マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

ミリタリ関係


悲しいマラソンランナー


 このコーナーでは、戦場における駆け引き、小集団の戦術に関するトピックスを取り上げる。

 大戦初期、突撃砲の損害に占める地雷被雷の割合は高いものであったらしい。ミュンヒ[2000]にある突撃砲大隊員の日記では、8月18日の項に「中隊の3分の1は地雷に当たって」いると記述があるが、敵戦車や砲撃による損害はほとんど言及されていない。


 ミュンヒ[2000]には、エレファント重駆逐戦車の下に「睡眠を取ったり、砲弾片を避けたり」するために穴を掘ったという記述がある(p.270)。同様に、シュピールベルガー「軽駆逐戦車」には指揮官のヘッツァーの下に穴を掘って包帯所に使うという記述があり、このアイデアは普遍的なものであったと思われる。


 いろいろな戦記、特に公式報告書を読んで思うのは、いつの世も同じ組織防衛のありようである。優秀な部隊と機材は、あらゆる不利な状況で呼び出される。部隊はもっと有利な状況での投入を要求するが、配属先の指揮官は必ずしもそれに理解を示さない。そして助っ人に来た部隊は助けられる部隊の固有の一部ではないので、退却するときにはしばしば連絡が遅れて置き去りにされたり、一時的に綻びをつくろうために消耗を強いられたりする。


 1941年9月5日にソビエト陸軍参謀総長が発した指令では、ソビエト軍による偽装が行われた例は少ないが、著功を挙げた例がいくつかあるとして、自軍の意図を欺くための措置を講じるよう下級司令部に命じていた。モスクワ戦の頃から、偽陣地が重要な防衛手段として多用されるようになった。実際の前線より前方に偽の塹壕や機関銃座が掘られ、少数の兵士が時々進出して、実際にその偽陣地から射撃して見せた。これはドイツ軍が攻勢に出る際、準備射撃や爆撃を空振りさせ、本当の防衛陣地の損害を減らすことが主な目的であった。準備射撃の兆候が見えると、兵員を一時的に後退させることもよく行われた。(Matsulenkoら[1989]、主にp.5)

 偽の攻勢準備によって本来の攻勢を隠すことも行われた。偽戦車、エンジン音を流すテープレコーダー、偽の準備射撃音としての火薬爆発などが主な構成要素であって、ドイツ軍はこれにだまされて実際に部隊を移動させた。

 同書pp.10〜11によると、1942年7月のルジェフ・ビャージマ方面へのソビエト軍攻勢に先立って、偽の攻勢準備でドイツ軍を惑わす作戦が大掛かりに行われた。本物の車両131台、偽の車両や砲、各種あわせて833基のモックアップが、実際の攻勢地点より南の戦区で、4ヶ所に集結中との印象を与えるために投入された。モックアップは毎日夜間に少しずつ動き、偽の無線交信を交わし、フィールドキッチンが炊事の煙を立て、ドイツ軍機が飛来すると対空機銃が打ち上げられた。そしてドイツ軍機が隊列の姿を確認すると、その晩にソビエト軍はモックアップを集結地点まで移動させたのである。もしドイツ機が攻撃したときは、ソビエト軍は偽の爆発まで起こして見せた。作戦期間にわたって、ドイツ軍は偽の集結地点を134回爆撃し、17回掃射し、15回伝単をまいた。

 こうした作戦には、独立カムフラージュ中隊が中心となって働いた。また、師団の政治委員団が手持ちのラウドスピーカーで戦車のエンジン音を鳴らし、欺瞞に協力することがあった(p.24)。

 1943年1月5日、第260ライフル師団は(何かの目的で)攻勢が起こると見せかけるような煙幕を十数分焚いた。ドイツ軍はそれに激しく応戦し、煙幕が晴れると応戦は止んだ。それを見た第260ライフル師団は、1月11日にもっと大規模な煙幕を、50分にわたって展張した。ドイツ軍は砲兵も加わって阻塞射撃を加えたが、ソビエト軍は観測班をあらかじめ待機させていて、ドイツ軍砲兵の陣地位置をすっかりプロットしてしまった(p.31)。

 この資料を読むと、従来政治的な締め付けや、指揮官の未熟のせいと片付けられていたソビエト軍の指揮の硬直性は、かなりの程度(やや行き過ぎた)防諜への配慮によって、各指揮官に与える情報が局限されていたことによるのではないか、と思われる。周辺状況が説明されないのでは、各指揮官に裁量の余地はない。上級司令部もまた、説明すべき情報を持たされていない。こうして、マクロ的には柔軟で、ミクロ的には拙劣なソビエト軍の指揮が特徴付けられていった、というのは魅力的な説明である。

 もちろん無線・電話機材の慢性的な不足によって、取りたくても連絡が取れなかったことも事実であろうが。


 ソビエト軍兵士は、攻撃が失敗すると、その場に倒れて死んだふりをすることがあった。極寒の大地で辛抱強く薄暮を待ち、闇にまぎれて撤退するのである。冬季衣服を剥ぎ取ろうとドイツ兵が近づき、不意打ちを受けて命を落とすこともあった。(Folkstead [2000];p.22)


 KV戦車は常にT-34の背後にいて、T-34が遭遇した脅威に対処した。(Folkstead [2000];pp.35-36)


 (75ミリ)対戦車砲の牽引車は少し後方の、砲座から見えるところにいた。戦闘中に牽引車を呼ぶときは、砲座から空の弾薬箱を示すか、砲弾を水平にかざして合図した。冬にはいつでもエンジンがかかる状態を保つため、1時間ごとに15分ずつエンジンをかけた。(Folkstead [2000];p.29およびp.37)


 いくつかの「お決まりの」表現は戦史ファンにはおなじみであるが、もともとドイツ語のものが英語に訳されて伝わっていたりして、雰囲気が必ずしも伝わらない。いろいろな書籍にばらばらに出てくるそうした表現を、ここに集めてみる。
ズヴェロヴォイ 猛獣殺し=JU152
ラスプチツァ 泥の季節(春)
アインクロップカノーネ ドアー・ノッカー(37ミリ対戦車砲)
ゲレンデタウフェ 地形の洗礼(命令を短く済ませるために、地形に名前をつけておくこと)
アイ・グルッペ(I-Gruppe) 修理隊(ドイツ語)
エス・トルップ(S-Trupp) 衛生隊(ドイツ語)
ホルヒハルト(horchhalt) 偵察部隊がエンジンを止め、耳を澄ませること


 Condellら[2001]によると、1個歩兵大隊の戦線は400メートルから1000メートルの幅を持つのが普通である。(9個大隊を持つ)1個歩兵師団の戦区は、砲兵などの支援が容易な地形であれば4000〜5000メートルとなるのが普通であるが、攻撃の際は3000メートルを超える幅を担当することは好ましくない(p.91)。

 戦車大隊がある程度自由に動き回って防御を行う場合、幅5000メートル、少なくとも深さ3000メートルの防衛区域(Verteidigungsraum)に段列、大隊本部までがおさまった。うち、少なくとも1個中隊は予備として後置し、イニシアチブを持った敵の動きに対応する(Schneider[2000],p.92)。

 モスクワ近郊で、あるドイツ兵士がソビエト戦車によじ登り、手榴弾をハッチから放り込もうとすると、ハッチは逃亡防止のためか、南京錠でふさがれていた。兵士は小さな開口部から信号ピストルを撃ち込んで、この戦車を破壊した。(Hartら[2000]、p.31)


 大戦後半になると、ドイツ軍砲兵は連合軍の準備射撃に合わせ、その弾幕のわずかに向こう側を射撃する戦法をよく取った。この砲弾は攻撃開始を待つ連合軍歩兵からすると、自軍の準備射撃が測的を誤り、自分たちの頭上に落ちてきているように見えたので、士気低下や攻撃中止につながりやすかった。(Hartら[2000]、p.59)


 ドイツ戦車は無駄な弾薬消費で戦闘中の弾薬切れに陥ることを避けるため、停車して射撃するよう訓練されていた(Panzertruppen)。これを生かした移動手順として、戦闘区域では小隊単位〜中隊単位で一隊が前進するときはもう一隊が停車してカバーする"Feuer und Bewegung"が厳密に守られた(Schneider[2000],p.18)。ただし、部隊の中で最初に敵を発見した車両は、移動中であっても発砲して機先を制し、敵の進出を止めることになっていた(Schneider[2000],p.20)。

 ソビエト戦車兵のマニュアルでは、攻撃にあたっては速度が最も重要であり、射撃は移動中に行うこととなっている(Sharp[1999],p.32)。

 接敵した場合、小隊長以下の報告には敵の位置、種類、数などのハードデータのみが含まれる。中隊長になって初めて状況分析が要求され、大隊長への報告には敵の予想される意図が含まれる(Schneider[2000],p.21)。


 ドイツ軍のマニュアル類は総じて難解であり、可能性やチェックリストを数え上げるばかりで、この場合はこうしろという条件分岐を含まない。これは命令書そのものについても同様であって、状況説明と目標を示すのみで、それを達成する手段は下級指揮官に考えさせる("Auftragstaktik"=目標志向の命令)のが良い命令だと考えられていた(Schneider[2000],p.21、(Condellら[2001],pp.3-4))。戦後になって、アメリカ軍が元参謀総長・ハルダー上級大将と彼の選んだ高級士官たちに、アメリカ軍の戦闘マニュアルに関する意見を求めたところ、全体としてはほめながら、「考えられるあらゆる状況を予見して、あらかじめ細部まで対応を指示しようとする傾向があるが、これでは指揮官の創意工夫を封じてしまう」という批判が上がった(Condellら[2001],p.282)。


 (西側)連合軍は攻撃の際、時間ごとの目標到達ラインを各部隊に定めて歩調を合わせることが多かったが、これでは機会を逸しつつ足踏みする部隊も出る。このためドイツ戦車部隊では到達目標と攻撃の軸(大まかな攻撃ルートで、1本の軸を指定されるのは大隊規模かそれ以上の部隊なので、進軍陣形は広く現場の判断に任される)が示されるのみで、厳密な攻撃分担区域の指定に代えて、命令書にはしばしば連絡を保つべき両隣の部隊が示された(Schneider[2000],p.27)。この到達目標も地形上のものであって、敵への対応は(後続部隊に任せて通過することも含め)臨機の判断による。


 射撃戦が始まると、戦車で一斉突撃するタイミングをうかがうことになるが、この一斉突撃はたいてい中隊、ときに大隊単位で行うものであり、小隊規模ではまれであった(Schneider[2000],p.30)。

 カイル、ブライトカイルといった陣形とその組み換えは盛んに演習で取り上げられたが、実戦ではそうした指示語が無線で使われることはまれであった。各車は地形により教則どおりの位置にいないので、個別に移動方向を指示するのがむしろ普通であった(Schneider[2000],pp.258-259)。

 ソビエト軍の場合、車間距離5〜10メートルの単横列が「標準的な戦闘隊形」としてマニュアルに載っている。「各車は指揮官車への視界を確保すること」というのは必ずしも無線機を持っていないことへの配慮であろうか(Sharp[1999],pp.25-32)。


 指揮官が情報を整理する上で、指揮官車無線手は情報の重要性をある程度評価する位置にあり、重要である。中隊本部班長は中隊長の最も重要な相談相手であり、時には無線手や装填手として中隊長車に乗り込む(Schneider[2000],p.32)。また、大隊長は同様に補助士官(Ordonnanzoffizierはもともと装備に関係する士官であったろうが、プロイセン軍時代から装備との関係はなくなり、司令部勤務の参謀士官によく与えられる肩書きとなっていた。戦車大隊本部の場合、中尉または少尉のOrdonnanzoffizierがひとりつく)や無線士官(大隊本部中隊長を兼ねる、大戦中に編成表から消えたので廃止されたと思われる)の助けを受ける。

 無線士官は大隊長車に同乗するか、後方で大隊指揮所の責任者となるかどちらかのことが多かった。これでは本部中隊長がいなくなってしまうが、1944年型編制で廃止されるまでは糧食係士官(Verpflegungsoffizier)が実質的にその任につき、その後は大隊本部中隊内の小隊長のいずれかがこれに当たった。

 大隊長車と中隊長車は2台の無線機を積み、ふたつの無線チャンネルの結節点となっていた。中隊のチャンネルには中隊全車が参加しており、大隊のチャンネルには中隊長と大隊本部の主要車両が参加していた。大隊長車のもうひとつの無線機は、もちろん上級司令部とつながっている(Schneider[2000],pp.253-256)。中隊長車では無線手だけが大隊のチャンネルをモニターしており、必要に応じて中隊長を呼んだ(p.286)。

 夜間の照明による制式の合図は、照明を横に振ったり縦に振ったりする動作を含んでいたが、これは偶然の出来事によって見誤られる危険が大きかった。そこで、部隊で点滅の間隔などを使った独自の合図を決める例が多かった。また、合図に使う信号灯は、特定の指揮官が特定の色を使うよう取り決めていることが多かった(Schneider[2000],pp.260-261)。


 無線の基本フォーマットは、「宛先」「自分」「用件」「どうぞ(fertig)」であった。ただし点呼に応じる場合、重要指令を復唱する場合などは例外である。いわゆるコードネームは、部隊、地名、時間、(損害報告などの)数字について設定されることになっていたが、なかなか守られなかった。地名には番号が割り振られ、時間や数字についてはあらかじめ決めた数字を足して答えることになっていた。オットー(燃料)、ハーマン(弾薬)といった符丁があったことはよく知られているが、実際には徹甲弾、榴弾を示す符丁がそれぞれ(聞き覚えられないよう)3種類あって、9日を越えて同じ符丁を使ってはいけないことになっていた。もっとも武装親衛隊がこうした国防軍の(国防軍ですら完全には守らない)規則を守っていたかは別の話である。無線士はもちろん符丁表を持っていた(Schneider[2000],pp.262-265)。

 ドイツ軍の場合、方向は時計の文字盤になぞらえたが、ソビエト軍の場合はまず目標を叫び、そこからの角度を言うか、でなければ戦車進行方向からのプラスマイナスで角度を叫んだ(Sharp[1999],p.34)。


 防御の切れ目ができることを避けるため、ふたつの担当区域の境界には、分隊程度の兵力で連絡地点(Anschlusspunkte)を設けて相互連絡と監視に当たる。原則として左側の部隊が要員を出すが、右側の部隊とも野戦電話等で連絡がつくようにしておく(Schneider[2000],p.91)。


 戦車が隠れ場所に長くとどまる場合、そこから地形上の目印や、自分たちで立てた杭までの距離をあらかじめ測っておき、敵を発見したとき迅速・正確に射撃できるようにすることが望ましい。これはEntfernungsspinne(射程のくもの巣)と呼ばれた(Schneider[2000],p.94)。

 防御任務に就いた場合、指揮官にはそれぞれの隠れ場所にいる戦車の様子がわからないし、視界を共有することもできない。従って、ある目印を敵が超えたら一斉射撃開始、といった発砲の基準をあらかじめ決めておく必要があった。そのうえでもし可能なら、小隊長は目標を各車に割り当てた。原則として敵集団の端にいる目標から順に部下に割り当て、小隊長車は中央の最も危険な目標を攻撃した。(Schneider[2000],p.108)

 前哨地点(feldpost)は部隊の位置から500メートル以内に置かれ、昼間は見晴らしの良いところに陣取るが、夜間はシルエットを確認しやすい低い位置に移動した。要員は3人1組で、1人が交代で休憩を取り、各要員について2、3日に一度配置から外れる日が設けられた(Schneider[2000],p.196)。その任務は基本的に観測であり、自衛のためにしか戦闘しない。

 特に危険な状況下では、戦車部隊は前哨地点からすぐ連絡のつくところに1個小隊ないし半個小隊の戦車を待機させた。この場合、敵の偵察隊と出会えば撃退し、かなわないときも本隊が戦闘準備を整える時間を稼ぐことが期待された。

 時間稼ぎの防衛戦闘を主任務とした前進地点(vorpost)は、やはり1個小隊ないし半個小隊の戦車が配置されており、小隊長ないし中隊長が指揮を執った。


 地雷などの障害物は、敵を単独で食い止めるためにあるのではない。特定のルートを進ませ、待ち伏せる友軍に側面をさらさせ、友軍が狙いを定める間だけ静止させるためにある(Schneider[2000],p.102)。


 昼間は尾根の影など敵方向から見えず、その他の方向も視界全体が戦車砲の射程に入っているところに陣取れるのが、防御についた戦車にとって理想的である。しかし夜間には敵を見逃す可能性が上がるため、道路など敵の接近を警戒すべき地点に近づいておくのが定石であった。もし余裕があれば、ガソリンをかけたわらなど、敵の姿を照らし出すものを出現予想地点近くに配置し、味方の発砲で火をつけることが望ましかった(Schneider[2000],pp.96-97,104)。

 移動についてもなるべく尾根の一番高いところを越えないようにし、越えるときは砲塔だけそろりと出して停車し(あらかじめアンテナは倒す)細心の注意を払うことが望ましかった。これを指す「水が流れるように移動せよ」という言い回しがあった(Schneider[2000],pp.217ほか)。急角度で曲がることは地面に深い轍を残し、偵察機の注意を引くので、避けるべきであった。

 ソビエト戦車は雪中でキャタピラの跡を消すため、木の枝や巻いた有刺鉄線を引いて走ることがあった(Sharp[1999],p.63)。

 敵前で危険な尾根越えをするときは、多くの戦車で一斉に尾根を越え、対戦車砲の狙いをつけさせないことが望ましいとされた(Schneider[2000],p.243)。


 戦車大隊レベルで行う偵察は、大隊本部小隊、ときにはひとつの中隊が担当する、数キロ程度と距離的には短いものの、きわめて危険で、しかし最も経験を積んだ要員が必要とされる任務であった。敵のいる可能性が極めて高い地域で、実際に敵がどこにどれだけいるかを知るための任務だからである。

 敵情を知るために、発砲して反応を見る、全速力で怪しい地点を駆け抜ける、ゆっくり近づいて急に後退する(敵を発見した振りをして発砲を誘う)などという手段が取られた。

 交差点は特に危険である。先頭車はそろそろと進入して、交差する道の両側が確認できるところで止まる。安全を確認する間、操縦手はいつでも全速で後退できるようギアに手をかけている。2台目が脇まで前進して、念を入れて様子を見ることもよくあった。折に触れて停止し、エンジンも止めて物音を聞くことは偵察中にはよくあった。こうした地点は部隊の皆が覚えるので、敵と出くわして偵察隊がばらばらになったときは、最後の停止地点を集合場所とすることになっていた。

 森などで砲塔が回しにくい地形のとき、最後尾の戦車は砲塔を真後ろに回し、不意打ちを警戒することもあった。

 偵察隊からの無線による報告には、返答しないことになっていた。誰に報告しているのか悟らせることになりかねないからである。(Schneider[2000],pp.189-195)

 ソビエト軍は長距離の威力偵察という概念を大戦末期まで採用しなかった。偵察や捜索はこっそり行うものであり、投入する戦力もそれに見合ったものでしかなかった(Sharp[1999],p.40)。前線から数百メートルの範囲で行われる戦闘偵察はこの限りではない。大胆に、しかし全速力で移動し、ひとたび接敵すれば本隊が攻撃に入るまでその場で戦闘を続けることになっていた。(Sharp[1999],p.45)

 ではソビエトの装甲車部隊の任務はなんだったのか、という当然の疑問がわくが、マニュアルによれば、その任務は高速で移動しながら、撃っては移動を繰り返し、遅滞戦闘や支援を行うことにあった(Sharp[1999],p.45)。

 ただし大戦末期になると、個々の判断で偵察隊を深く先行させる指揮官も現れた(Sharp[1999],p.87)。


 ソビエトのタンク・デサント(車載歩兵)は1個小隊(3両)に歩兵1個小隊が乗るのが通例であった。火器の使用を妨げることなくT34に乗れるのは8人であるとされ、歩兵分隊は大戦初期には12名、1942年以降は9名であったのに対し、戦車旅団の歩兵中隊は各8名の短機関銃分隊によって編成されていた(Sharp[1999],p.53,Sharp[1998],p.117)。

 ソビエトの短機関銃は大戦後半になるほど小銃に対する比率を高め、1943年以降には歩兵中隊火器の1/3を占めるほどになったが、小銃を中心とする編制表は改定されず、編成は現場の判断に任された。このため編成の細部は部隊により一定しないが、歩兵中隊の3個小隊のうち1個を短機関銃小隊とするのがよくある編成であった。短機関銃部隊は突撃部隊として若く体力のある兵士が当てられ、その意味でも戦闘力は高かった。

 ソビエトの歩兵分隊はドイツ軍と同様に1丁(大戦後半には2丁のこともある)のデグチャレフ軽機関銃を持っているのだが、軽機関銃と小銃の役割分担に関するマニュアルの記述はほとんどない。ドイツ軍の場合、射撃戦では軽機関銃のみが射撃する場合、全分隊で射撃する場合、軽機関銃に続いて小銃手たちが戦端を開く場合などが事細かにマニュアルで説明されており、突撃の際には軽機関銃は(走りながらも撃てるよう構えつつ)突入する一団の中心に来るよう定められていた。ソビエト軍の歩兵マニュアルにこれに類する記述はなく、ただ一緒に撃ち、一緒に走って突撃するのみである。


 パルチザンの待ち伏せに好まれるのは、道路から150〜250メートル離れた森のはずれである。森の中の開けた場所は、火力を集中させるのに好ましい。リーダーの合図で一斉射撃してから、別方向であらかじめ待機していたメンバーが手榴弾を投げた(Grenkevich[1999],p.202)。


 1942年10月にスターリンの名前で出された人民防衛委員指令第325号は、それまでの戦車戦に関する戦訓をまとめ、改善を指示するものである。その中に、ドイツ戦車には戦車で当たろうとするな、というものがある。ドイツ戦車にはできるだけ砲兵で対処し、優勢が確保できる場合のみ戦車部隊をぶつけるよう求めている(Sharp[1999],pp.73-75)。


参考文献


  • カールハインツ・ミュンヒ[2000]「第653重戦車大隊戦闘記録集」大日本絵画
  • Condell, Bruce & David T. Zabecki(eds.) [2001],'On the German Art of War: Truppenfuehrung',Lynne Rienner Pub.(London), ISBN 1-55587-996-9

 この本はドイツ版作戦要務令とでも言うべき本で、1933年から1934年にかけて発行された公式な指揮原則マニュアルである。著者はベック上級大将、フリッチュ上級大将、シュツルプナーゲル大将(いずれも最終階級)であったと言われる。フリッチュは陸軍総司令官としてヒトラーの戦争計画に反対したため、陥れられて公職を追われた後、ポーランド戦で危険な偵察を行って自ら望んだ戦死を遂げ、他のふたりはヒトラー暗殺計画に関わって処刑されたことは皮肉である。[追記 この記事は全HPがHTMLでできていたころからある、最も古いグループのものである。現在では『軍隊指揮』という書名で日本語版が手に入る。]
  • Folkstead William B. [2000],'Panzerjager: Tank Hunter',White Mane Pub.Co.
ISBN 1572491825
  • Grenkevich Leonid[1999],'The Soviet Partisan Movement 1941-1944',Frank Cass
ISBN 0-7146-4428-5
  • Hart Dr.S., Dr.R.Hart & Dr.M.Hughes[2000],'The German Soldier',MBI Pub.
ISBN 0-7603-0846-2
  • Matsulenko V.A.[1989]'Camouflage: A Soviet View',U.S.Govt.
Printing Office,No ISBN

 西山洋書には、入手経路がよくわからないISBNのない本がたまにあるが、Matsulenko V.A.ほか[1989]もそのひとつ。「アメリカ空軍の援助」に関する謝辞がついたアメリカ政府刊行物で、「アイデアを交換し刺激するために」公刊するとある。ソビエトで出版された軍事関係の書物を英訳するシリーズの一巻らしい。

 中身は2冊を合本した体裁のもので、1巻目はMatsulenko少将の書いた、第2次大戦における作戦的カムフラージュ(陽動、偽陣地への攻撃吸引、意図や集結の秘匿)について述べた1975年の本。公式報告書がメインの典拠だが、指揮官たちへのインタビューも行っている。2巻目は3人の作者が1976年に出版した、(1976年当時の)個人〜小集団レベルのカムフラージュ作業に関するマニュアルである。上でご紹介している内容は前半から。
  • Schneider, Wolfgang[2000],'Panzertaktik',J.J.Fedorowicz Pub.
ISBN 0-921991-52-5
  • Sharp, Charles C.[1998],'Soviet Infantry Tactics in World War II',Private Publication (George Nafziger)
  • Sharp, Charles C.[1999],'Soviet Armor Tactics in World War II',Private Publication (George Nafziger)

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