沿って南西から国道44号(現在の呼称でBAB44)がアーヘンの少し東を通ってドイツ中心部に延びており、コリンズのここ数日の攻勢はもっぱらこの線に沿ったものだった。逆に言うとここ以外の戦線は、ここまでドイツ領に食い込んではいなかった。アーヘンの真西30kmほどのところにオランダの都市マーストリヒトがあり、この郊外にはまだドイツ軍がいて、(たぶん危険な位置とは将星たちも思っていただろうが)撤退を許可されていなかった。そしてその逡巡の代価はこの日に取り立てられた。第275歩兵師団が大損害を被ったため、また戦線に穴が開き、急きょ第116装甲師団の指揮下に入った3個中隊編成の「1 Fallschrum Jagdkommando(降下猟兵戦闘部隊)」がその穴を埋めた(Haasler[2011]、p.323)。

 この「Fallschrum Jagdkommando」という表現はHaaslerにあるが、もとは第81軍団戦闘日誌の9月17日13時35分にある「1 Fallschirm-Jagdkommando im Westwall bei Orsbach wird festgestellt. 116.P.D. hat Befehl, sich dieses Btl. zu unterstellen.」という記述であろう。一方Guderian[2001]には、9月中旬に師団の指揮下にあった部隊リストの中に「Battalion Kuehne (a parachute infantry unit)」というのがある(p.168)。そしてベルギーの第2降下猟兵連隊リエナクターのページによると、1943年11月にレロス島で第2降下猟兵連隊第1大隊が上陸に呼応した降下作戦を行ったとき、第1大隊長はKuehne大尉だった。そして第2降下猟兵師団のほとんどがブレストに閉じ込められた後、第1大隊だけが第10降下猟兵連隊新編のために独立行動していて、中隊規模にまですり減らされた後、12月にオランダで連隊が再建されたとある。

 先に述べたChill戦闘団の中身は、この第2降下猟兵連隊第1大隊だったのではなかろうか。この部隊ならば、他の補充部隊や集成部隊とは段違いに訓練された動きを見せたはずである。

 Haasler[2011]は9月17日朝現在の主要部隊の戦車や砲の装備状況を示している(pp.320-322)。第12国民擲弾兵師団は75ミリ対戦車砲12門を保有。これは第12戦車駆逐大隊の1個中隊の分だろう。残り2個中隊は未編成であったという。

 第9装甲師団の戦闘車両はパンター10両、駆逐戦車4両。ただし夕方までにパンター3両が、おそらくマウスバッハ攻撃の支援で失われた。砲としては、88ミリ対戦車砲4門、75ミリ対戦車砲8門、Sd.Kfz.251/22(75ミリ対戦車砲搭載型)9両、88ミリ対空砲4門、車載20ミリ4連装対空砲2基、牽引式37ミリ対空砲3門、牽引式20ミリ4連装対空砲2基、105ミリleFH18/40榴弾砲12門、フンメル4両、150ミリsFH18榴弾砲9門。

 第105装甲旅団は5両のパンター、2両の駆逐戦車、1両のブルムベア(第217突撃戦車大隊のもの)、1両のIV号対空戦車を持っていた。夕方には作戦可能なパンターが6両に増えたが修理上がりか。修理中のパンターは夕方時点で4両あった。

 第394突撃砲旅団は第116装甲師団の指揮下に15両の突撃砲を持っていた。また第9装甲師団に分遣したものも少なくとも3両が作戦可能だった。

 Guderian[2001](p.175)によると9月18日、第116装甲師団は固有の戦車7両、偵察装甲車12両、第394突撃砲旅団の突撃砲15両、第217突撃戦車大隊のブルムベア10両を指揮下に置いていた。

 9月18日、アーヘンの北(つまり第116装甲師団担当区域の北隣)を担当していた第49歩兵師団と、そのまた北の第275歩兵師団はHeerlen(ヘールレン)を目指して反撃したが、ドイツ国境から2〜3キロ進んだところで食い止められた。逆方向の第12国民擲弾兵師団は敵の攻撃を食い止めた。Selfkant(ゼルフカント)周辺で第1降下猟兵軍と第7軍の境界があり、ここを突かれてドイツに東進される危険が高まったので、第7軍は虎の子の第183国民擲弾兵師団をGeilenkirchen(ガイレンキルヒェン)に配置した。虎の子と言っても9月15日に新編された、歩兵連隊と砲兵連隊しかない師団である。B軍集団のモーデルは第7軍に「間もなく第180師団と第190師団が到着する」と告げたが、ふたつとも軍管区の訓練部隊を束ねたもので、諸兵科連合であったが訓練部隊としての器材と人員しか持っていなかった。ふたつの師団が「歩兵師団」となるのは10月末以降、つまりアーヘン陥落後のことである。

 この日、第105装甲旅団司令部はシュトルベルク東北東3〜4kmのハステンラートにあった。旅団固有の歩兵である第2105装甲擲弾兵大隊はハンマーベルクの森におり、指揮下の雑多な部隊群が少し西のビュスバッハをまだかろうじて持ちこたえていた。アメリカ第3戦車師団はこの雑多な部隊群の南北から(A戦闘団が例によってシュトルベルクとアーヘンの間を攻め上り、南から偵察大隊が助攻をかける)攻撃してきた。南からの攻撃は、75ミリ対戦車砲が1〜2両の車両(おそらく偵察装甲車)を撃破するといったん止まった。虎の子のパンター1両に支援された戦車破壊班が北からの攻撃を食い止めようとしたがアメリカ歩兵が戦車をよく守り、破壊班は損害を出して後退した。アメリカ軍は夜までシュトルベルク西端を確保した。

 日付が変わるころ、ハンマーベルクの森の東側、マウスバッハの北方にもアメリカ軍が前進してきた。第12国民擲弾兵師団は払暁に反撃し、1個中隊を中隊長ごと捕虜にした。アメリカ軍は混乱したが、徐々に支援なしで歩兵1個大隊が攻撃してきていることに気付き、砲火を集中させた。無理を押して進出した75ミリ歩兵砲隊の一部を含め、今度はドイツ軍が70名の捕虜を出した。ドイツ軍にとって、マウスバッハ北方よりもシュトルベルク西側の状況が深刻だった。軍団司令部との合議の結果、第9装甲師団を先頭に立て、第12国民擲弾兵師団はシュトルベルク西側で翌19日に反撃することになった。

 19日になっても激しく戦闘が続いているのはシュトルベルクだけで、ドイツ軍も連合軍ももっぱらMG作戦で多忙だった。だがこの日は第116装甲師団にとって重要な日だった。シュヴェーリンに仕えてきたフォイクトバーガー大佐が師団長代理の任を解かれ、外部からフォン・ヴァルデンブルク大佐(のち少将)が着任した。新しい師団長は1930年に厳しい競争を勝ち抜いて参謀教育を受けるために選抜され、以後は1943年まで各級司令部の参謀士官、ハンガリー軍でのドイツ連絡士官、ローマのドイツ軍代表部員などとして勤務してきた。第1次大戦では3度の負傷歴があった。部下たちはすぐに新しい司令官に変なところがなく、師団の監視者としてふるまうつもりもないことを感じて心服した。

 第12国民擲弾兵師団は前日の攻撃支援で弾薬を使い果たしており、おまけに段列がアメリカ軍の後方道路への砲撃で多くの車両を失っていた。第7軍は19日夜までに弾薬を都合すると約束したが、攻撃作戦は第9装甲師団だけで行われた。第105装甲旅団も第9装甲師団に従って参戦した。アメリカ軍首脳部が事態に気付き、空軍の介入を要請して、結局いくらも前進はできず、第12国民擲弾兵師団も加わっての再攻撃は取りやめになった。

 20日には第116装甲師団戦区にもイギリス軍の威力偵察があったが、損害を与えて跳ね返した。だがこの日、イギリス軍がナイメーヘン(ニーメゲン)でワール川を渡り、MG作戦は決定的な局面を迎えていた。

 シュトルベルクでは東のマウスバッハ方面で、第3戦車師団のB戦闘団が強力な空軍の支援を受けて北進した。ビュスバッハも戦線というより不連続な抵抗巣の集まりになった。ブンカーがあっても入れる兵も置く機関銃もなかった。

 21日の第7軍の戦いはほとんどシュトルベルク周辺に局限された。アーネムでフロスト中佐のイギリス空挺部隊が降伏したのはこの日である。連合国空軍も盛んに活動する中、第12国民擲弾兵師団はシュトルベルク南側のほとんどを失ったが、アーヘンとシュトルベルクの間隙部に配置されたままの第9装甲師団は持ちこたえた。段列などからかき集められた160人の兵士と2人の士官が機関銃なしで前線の隙間に投入された。

 22日現在、第116装甲師団の戦闘可能な車両は次の通りだった。

  • IV号戦車11両
  • パンター1両
  • 突撃砲2両
  • 75ミリ自走対戦車砲2両(形式不明)
  • (牽引式)75ミリ対戦車砲20門
  • 突撃砲16両(第394突撃砲旅団の分)

 22日もアメリカ軍は南から北へ圧力をかけた。パンツァーファウストで1日に3両のアメリカ戦車を撃破する兵士も現れた。夜になるとアメリカ軍はシュトルベルクのブンカー群から退却をはじめ、ドイツ軍から見て危地を脱した。

 23日から24日にかけて、22日のアメリカ軍後退とアーネム方面の後始末でアーヘン周辺は平穏であり、(Guderianによると)第116装甲師団は20両の戦車を受け取り、第9装甲師団は第246国民擲弾兵師団と交替した。この師団はバグラチオン作戦でかろうじて全滅を免れた第246歩兵師団が、先に壊滅していた第78突撃師団の生き残りなどと編合された師団で、例によって歩兵と砲兵しかいない師団だった。なお第78突撃師団は別途数字が引き継がれて新編されている。

 ルントシュテットはMG作戦の失敗を受け、ロレーヌでバットンと戦っているドイツ装甲旅団群を引き抜き、オランダに投入するよう具申した。ヒトラーはロレーヌの放棄を拒否したが、第9・第116装甲師団によるアーネム南方での攻勢を命じた。Guderianによると、第1降下猟兵軍だけがこれに反対した。この付近は戦車の優位を生かせない地形であることをイギリス軍が証明したばかりだというのに。第116装甲師団は27日から30日にかけてアーヘンを鉄道輸送で離れた。

 第105装甲旅団は24日から26日にかけて戦線を離れ、第9装甲師団への編合作業が始まった。

 Haaslerは9月26日に西方軍が第116装甲師団と第9装甲師団への車両配分を変更したことを記している。こちらの数字が詳しいので、おそらくGuderianは細かな日付を間違えているか、戦車が届き始めた日付を記している。各戦車師団への配分は次の通りだった。
  • 第9装甲師団 パンター26両(うち6両は修理上がり)、'leichte'IV号駆逐戦車2両(75mm/L48戦車砲装備のものか?)、75ミリ対戦車砲10門(RSO牽引) ほかに第105装甲旅団の分としてパンター8両
  • 第116装甲師団 パンター20両、突撃砲10両、ベルゲパンター2両、'leichte'IV号駆逐戦車8両、75ミリ対戦車砲10門(RSO牽引)

 第105装甲旅団の第2105戦車大隊は200人あまり生き残っていて、半分以上が第9装甲師団第33戦車連隊の第8中隊を構成し、残りは第2大隊の本部と各中隊・段列・整備隊に少しずつ分散した。生き残った15両のパンター、受け取った26+8両のパンターを合わせ、大隊は49両のパンターを持つことになった。ところが10月15日時点で大隊はパンター53台を保有と報告している。Haaslerは、第105装甲旅団の生き残り車両かもしれないし、記録漏れの修理上がり車両を受け取っているのかもしれないが、確たる証拠はないとしている。

 第2105装甲擲弾兵大隊は第11装甲擲弾兵連隊第2大隊となった。連隊本部まで前線に投入してしまったので、こうした形で事実上の連隊本部を作るしかなかったのである。新しい連隊長には第105装甲旅団長のVolker少佐がそのまま座った。もっとも彼はすぐに、第107装甲旅団長として転属することになる。

 駆逐戦車を持っていた第2105戦車大隊第4中隊と工兵中隊はそれぞれ戦車駆逐大隊と工兵大隊に編合されたはずだが、細部は分からない。また、装甲兵員輸送車がすべて装甲擲弾兵連隊に行ったのか、いくらか装甲偵察大隊に行ったかも不明である。

 これで第105装甲旅団を軸にしたアーヘン戦の物語を終わる。だが本当のアーヘン戦は、まだ始まってもいないのである。ちょうどラスト・オブ・カンプフグルッペ第3巻の発売も順調に遅れているので、運が良ければ出版前に我々はアーヘンの陥落に立ち会うことができるだろう。

ドイツの西北ラスカンのとなり〜アーヘン1944その3に続く

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