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ミリタリ関係

衛生隊の編成

 たびたび利用しているBuchnerには師団衛生隊の編成が載っているし、U.S.War Dept.には負傷者の後送システムについてかなり詳しい記述がある。Buchnerには衛生部隊に関する著書もあり、こちらをBuchner[1995]、歩兵師団全般に関する本をBuchner[1991]として参照することにしたい。
Der Sanitaetsdienst des Heeres 1939-1945 Alex Buchner Podzun-Pallas ISBN 3-7909-0554-2

 軍医が配属されているのは歩兵大隊から上の単位である。大隊本部のもとに、その軍医を中心とした包帯所が作られ、大隊本部の助手と中隊の担架手が負傷者を運び、看護する。中隊には医師ではない衛生下士官が置かれていた。これらは歩兵中隊や歩兵大隊の編成のところですでに述べた。

 歩兵連隊本部の補給段列にはやはりひとりの軍医がいたが、助手はいなかった。代わりに、連隊音楽隊が臨時の助手を務めるのが常であった。Buchnerの取り上げた師団では、連隊音楽隊は指揮官を含めて38名とかなりの規模であった。これは1944年には廃止され、師団司令部直属の音楽隊のみとなった。

 数日で回復する程度の軽傷者は、このレベルで管理される軽傷者集合所に集められた。軽傷者集合所と、重傷者を扱う包帯所は、少し離れたところに置かれることもあった。(U.S.War Dept.)

 大隊と連隊のレベルでは、応急手当をするのが精一杯で、例えば外科手術をすることは困難であった。回復に時間のかかる患者については、連隊の包帯所で、担架で搬送するか、徒歩で野戦病院まで後退するよう指示するかが決められた。
  • 師団衛生隊
  • 第1中隊
    • 第1小隊(患者搬送小隊)
    • 第2小隊(包帯所小隊)
    • 第3小隊(器材小隊)
    • 歯科医班
    • 野戦薬局

 第1中隊には合わせて5人の医師(士官)、2人の薬剤師、160人の下士官・兵がいた。第2小隊が設営する主包帯所(HV-Platz)は、レントゲン装置や手術設備を備えており、ここへ第1小隊に支援された各部隊の担架手が患者を運び込んだ。第3小隊は部隊の移動時には器材を運ぶが、状況に応じて患者搬送、あるいは包帯所の運営を手伝った。
  • 第2中隊
    • 第1小隊(患者搬送小隊)
    • 第2小隊(包帯所小隊)
    • 第3小隊(器材小隊)
    • 歯科医班
    • 野戦薬局

 第2中隊は第1中隊と多くの点で似ているが、自動車化されていて、馬と自転車がトラックとオートバイに置き換わっていた。

 以上ふたつの包帯所は、前線から3キロ程度のところに置かれた。歩兵砲を含め、歩兵の持っている兵器の射程内とは言えないが、各国の師団砲兵の持っている榴弾砲は少なくとも8キロ以上の射程を持っていたから、砲火の下にさらされていた。
  • 第1救急車段列
    • 第1小隊(救急車5台、サイドカー8台、乗用車2台)
    • 第2小隊
    • 第3小隊
  • 第2救急車段列(第1救急車段列と同じ)

 なおBuchner[1991]では1個小隊の救急車は12台となっているが、Buchner[1995]では5台となっており、こちらを採用した。

 1940年当時は、まだ師団付属の野戦病院があった。これは戦線から25〜30キロ後方に置かれるもので、1942年以降は多くが軍の所属に移され、1943年には正式に師団の編成定数から削られてしまったが、その後も作戦上必要なときは師団に配属されることもあった。この野戦病院(Feldlazarett)は、すぐに後方に移送できない患者が回復を待つところであった。(U.S.War Dept.)数日のうちに回復が見込めず、また移送できる患者は、鉄道や道路の便の良いところに置かれた負傷者集合地点から、病院列車などで後方に移送された。

 Buchner[1995]の記述によれば(どの時期のことを行っているのか明確でないが、少なくとも1941年以降のことらしい)、軍団司令部にも軍医大佐がいたが、軍団固有の衛生部隊を持っている例は1943年以降にわずかに見られるに過ぎない。軍司令部には6つの野戦病院、2個衛生中隊、6個患者搬送小隊、そしてArmee-Sanitaetsparkが置かれた。最後のものは、軍の衛生器材や消耗品のストックをつかさどるもので、旧日本陸軍風に言えば野戦衛生材料廠(実際の旧日本陸軍には「野戦」衛生材料廠はない)といったところであろう。

 8週間以内に回復が見込まれる患者は、軍司令部などの管理する基地病院(Kriegslazarett)に置かれる。4週間以内に回復しそうな軽傷者のみを扱う基地病院(Leichtkranken-Kriegslazarett)もあった。(U.S.War Dept.)

 Buchner[1995]の記述によれば(どの時期のことを行っているのか明確でないが、少なくとも1941年以降のことらしい)、各軍集団司令部のもとにいくつかの野戦病院大隊が配属されており、それらの下にKriegslazarettとLeichtkranken-Kriegslazarettがふたつずつ置かれていた。これらは1個所にまとまっていることもあり、東部戦線では4000から6000床のキャパシティを持った病院基地も存在した。

 それ以上かかると思われる患者は、所属部隊の属する軍管区(前線での軍管区ではなく、ドイツ本国と一部の占領地域にあった徴兵のための地区割り)に設けられた陸軍病院(ReserveLazarettもしくはHeimatlazarett)に送られた。この8週間という期間は、兵士を原隊に復帰させるか、一旦予備に戻して新しい部隊に配属されるかの目安でもあった。(U.S.War Dept.)

 病院列車(Lazarettzug)として最初から作られた車両は、2段ベッドが左右に並び、さながらプライバシーのない寝台車といった趣である。医師や看護婦が勤務しているが、あくまで搬送用であって現地に留まるわけではない。

 しかし大戦後半になると、有蓋貨車に板とわらを敷いただけの補助病院列車に乗せられる兵士も多かった。もちろん便所は仮設で、軽傷者が重傷者を看護し、炊事は無蓋車の上のフィールドキッチンで行われた。(Buchner[1995])

 この他に、師団には獣医中隊があり、大隊や連隊にも獣医がいた。田舎で開業していた獣医が動員された場合、往々にして人間の医者としても頼りになる場合があって、病院や包帯所を手伝うよう命じられることもあった。(Buchner[1991])

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