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占領下ポーランドの鉄道組織


Reimer&Kubitzki[2004;p.13]によると、ポーランドの占領地域で鉄道を管理する組織がベルリンに生まれたのは1939年9月20日である。このチームは9月25日にLodzに移動し、9月27日にはEisenbahndirektion Lodz (EB Lodz)となった。

ポーランド戦後の10月26日には、ポーランド総督府の置かれたクラクフを根拠地とするGeneraldirektion der Ostbahn (Gedob)が発足した。その下部指令所としてクラコフ、ワルシャワ、ルブリン、ラドムにOBD(Ostbahnbetriebsdirektion)が置かれた。1941年8月にはレンベルクが加わった。1943年初めにラドムOBDを廃しルブリンOBDが新設された(Reimer&Kubitzki[2004;p.28])。Vecamerは
After 1941, the rail lines of ex-Austrian Galacia were added to the Gedob

 と書いている。GalaciaはGaliciaの間違いで、1939年にソビエトが占領したポーランド東部の一部である。旧オーストリア領とVecamerが書いているのは間違いではなく、第一次大戦以前のポーランド分割期にはオーストリア領だった。

1939年11月9日、ポーランド総督府のLeiter der Abteilung Eisendahn(鉄道部長)がGedobの局長を兼ねるという指令が出されたが、総督府のドイツからの独立性については当時からあいまいだった(Reimer&Kubitzki[2004]、p.32)。フランク総督は典型的なアルテカンファーであり、一般にアルテカンファーが指揮する組織の権限は、その人物の個人的なヒトラーからの信任に強く依存していた。アドルフ・ヒューンラインが生きている間、ヒムラーはNSKKを親衛隊に統合することができなかったが、これはヒューンラインがアルテカンファーだったからである。

 この組織は鉄道省(RVM)からの出向者が中心になって運営を始め、1940年には鉄道管理に長年携わってきたAdolf Gerteisが副局長から昇進して局長となり、大戦末期の消滅まで務めた。前任のEmil Beckも鉄道省の官僚だったようである。

 1942年以降、運輸省はGedobの独立性を弱めようとしたが、フランク総督が抵抗した。1943年3月、ドルプミュラー運輸大臣は3人の新任OBD局長を連れて総督府を訪れ、Gedobの廃止(OBDをReichsbahnに直属させること)を迫ったが、フランクは逆に3人の人事に同意を求められなかったことに不快感を示し、総督府の政治的・経済的要求を実現するためにGerteisは留任させる、と言い張った。ドルプミュラーはいったん引き下がったが、のちにOBDはRBDから直接指示を受けるようになり、Gerteisの地位はGeneraldirektor der Ostbahnという曖昧なものに変わった(Reimer&Kubitzki[2004]、pp.34-35)。

 おそらく運輸省のいらだちは、Gedobが巨大な資源を抱えていたからである。1940年4月18日現在、ポーランドから接収した機関車はドイツ全体で2831両在籍していたが、そのうち1240両がGedobにあった。その後、ドイツで量産された機関車も順次配属され、1942年3月31日現在ではライヒスバーンが28304両の蒸気機関車を保有しているのに対し、Gedobは1373両を保有していた。比率は20.6:1である。ライヒスバーンの保有数には傘下の路線に貸与しているものが相当数含まれており、修理中のものと貸与中のものを除いた蒸気機関車の数は、それぞれ17449両と896両、比率は19.5:1となる(
Reimer&Kubitzki[2004]、pp.55,103-104)。

 ドイツ人の比率は整備工場で2〜5%、列車上では機関士だけがドイツ人だった(Reimer&Kubitzki[2004]、p.39)。1941年の数字で、ドイツから派遣されたスタッフが7141名、ポーランド人協力スタッフが69222名だった(p.29)。総計だととても5%ですまないのは、管理部門に主にドイツ人がいたせいだろう。

1939-1941年の鉄道による独ソ貿易 [#j0f68b70]


 Reimer&Kubitzki[2004;p.23]によると、ポーランドに7つ、自由スロバキアに3つの国境駅があった。旧プロイセンのG7.1型蒸気機関車は1924年以降の分類ルールでG44.13と呼ばれるようになっていたが、これを改造した広軌のGB 44.13(Bは広軌の意味)が16両用意された。うち14両がいくつかのポーランド国境駅に備えられた。配分は均等ではなく、ZurawicaMalaszewiceが4両ずつ、リトアニア国境のMalkiniaに3両という布陣である。

参照文献 [#j2ef1fe0]

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