マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

ミリタリ関係



ブレジネフ大佐の小さな場所、あるいは資料のウラオモテ

人がウソを伝えるいくつかの理由


 例えばロンメルのB軍集団参謀長だったハンス・シュパイデルが「Invasion 1944: Ein Beitrag zu Rommels und des Reiches Schicksal」を書いたのは1949年だった。『戦力なき戦い』という題名で邦訳もされた。この本の中でシュパイデルは、片っ端から登場する人物が「ヒトラー政権に批判的だった」ように印象付けようとしているように読める。ゼップ・ディートリッヒですらその対象になっている。もちろんシュパイデル自身がヒトラー暗殺計画のグループに入っていたことはすでに周知のことであった。

 1949年という出版時期を考えれば、ドイツで「ヒトラーに反対した人々」が「唯々諾々と従った人々」より生きやすかったことは想像できる。シュパイデルはその恩典をなるべく多くの知己に分け与えようとしたのであろう。

 もう少し利己的な動機で、虚偽を書き残し、あるいは真実の一部だけを隠して印象を操作する人や機関もある。例えば辣腕で悪名を得たビジネスマンの伝記が、自分の悪意を懸命に否定するものになっていることがある。

 ポック元帥は終戦直前に機銃掃射で落命した。その日記にはヒトラーが死んだことまで書かれている。ポックは保身のために日記を書き直したり、一部を隠したりするチャンスがなかった。グデーリアンの物言いに腹は立つがその能力を認めてじっと我慢し、でも我慢できないので腹心のクルーゲに愚痴を聞いてもらい……といった様子が赤裸々に読める。後にグデーリアンにクルーゲが決闘を申し込んだのも、クルーゲ本人のことだけではなくポックへの非礼の数々も影響したのであろう。こういうものは滅多に残らない。

 それぞれの国、それぞれの時代で「知っているが書いてはいけないこと」はある。職務上の秘密のような一般的なものから、政治的な強制まで。一次資料は当然にその影響を受けるから、「いつ言ったか分からない発言」「いつ書かれたかわからない文書」は本物であることが確実であっても、解釈に注意する必要がある。

 まったくこうした強制を受けない状況でも、人は思い込み、記憶違いなどで虚偽を書き残す。複数でチェックし合った文書は、個人で書き残したものより、こうしたエラーは少ないと期待できる。逆に「後世の校正者や複製者が(エラーを直すつもりで、あるいは気づかず)間違って伝えてしまった」ケースは古文書解読や版を重ねた原典の研究でよく聞く話だから、関わった人数が多いことがマイナスに働くケースもある。

 中立的な立場であっても、知らないことは書けない。だが古今東西、知らないことを知っているように断言する人は後を絶たない。それをしない人を「出来ない奴」と決めつけて思い込みで企業や部門を引っ張るワンマン指導者も多いし、それで(良くも悪くも)世の中が回っているのも確かである。これも「誰が書いたか」をもとにする判断のバリエーションである。

 書いてあることが全くの事実であるとしても、それはあくまで著者の視野を基礎として述べたものである。ルールとしてはそうであっても、そのルールは守られていなかったかもしれない。特定の時期に、特定の地域でだけ行われた措置だったかもしれない。「自分の知っている代表例がそうだから、他も全部そうだと思い込む」ことは古典的な判断の誤りである。著者がそれを犯しているかもしれないし、読者がそれをやってしまい、原著者が慎重につけている留保を取っ払って一般化してしまうかもしれない。

 ドイツ軍のガスマスクケースの中身は、周知のように、あまり使われることがなかった。だから「中身を出して小物入れに使って、検査のときだけ戻していた」という証言が英語掲示板に上がって、「そっそっそんな破廉恥な軍紀違反があるわけないだろうっ」という反論が、どうも元軍人らしい人から寄せられたことがある。じつは「中身を出して」という証言主は武装SSの元下士官から聞いたのであった。これだけだと、武装SSはみんなそうだが国防軍はそんなことはしなかった……という印象を持つが、どうだったろうか。武装SSといっても30番台師団とダスライヒではいろいろ違っただろう。そもそもガス戦なんかないと見切れる材料がそろってくるのは大戦末期だから、いつの話かも大事である。

 ドクトリンや事実認識で「日本陸軍はそう考えていた」と書く人がよくいるが、それは「東條英機と辻正信と石原莞爾と水木しげるに尋ねて、同じ答えが返ってくる」ということであり、よほど当たり前のことに限られるだろう。個々の証言はその証言者のものであり、その「誰が」という情報を消してしまうことにはリスクがある。

 まとめると、「誰が」「いつ」書いたか、もちろんそれが「本物」であるかを念頭に置いて、書いてあることの重要性を判断しなければならない。

クリティカルリーディング


 2003年のPISA調査で日本の15才少年少女が「読解力」でアレな点を取り、国を挙げて対策が図られたことで、「クリティカル・リーディング」という概念もまた日本で広まった。「論理的に物を言うためにネタを読む読み方」みたいなものである。

 だから15才向けのPISAテストですら、この能力を測るのに複数のテキストやデータを読ませ、それを総合的に判断することを求める。

 複数の情報源があったら、とりあえず比較して一致点と相違点を確認する。これが出発点になる。そこから、すでに知っている知識、よく知られた分析方法などを駆使して「論理的に」自分の結論を選び取っていく。うまく行けば、説得力のある独自の発見や予測にたどりつける。

 ハインリーツィ上級大将は末期東部戦線での活躍で知られているが、バルバロッサ開始時は歩兵軍団長、年が明けたころから第4軍司令官であった。ハインリーツィの書簡集はバルバロッサ作戦最初の1年間のものしか英語で公刊されていないが、1941年12月4日の項に「最近よく聞く要望」として「厳寒期なので、ジャムでなくバターなどの脂肪を配給してくれ」という項目がある。軍団長であるから、隷下師団を回っているうちにこうした要望を聞き取るわけである。

 いっぽう、第15装甲師団の補給指揮官(補給担当参謀を補佐する実務担当者で、フレイは自身が参謀少佐だったが、民間人時代がある年長者としてこの職に就いた)だったフレイ少佐の書簡集には、1942年5月23/24日の項にSüßrahmbutter(甘味つきバター)の缶詰が先週から届き始めたがアフリカではマーマレードが人気なんでどうしたものか……という記述がある。フレイの事務所(師団司令部とは別、要するに師団補給処にいて補給中隊に居候していると思われる)ではケーキ職人だったスタッフがいて、このバターを使って聖臨降誕祭のケーキを焼くことになるのだが、とにかくジャムを代替できる甘いバターが1942年夏に届き始めたというのは、半年前の前線からの悲鳴が届いたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。補給品が届いたと言うところだけが事実であって、全国的にそうなのかとなると、納得できる史料が将来出てくることはあまり期待できない。

 ドイツ兵士が個人個人で「ラード入れ」を持っていて、固形油脂をここに入れて運び、パンに塗るだけでなく飯盒などを使った料理に使っていたことを知らないと、甘いバターの「缶詰」なんか受け取ってどうするのか? と思ってしまうであろう。書いてないことまで知らないと読み取れない情報もある。しかし日陰でも摂氏40度というアフリカの夏に届いたら分けようがない(ラード入れから溶け出してしまう)ので、ケーキを焼ける人がいない中隊はやっぱり困っただろうと思うのである。

裏を取るとはどういうことか


 犯罪捜査で「秘密の暴露」と呼ばれる概念がある。自白の信用性は「真犯人しか知りえない事実」を自白したとき大きく上がるということである。それはもちろん、犯人っぽく真に迫った供述をしたということではない。捜査当局は確認したが一般に公開されていない情報や、捜査当局が知らなかったが後で確認できる情報を口にすることであり、他の情報と整合性があることがポイントになる。これは「裏を取る」ことの基本的な例である。

 ある時点である範囲の人々に共有されていた情報は、後から見れば過誤かもしれない。だが、「共有されていた」こと自体は重要な情報である。それによって組織は誤った決定をしたかもしれない。立場が異なる複数の人々が同じ認識をしていた場合、「共有されていた」ことも、その認識が正しかったことも蓋然性が高くなる。しかしたいていの場合、100%確実とまでは言えない。

 上記の甘いバターの例で言えば、「知られた例の一般性はどの程度か」がまず問題となる。

 前線兵士に供給する食糧の基準は、当然規定されている。まずパンに塗るバターやらマーマレイドやらについての規定はあるのか。簡単に言うと、ない。The handbook of German military forcesは連合軍側情報なので正確性に限界があるが、大きく外してもいないだろう。その第VII章にあるように、1日に供給すべき各項目の目安、総カロリー数などが決まっている。これを昼、晩、朝に振り分ける。昼の温食と一緒に、行李から前線の中隊に夕食と朝食のためのパンや冷製食品を運んでくる。その中にマーマレイドやらバターやらが組み込まれる。しばしば「グーラシュ」と総称されるドイツ軍の温食は、相当な脂肪を含んでいる。これと兵士に供給されるラードなりバターなりの合計量が規定されているのである。

 おそらく気分として、兵士たちは「東部戦線冬季加給食」のようなものを要望したのだが、新しい規定ができたという話は読んだことがない。ひょっとしたら調達レベルで精いっぱいの配慮をしたのかもしれないし、全然関係なくたまたまアフリカ戦線にバター缶詰が届いたのかもしれない。だいたいググってみると、軍隊とは関係ない家庭料理として、Süßrahmbutterをリゾットに入れるレシピがヒットしたりもするのである。送るほうはパン用と思っていないかもしれない。「他にどんな可能性があるか」を冷静に数え上げられるかどうかで、認識の正しさを確認する力は大きく左右される。

 もし他の兵士や補給関係者の回想で、甘いバターの配給が増えた時期や冬季にバターが切望された話が出てくれば、ふたつの事実に因果関係があるのか、またバター増配に地域性があったかなかったか(そもそも特定時期以降の増配などあったのか)を判断する根拠になる。今の状態は、たまたま見つかったふたつの事実を直線で結んでみた状態に過ぎない。

 言うまでもないことだが、同じネタ本を丸写ししている資料が何百あっても、それでもとの情報が真実らしくなるわけではない。三人市虎を成すというけれども、同じような記述があちこちにあれば、それはむしろ疑うべきである。

ジューコフの浮き沈みと回想録


 ロバーツの『スターリンの将軍 ジューコフ』はロシア語でしか出ていない情報を多く含んでいるから、ここであまり細部には立ち入らないが、いろいろ面白い本である。時間がたってわからなくなることと、時代が変わったから語れることが歴史にはあるが、後者のありがたみを教えてくれる。ちょうど頃合いに、今なら史料のウラオモテが見えるのである。

 ジューコフは東ドイツを占領するソヴィエト軍の司令官としてしばらく過ごし、1946年3月にソヴィエト陸軍総司令官として遇された。しかしスターリンはジューコフの軍と市民への権威や国際的な評価を我慢できなかった。いや、こういう台詞こそ、Wikipediaであれば要出典マークをつけられ、それ以外の場所であれば「お前はスターリンさんなのか」とか言われるところである。スターリンが何を気にしていたかなど、証拠が残るものだろうか。

 ロシア語版Wikipediaまでたどると、ジューコフの三女マルガリータがインタビューを受けて、おおよそ上記のようなことを話していることがわかる。被害者側はそう受け取っていたということである。1946年6月以降、ジューコフはベルリンでの戦利品私物化など大小のアラを探され、オデッサ軍管区司令官に左遷された。

 フルシチョフ時代になると、その政治的同盟者として復権し、1955年には国防大臣となった。ところが通常戦力を軍縮して核兵器の予算をねん出しようとするフルシチョフと対立し、1957年から批判を受け始め、1958年に解任されただけでなく過去の功績までケチをつけられた。ジューコフは1964年にフルシチョフが失脚するまで我慢しなければならなかった。

 ジューコフが回想録を書いたのは、その名誉回復期であった。権力者はブレジネフになっていた。1969年に初版が出て、日本語になっているのはこの版である。反響が大きく、ツッコミも多かった。版元も注文を付けてきた。すでに左半身不随だったジューコフは改稿を終え、1974年の改訂版刊行を目前に亡くなった。

 ところがまだ終わりではなかった。ソヴィエト崩壊後、四女のマリーヤが検閲を食らう前のタイプ原稿を持ち出し、第10版、さらに第11版を重ねた。第9版よりも第11版はじつに160ページ長かった。現在の英語版(kindle版もある)は1985年に出た1974年版の英訳をもとに、第11版までの追加箇所についてロバーツが解説を書き起こしている。

 このロバーツの解説が「あっこういうのがダメだったのか」というような観点からなかなか面白いのだが、ここでの本題はそれではない。

小さな場所とブレジネフ


 ロバーツは「一九四三年四月にカフカズ[=コーカサス]へ行った際、後のソ連指導者で政治将校だったレオニード・ブレジネフ大佐に相談事があったが、あいにく不在であったという逸話も、後から挿入した一例である」と書いている(『スターリンの将軍 ジューコフ』333頁)。STAVKA代表たるジューコフが大佐にいちいち会いに行くものか「賢い者は察してくれる」とジューコフは娘にぼやいたと言う。検閲の過程で、誰かから加筆を求められたものらしい。

 日本語版『ジューコフ元帥回想録』では、表現はこうなっている。「われわれは、兵士たちが[間断なく砲爆撃を受ける橋頭堡"小さな土地"を守り抜く]この試練を耐え抜くことができるかどうかという問題について、第一八軍政治部長ブレジネフと話合いたいと思ったが、彼は、激戦が続けられていた「小さな土地」に行っていたので会えなかった」(364頁)

 じつは英語版では「We wanted to ask the advice of the head of the political department of the 18th army, L.I.Brezhnev, about this; Brezhnev had been here numerous times and was familiar with the situation…」(Stackpole版下巻162頁)となっている。「「We wanted to ask the advice of」とロバーツや共訳者Svetlana Frolovaが訳したニュアンスを、日本語版役者たちは「話合いたいと思った」と訳し、はからずもジューコフ元帥のメンツを立てたのである。「Brezhnev had been here numerous times and was familiar with the situation」は日本語訳から落とされているが、清川勇吉は訳者あとがきで「ジューコフ将軍がソ連軍人の人名などを上げて功績や美談を紹介した若干部分を割愛した……止むを得ないページ数の都合で余儀なくされた」と書いているから、検閲事情を察してそうしたわけではないようである。

「小さな土地」は「ノボロシースクの作戦根拠地」「総面積は三〇平方キロメートル」などとジューコフにより描写されている。このジューコフの出張はノボロシスク攻撃を担当する第18軍と、もう少し北でコーカサスからケルチ地峡確保を狙う第56軍の連続指導だった。第56軍が4月末に攻勢に失敗し、STAVKAが攻勢中止を認めるまで、ジューコフはこの地にいたようである。

 その全体像を解説する前に、ブレジネフと「小さな土地」がどう結び付けられるのか、どうしてジューコフが言及を迫られたのかを解説しておきたい。

 ブレジネフは文学雑誌Novy Mirに大戦期の短い回想を3本、1978年に続けて寄稿した。ゴーストライターのグループがいたのであろうと言われるが、はっきりしない。この3部作によってブレジネフは1980年、文学部門のレーニン賞を受けた。その1本目が「小さな土地」に関する兵士たちの苦闘をつづったものだったのである。ブレジネフ大佐はたびたびここを訪れ、督励した。1978年にはジューコフは亡くなっているから、ブレジネフの事績は権力掌握の過程でそれ以前から喧伝されていたのであろう。三部作で1冊に収まる長さであり、単品で回想集に収められているものもある。

戦史における小さな場所の位置づけ


 グレチコ元帥はブレジネフ時代に位人臣を極めた。元帥になったのはずっと早く、ジューコフが国防大臣になった1955年だった。1960年からワルシャワ条約機構軍のドイツ派遣軍司令官をつとめ、戻ってきた1967年にはフルシチョフはもう失脚していた。1967年から1976年まで国防大臣を続け、ロバーツによると、ジューコフの国葬に当たっては軍を代表して弔辞を述べた。

 ジューコフの視察時にはグレチコ少将は第56軍司令官だった。ただ、じつにややこしいことに、「小さな場所」が生まれることになった上陸作戦は、第56軍の作戦でもないし、グレチコがやったわけでもない。このあたりの事情に一番詳しいのが、グレチコが元帥に出世して出版した回想だというだけである。初版は1967年であり、ブレジネフ時代だが、それほどブレジネフを他人より持ち上げているところはない。同じような仕事をしていた同僚と並べる形で、業績に触れた箇所がある。だからブレジネフは全体としては業績や栄誉をお手盛りした人だとしても、他人の自分への評まではあまり気にしない人だったのではないかと思う。ジューコフ回想録への介入も、木っ端役人が自身の忖度でやってしまったのではないかとマイソフは想像している。

 1942年9月、引き裂かれるように北コーカサス方面軍は廃止され、東の端にいた兵力はスターリングラード方面軍に譲られ、残りはトルコ国境を守るトランスコーカサス方面軍に統合された。方面軍司令官チュレネフ大将が全体を指揮するのは無理なので、北に向かう戦線の東半分はマスレニコフ中将の北部作戦集団、西半分はチェレヴィシェンコ上級中将の黒海作戦集団とされた。グレチコはチュレネフとチェレヴィシェンコの信任厚かったようで、ここで大規模な攻勢が企てられたり、軍司令官の不首尾があったりすると、グレチコがその軍司令官に異動することが繰り返された。

 1942年8月にはすでにノボロシスクはドイツの攻撃を受け始めており、9月には市内の大部分がドイツ軍の手に落ちた。セバストーポリの失陥と合わせ、ソヴィエト黒海艦隊は建造はおろか、整備も難しくなってしまった。しかし9月にはコーカサス全体としては、ドイツ軍の行き足は止まってしまった。10月にかけ、コーカサス山脈で歩兵同士の地味な戦闘が続き、さらに西のステップ地帯ではドイツ軍が突破口を探して動き続けた。ノボロシスクでは互いに消耗しきった部隊が対峙する状況になった。

 1943年1月、マスレニコフ中将の北部作戦集団がまず動き、ドイツ軍はツァイツラー参謀総長がヒトラーの小さな迷いを衝いて撤退命令を発することに成功した。ドイツ軍の東半分が西に逃げ出した。すでにロストフはソヴィエト軍が押さえているから、クリミア半島に通じるケルチ地峡を当てにして退却するしかない。ソヴィエトから見ると、もし黒海作戦集団が押し出してケルチ地峡をふさげば、スターリングラード包囲戦のお代わりを食える。だからそうしろと指導した。

 その中で出てきたのが、第47軍によるノボロシスク上陸作戦であった。

 黒海の海岸線は大雑把に言えばバックスラッシュ「\」だから、ドイツ軍は北西からノボロシスクにやってきた。ソヴィエト軍はノボロシスクの西15kmほどにあるユジュナヤ・オゼレエフカの街に3個旅団を上陸させ、橋頭堡とする計画だった。優勢な戦力で包囲しようとすれば、ドイツの最前線はそれだけ薄くなってしまう。

 これを成功させるため、ソヴィエト軍は例によってというべきか、ちょっと生還を期し難い陽動作戦を立てた。ノボロシスク南端のミスハコ岬に、数百人を上陸させるのである。

 これら全体を統括するのは第47軍であり、黒海艦隊と協力して4月に上陸作戦を掛けた。だが作戦の齟齬が多く、濃霧もあり、ユジュナヤ・オゼレエフカに1427名が上陸したところで作戦中止という失態となった。ところがミスハコへの上陸は目論見通り成功していたので、上陸した部隊は血路を開いてミスハコに合流した。こうして出来上がったのが「小さな場所(マラヤ・ゼムリャ)」とあだ名されるミスハコ橋頭堡である。

 まさにミスでできたハコである。第47軍司令官カムコフ中将は待命となり、本人の希望か懲罰的な措置か、なんとソヴィエト陸軍大学校に入り直して卒業した。1898年生まれである。以後は軍司令官級のあまりぱっとしないポストに就いた。黒海艦隊オクチャブルスキー中将は1年後に復帰させてもらうまでアムール川小艦隊へと飛ばされた。

 明らかに失敗と見なされているのだが、現状は現状である。コーカサス山脈で山岳戦をやっていた第18軍が2月に第18空挺軍に改組され、空挺部隊や海兵旅団を配属されて、4月からミスハコ橋頭堡を盛り立てる作戦の司令部となった。ブレジネフ政治部長の着任はちょうどこの4月1日である(自分の本で書いている)。

 作戦は失敗であっても、ドイツ軍から咬み取った土地は重要だった。この土地にまつわるソヴィエト連邦英雄は21人顕彰されたという。ブレジネフはこの土地を、危険を冒して40回督戦したとして一等祖国戦争勲章(戦争中に32万人以上が受賞したと言われる)をもらい、当時のプラウダの記事にもなった。

ジューコフの指導旅行


 STAVKA代表に指揮権はない。ないことになっているが、改訂版で追加された(日本語版にはない)ジューコフの記述によると、STAVKA代表の提案を現地司令官が拒否したケースは大戦を通じて絶無だった。まあSTAVKA代表がジューコフ以外だったら、どうだかわからないが。

 そういうジューコフが行くのだから、視察旅行というより指導旅行と書いたほうが実態に近いだろう。我々は幸い、3人の語り手からその様子を聞くことができる。ひとりはジューコフであり、もうひとりはグレチコ、最後はシチェメンコの回想録である。

 シチェメンコについては紹介が必要だろう。日本語版Wikipediaではシュテメンコとなっている。これは英語表記のShtemenkoをそのまま読んだものである。ロバーツの著書ではシチェメンコとなっているが、これはШтеменкоのШを「シュッ(摩擦音)」、еを「イェ」とロシア語っぽく発音すればそう聞こえると言うことだろう。1943年4月、参謀本部作戦課長を兼任していたアントノフ参謀次長が兼任を解いたので、作戦課長代理の「代理」が取れ、同時に中将になったばかりであった。アントノフやシチェメンコは、ワシレフスキー参謀総長が前線指導に出ている間スターリンに状況説明をする役なのだが、それでもたまに前線を見るよう命じられた。

 このコンテンツとはあまり関係がないが、シチェメンコもソヴィエトで長く生きた人として浮沈があった。なにしろ中将降格を2回食らって、2回大将になっている。ソヴィエトのГенерал-полковникは中将と大将の間の階級で、上級中将とでも訳すほかないが、英語ではcolonel-generalが定訳であるためドイツ軍の上級大将と混同する人が多い。日本語版Wikipediaでシチェメンコが上級大将になっているのは間違いで、最終階級は大将。陸軍参謀総長もやったし、ワルシャワ条約機構軍総参謀長もやったが、司令官はほとんどつとめなかった。

 1943年4月17日、ジューコフとシチェメンコは出発した。ジューコフが声をかけて、クズネツォフ海軍総司令官、ノヴィコフ空軍総司令官が同行した。北コーカサス方面軍のマスレニコフに会った後、19日には第56軍のグレチコ中将を訪れた。泥将軍をはじめとする劣悪な移動・補給事情にグレチコは悩まされていた。ジューコフは攻勢の延期を認め、後方の組織づくりについて細かい助言をしたとグレチコは書いているが、どれだけ延ばしたかは書いてない。シチェメンコによれば……5日であった。4月20日と命令されていたのを25日にしたのである。しかし増援や物資到着の当てに裏打ちされた延期であった。何しろSTAVKA代表は毎日スターリンに電話報告するのが義務なのだから話が早くて確かである。

 随行者たちはてんでに師団や軍団に話を聞きに行き、その場で部隊間協力の話をまとめた。この間にジューコフは「小さな場所」の橋頭堡を拡大する見込みはないことを確認し(本人による)、それでもその防衛に強い関心を寄せた。おそらくジューコフとノヴィコフが話をつけ、200機編隊が2波、20日に「小さな場所」周辺のドイツ軍を爆撃し、(ジューコフは触れていないが、4月17日からドイツ軍が仕掛けていた)橋頭堡攻撃計画を妨害した。

 じつはシチェメンコの回想録には、21日に第18軍司令部へ行って「初めてブレジネフに会った」と書いてある。本人はそこにいたのである。ジューコフが覚えていないだけなのである。ただしシチェメンコとも何かを話し合ったようには書かれていない。あいさつしただけであろう。

 25日の攻勢開始日は、準備が終わらないので29日に延ばされた。ジューコフたちを通じてスターリンの同意を得ているからできることである。5月3日、ドイツの頑強な抵抗を打ち破るべく、とっておきのNKVD師団が予備から放出された。結局ドイツの抵抗拠点クリムスカヤは取ったものの、大きな戦線の崩れがないまま後方陣地が姿を現し、新たな増援で新たな攻勢を掛けなければ現状が破れないことがはっきりした。

 ジューコフたちは攻勢中止を承認し、モスクワに帰った。報告を聞いていたせいか、スターリンはシチェメンコが恐れていたほど不機嫌を表に出さなかった。しかしマスレニコフは更迭された。マスレニコフの指揮手腕についてはグレチコは何度か批判しており、ジューコフは何のコメントもしていない。マスレニコフはベリヤの腹心とみなされており、ベリヤ失脚の直後に自殺した。だからマスレニコフを彼らが悪く書いているのを、公正な評価と無条件には受け止めることができない。

  • 注と訂正 マスレニコフは1943年1月までトランスコーカサス方面軍の北部作戦集団司令官だった。平坦なコーカサス中部・東部を通ってドイツ軍を追い上げた手腕が評価されたのか、北部作戦集団司令部は1月に再設置された北コーカサス方面軍に昇格し、トランスコーカサス方面軍から北西に攻め上がる方向の部隊を引き継いだ。このとき、黒海作戦集団もまるごと配属替えになった。だから「小さな場所」に今後の展開が見込めず、グレチコの攻勢も失敗した全般的な責任を上司のマスレニコフが問われ、5月にイスクラ作戦が終わったばかりのヴォルホフ方面軍司令官代理(副司令官格)に降格・左遷された。その後も方面軍司令官代理と親衛軍司令官(大規模で有力なので、軍司令官と方面軍司令官の中間の格付けだったと思われる)を転々とし、第3バルト方面軍司令官に再び昇ったのは1944年10月だった。

ブレジネフのウソとホント


 マラヤ・ゼムリャはソヴィエト軍のメンツにとっては重要だったが、戦略的に重要な場所ではなかった。グレチコによれば、すぐ郊外にソヴィエト軍が布陣しているため、港湾は危なくてドイツ軍も利用できなかったのである。そこがさも重要な場所であるように言わせ、自分の貢献が大きいように称賛させた限りにおいて、ブレジネフは客観的な歴史理解を曲げている。

 しかしブレジネフが1960年代に権力を握っても、1943年に発行され少数とはいえ外国にもばらまかれた1943年のプラウダを改ざんすることはできない。結果的には重要でない場所に配され、黙々と義務を果たした数十万人と同じ栄誉を、危険な督戦を続けたブレジネフも受けたのである。ブレジネフのLittle Landに関する文章は、自分の個人的な功績をでっち上げなどしていない。淡々とそこで起こったことを書いている。実際、これがゴーストライターの手になるものだとすれば、施主であるブレジネフはもう少しギャラに見合ったお追従を要求してもいいくらいである。

 最後の2段落で、ブレジネフ(を名乗った著者)はジューコフの回想録そのものに触れている。元帥がマラヤ・ゼムリャを守り切れるか、自分の意見を聞きたがったとも書いている。じつは4月17日にドイツ軍が橋頭堡を壊滅させる攻勢の火ぶたを切ったことは広く知られていて、ソヴィエト軍も他の多くの作戦同様、捕虜などからその兆候はつかんでいたと思われる。だから4月19日にジューコフがマスレニコフに会いに来たとき、ブレジネフがマラヤ・ゼムリャにいたとしてもおかしくはない。いっぽうジューコフの手配した空爆で状況が緩和され、21日にブレジネフ本来の居場所である第18軍司令部をジューコフたちが訪れたとき、もうブレジネフは戻っていたし、おそらくシチェメンコ同様、ジューコフに挨拶くらいはしている。しないほうが不自然で非礼であろう。そしてジューコフにすぐ忘れられた。聞きたいことがあればここで聞けばよかったが、作戦指揮に携わっていない政治士官にあらためて聞くこともなかったのだろう。

 誰かが手配りしてジューコフに書かせた一節を、また誰かが利用してブレジネフのために書いた。そういう意味ではちょっと汚れた文章であるが、ブレジネフが実直に政治士官に求められる危険に向かっての克己を発揮していたことは認めてあげても良いのではないかと思う。どうしてこんなことを書いたのですかと本人に聞いても、俺じゃないよと言われそうである。

注 もうひとつの回想を自分で引き受けて書いたと主張するAlexander Murzinが、Little Landはたぶん Arkady Sakhnin( Аркадий Яковлевич Сахнин)の作品だろうと言っているのが、有力な説とされているようである。ただしこのWebページそのものが原典を表示していないし、原典通りかどうかわからないので、そうだと信じる証拠としてはやや弱い。

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