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ミリタリ関係

中央騎兵連隊戦史


続 中央騎兵連隊戦史


 高橋慶史先生の『続ラスト・オブ・カンプフグルッペ』にもWitte & Offermann[1998]は参照されているが、おそらく原稿があらかた出来上がった段階で入手されたのだろう。1944年夏以降は第4騎兵旅団のほうに重点を置いた記述になっている。このたびめでたくも『カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS』の刊行が開始されたので、「武装SSのスターリングラード」ブダペスト攻防戦に(幸運にも外側から)参加した第3騎兵旅団/第3騎兵師団の話を書き綴っていきたい。

僕の前に味方はいない 僕の後ろに敵がいる ああ包囲よ


 1944年7月20日には、まだベーゼラーガー兄弟は後方で機動する余地があった。グランツ&ハウス[2003]によれば、6月22日以降ソビエト軍は前線付近で死守命令に捉えられたドイツ軍と、6月27日の死守命令も影響してミンスク東方にできた巨大な包囲環を処理しながら、断続的に前進を繰り返した。

 7月23日ごろ、第3騎兵旅団は第XX軍団の予備であり、第31騎兵連隊はブレスト=リトフスクからブーク川に沿ってワルシャワ寄りのドローヒシェン(位置)、第32騎兵連隊はもう少しブレスト=リトフスクに近いヤヌーフ・ポドラスキ(位置)にいた。ブレスト=リトフスクの陥落は28日とされているが、ブーク川の西側に橋頭堡を確保するための戦いは23日前後から始まっている。24日には第32騎兵連隊に警報が発せられ、26日には第5SSヴィーキング師団の一部と共に反撃に加わった。当時、休養明けのヴィーキング師団は第2軍の貴重な火消し部隊だった。

 7月31日からブレスト方面での本格的な撤退が始まり、第3騎兵旅団は第1騎兵軍団(後述)に合流して北西方向に退却し、ザンブロウ(Zambrow)周辺に「Grünen Linie(みどりの線)」と呼ばれる防衛線を張った。

 この当時、ワルシャワのはるか南方でソビエト軍はヴィスラ川を越えて橋頭堡を確保し、それを叩き潰そうとするドイツ軍と陰気な戦闘が始まっていた。ワルシャワに近い地域に殺到したソビエト軍は、8月1日から10日にかけてドイツ装甲部隊が行った反撃で大きく消耗し、正面からワルシャワをもぎ取ることができなくなった(本当にそうであったかについては色々な意見がある)。ザンブロウは北側からワルシャワを迂回する場合の要衝であり、互いに小さな攻撃を繰り返した。8月27日にベーゼラーガー中佐が戦死した日も、朝からソビエト軍の激しい準備射撃があったと部隊の戦闘日誌が記しており、防戦の中での反撃で命を落としたと思われる。

退却先はもっと東


 ハルテネック大将はヒトラーが政権を取った1933年にさっそく参謀大尉となっているから、陸軍大学校に当たる秘密課程をもう出ていたのかも知れない。騎兵の大規模部隊が編成されなくなって、大戦直前に騎兵連隊長を離任してからは、ほとんど参謀ばかりを歴任していた。

 順風満帆だった軍隊人生だが、1944年2月にポーランド総督府歩兵師団の初代師団長に補されたのは、あまり幸運とはいえないだろう。これは総督府直属の2個連隊を基幹として歩兵師団を作ろうというもので、もしそのまま編成完結していたら、大戦前半の保安師団と互角かそれ以下の極貧師団となったのではあるまいか。実際にはチェルカッシィ/コルスン包囲戦で半壊した第72歩兵師団がポーランドで再編に入り、用意した兵員をここに合流させることになって、ハルテネック中将も第72歩兵師団長となった。

 Lexikon der Wehrmachtの記述によれば、第1騎兵軍団は5月下旬に編成されているのに、ハルテネックは6月半ばまで前職にとどまっている。つまりバグラチオン作戦の発動を見てから、応急的に息が吹き込まれた軍団であったのだろう。第4騎兵旅団、第4装甲師団など騎兵中心とはいえばらばらな構成だった。

 10月4日から第3騎兵旅団は現在地から見て北ないし北東に当たる東プロイセン国境へと移動した。『続ラスカン』では28日までとどまったことになっているが、軍団全体がこの地域へ移動するまでしばらくかかった。退却方向が微妙だが、補給の容易な地域への再編移動と考えられていたようである。

 10月15日現在、第31騎兵連隊は2個大隊(10個中隊)のうち迫撃砲中隊の両方と重機関銃中隊の片方が欠、全中隊が2個小隊編成という惨状だった。

 新しい陣地にもソビエト軍が押し寄せ、間断なく出血が続いていたが、騎兵部隊不要論が再び台頭しつつあった。フィリップ・ベーゼラーガー少佐はいまやOKHの上席騎兵士官という、縮小版騎兵総監のような地位にあったが、ハンガリーで予定されている反撃作戦に騎兵部隊を加えることを参謀本部内で主張した(p.303)。騎兵軍団がバラトン湖のほとりに現れたことには、このような背景があった。

森と湖と地雷と馬と


 第1騎兵軍団のうち、第3騎兵旅団のほとんどが11月28日から12月6日までの間にハンガリーへ鉄道移動した。バラトン湖の南西端にあるマーカリ(Marcali)周辺が防衛担当地域だった。ソビエト軍の攻勢は12月3日に察知され、警報が発せられた。

 グランツ&ハウス[2003]によれば、ブダペストの北東から南東にかけて10月からドイツ装甲部隊が奮闘し、かろうじてブダペストへの侵入を食い止めていたところ、ベオグラードを解放したソビエト軍が真南からブダペストに迫ってきた。そして12月3日までにブダペスト南西にあるバラトン湖に到達したが、ドイツ軍の防衛線「マルガレーテ線」を抜けずに阻止され、いったんブダペスト包囲は頓挫した(pp.418-423)。

「マルガレーテ線」に言及したオンライン資料を探していたら、Tamás(2000)が見つかった。地雷禁止運動のための国別レポートとして用意された原稿らしい。これによると、Margaret防衛線はバラトン湖南西からMercaliを通ってほぼ真っ直ぐ南に伸び、Drava川に至る。この地図でバラトン湖の下のほうに蛇行する灰色の線がDrava川である。

 12月10日までに、ユーゴスラビアから退却してきた第99山岳猟兵連隊(第1山岳師団)とハンガリー軍サン・ラズロ師団(発音不明)所属の降下猟兵大隊が旅団の指揮下に入った。サン・ラズロ師団は本国に残っていた陸軍と空軍の部隊を集成して10月に編成されたもので、大戦中もルーマニアと間断なく国境衝突を繰り返していたハンガリーのことだから、この情勢下で淡々と実力を発揮できるかは別問題とすれば、東部戦線に出していたハンガリー部隊より優良であったと考えられる。11日には、ハンガリー第8師団の騎兵2個中隊と第92自動車化擲弾兵旅団が加わった。Lexikon der WehrmachtおよびAxis History Forumの過去ログによると、この第92自動車化擲弾兵旅団の前身はSonderverband 287である。これはイラク親独派を支援するため集められたヨーロッパ在住のアラブ人(Sonderverband 288がアラブやアフリカのアラブ人と、アラビア語の分かるドイツ人)部隊だった。ギリシアとユーゴスラビアで対パルチザン戦にあたっていたが、この時期に第2戦車軍指揮下で休養していた。これらのほとんどは12月20日付で旅団の指揮下から離れ、かわりに第109要塞歩兵大隊が配属された(p.328)。ただし、Festungs-Inf-Btl.109はLexikon der Wehrmachtにエントリがないので、部隊番号などが間違っている可能性がある。

 12月15日現在、第31騎兵連隊には8人の中隊長と4人の小隊長がいた。小隊長にすべき将校がいなかったのである。17人の士官候補生がそれらの穴を埋めようとしていた。第32騎兵連隊は少しましで、10人の中隊長に対して8人の小隊長だった。

 1945年1月7日から9日にかけて、ようやく旅団は最前線から撤退することが許された。

第3騎兵旅団 ブダペスト解囲戦へ


 第1騎兵軍団司令部と第4騎兵旅団は12月20日から25日にかけてハンガリーに到着した。第4騎兵旅団が第3装甲師団などと協力し、バラトン湖からみて北東のザモリ(位置)方面で戦ったことは、続ラスカンが描くとおりである。

 1月7日、第4騎兵旅団の参加するザモリ攻撃が開始されたが、ようやく防衛線からの後退が始まった第3騎兵旅団はすぐには追及できない。なにしろふたつの戦線は200km離れているのだ。移動は1月10日に始まり、ソビエト空軍の攻撃で損害を出しながらも馬と人は駆けた。1月13日に旅団は戦域に入り、14日には攻撃に参加した。攻撃目標はMany(位置)。『続ラスカン』p.115の地図で言うと、ビクスケとツザンベクのあたりである。

 1月22日の夜襲は精一杯の火力を集中した総攻撃だった。周囲の丘をひとつひとつ取り合う戦いになり、地雷が多くの仕事をした。第3騎兵旅団は27日に前線を交代部隊に明け渡したが、旅団のいくつかの部隊がまだManyの守備に携わっていた。2月13日から16日にかけて、ブダペストからの脱出者を迎えた部隊の中には、『カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS』が言及しているように第3騎兵旅団もあった。ふたつの騎兵旅団合わせて、1945年1月の損害は死者不明375、負傷1628だった。

 2月23日、ふたつの騎兵旅団は師団に昇格したが、何の増援もなかった。

春の目覚め、そして終焉


「春の目覚め」作戦では、第3騎兵師団はSS第I装甲軍団に属し、バラトン湖の北側から南東方向へ進出する一団に加わった。『続ラスカン』はこの戦いに大きな字数とエネルギーを割いているので、付け加えることは特にない。3月6日の攻勢発起直後、連隊長クネーゼベック中佐は徒歩で移動中、偶然飛来したスターリン・オルガンによって戦死した。

4月になると、師団はオーストリア南端のBad Gleichenberg地域に後退して、退路を確保しつつ戦い続けた。4月18日に師団は軍団予備となって小康を得た。

4月16日、死傷者続きの師団にフィリップ・ベーゼラーガー少佐が再び着任して、第31騎兵連隊長となるという連絡が届いた。大戦末期の交通事情のこと、合流は4月30日だった。古巣の第I大隊長は、足をなくしたケーラー大尉だった。そして翌日、ヒトラーの死が部隊に伝えられた。降伏の地はオーストリアのグラーツ周辺で、アメリカ軍に降伏することができた。





参照文献


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