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ミリタリ関係

フランスの捕獲兵器と生産設備


 よく知られているように、ドイツは戦前に併合したチェコスロバキアの兵器と生産設備は大いに利用した(頼ったと言っても良い)けれども、フランスの兵器生産設備はあまりうまく利用できなかった。

 これにはいろいろな事情があった。ドイツはフランスに勝った時点であまりにも多くの戦費を使っていた。これ以上のドイツ軍の量的拡大に関しては、戦後のことも考えなければならなかった。ドイツの立場からすると、フランスは講和成立次第独立を回復する見込みだから、工業を発展させてドイツの失業者を間接的に増やしてはならないし、戦費の足しとして工作機械をドイツに持ち帰ることには一定の意義があった。

 もちろんこれらは、対ソ戦を含めて戦争が早晩終結する、という見通しに基づいた話であった。この話は長くなるからいずれ別に取り上げることにしよう。

 ここでは、ドイツが何らかの理由で長期戦を想定して、フランスの捕獲兵器と生産設備を利用するとしたら、どのような方法が考えられるかを検討することにする。

 ただフランスとドイツの間には休戦条約が結ばれており、ヴィシー・フランスは中立国に戻っていることに注意する必要がある。この枠組みそのものを崩せると想定すれば、もちろんもっといろいろな状況がありうることになるが、そうした政治的な大事件を起こした場合の影響は測りがたい。そういう要素を入れすぎるとだんだん根拠の不確かな想定の比率が高くなり、架空の世界に近くなってきて、歴史的な国や舞台を使う意味が薄れてくる。ここでは、ヴィシー・フランスとの間で史実通りの休戦協定が結ばれており、ヴィシー・フランスの国内情勢も史実通りであると想定する。

 中立国は何をして良くて、何をしてはいけないか、厳密な定義をすることは難しい。例えばアメリカはレンド・リース法が成立する以前から、キャッシュ・アンド・キャリー条項というものを設けて、現金で支払いができアメリカまで武器を取りに来られる国にのみ武器を売ることができると定め、事実上ドイツとその同盟国の武器輸入を締め出し、イギリスにばかり武器を売っていた。中立国が交戦国に武器を売ることそのものは中立違反ではなく、一方の交戦国にだけ売ることが中立違反なのである。

 武器以外の重要物資になるともっと状況は曖昧になる。

 例えば民間用トラックを軍が使うことは十分にありうるし、4輪駆動車に現地で重機関銃をすえつければ手ごろな偵察車両になる。まず思い付くのはこの種の車両である。トラックなどは接収した分の補修部品生産も兼ねて、ドイツから資源を割り当てて生産を継続させれば、ドイツ国内の労働力と機械を別の用途に振り向けられたかも知れない。

 戦車や装軌車両についても、同様のことが考えられる。砲などを積まない牽引車としてなら、中立国の工場で生産しドイツに輸出することも可能である。ルノー軽戦車やホチキス軽戦車は史実でも相当数が牽引車として使われていたから、補修部品生産も兼ねて、これらの生産を再興することは有効であろう。

 ただし、これらの車両が与えうる数量的なインパクトは、次の二つの理由で限られている。まず、フランスの戦車は一般にエンジンの馬力が小さいので牽引能力がそれほど高くない。ソミュアS35が190馬力と別格だがどうもこれは少数だったらしい。オチキスH38が120馬力(初期型のH35は75馬力)、ルノーR35に至っては80馬力である。ドイツ軍の牽引車両だと、1トンハーフトラックが83馬力(のち100馬力になったらしい)、3トンハーフトラックが100馬力、5トンハーフトラックが115馬力である。

 ならばドイツ製の大きなエンジンに積み替えて・・・などとは考えないほうが良い。ドイツの高速偵察戦車開発計画は、最終的に2号戦車L型というアウトプットを生み出したけれども、小さい車体で高速を得ようと大馬力のエンジンを積んだ結果、廃熱処理に苦しみ、完成品が時代遅れになるほど遅延してしまったのである。その二の舞いになる公算が高い。

 そして第2に、ドイツが必要としている車両の数は、桁外れに大きい。エンジン出力と自重(装甲された車体はそれ自身が重いから牽引余力を減じる)を考えると、フランス軽戦車は1トンハーフトラックか3トンハーフトラックに相当する能力があることになるが、1941年の生産数(保有数ではない)は1トンハーフトラックが3511両、3トンハーフトラックが1923両である。

 これに対して、フランスは元々この種の車両をあわせて2000両ほどしか持っていなかった。このうちどれだけがドイツ軍に捕獲されたか定かでないが、2000両というストックを支える生産能力は元々それほど高くなかったと思われる。

 さて、フランスからの捕獲兵器で、史実以上の活用を図れるものがあるだろうか。

 ひとつ、ある。1897年式75ミリ野砲である。

 第1次大戦時の主力野砲であるこの砲は、ポーランドでも採用されており、大量にドイツに捕獲された。まずこの兵器が史実においてどのように使われたかおさらいしておこう。

 この砲は砲身長が30口径前後で、もともとそれほど対戦車能力は期待できない。しかしソビエトとの戦いで歩兵用の対戦車砲が大量に必要になったドイツ軍は、この砲を自分の50ミリ対戦車砲の砲架に乗せ換えて、PAK97/38と称してHEAT弾とともに供給した。砲架を乗せ換えた理由は定かでないが、おそらくオリジナルの砲架の車輪が木製で、自動車で牽引したときの振動と高速回転に耐えられなかったからであろう。

 歩兵部隊の評価は芳しくなかったと伝えられている。まず50ミリ対戦車砲の砲架は75ミリ砲の発射の反動を吸収するには軽すぎ、発射時に照準がぶれた。そして75ミリHEAT弾は内部の炸薬が少なすぎて、ソビエト戦車に命中しても撃破できない可能性がかなりあった。当たり前ではないか、などと言ってはいけない。HEAT弾は100メートル程度の至近距離(戦車戦の感覚でだが)で撃つものだから、はずれればすぐ敵弾が来て、2発目のチャンスはないのである。結局、現場の才覚で歩兵支援用に使われることが多くなったらしく、この砲のための榴弾が(もちろん捕獲弾薬が真っ先に使われたと思われる)大戦中期にかなり再生産されている。

 PAK97/38の生産(乗せ換え)数は3712門に及ぶ。このほか、要塞・陣地に固定する形で、1944年5月現在で少なくとも709門の同種の75ミリ野砲が配備されていた。またこの砲は装甲列車の主力砲として、そして空軍野戦師団の支援火砲として(PAK97/38をこのように運用した)使われている。ドイツ軍の主力榴弾砲である105ミリ榴弾砲の年間生産量は1943年以降飛躍するけれども、それまでは年間1400門に達したことがないから、この旧式野砲は大戦中期の戦局にかなりの影響を与えるかもしれない。

 ただし、この砲は第2次大戦の水準から見ると、射程がやや短い。逆に言うと、撃って位置を知られればすぐ敵弾が降ってくると思わねばならない。だから撃っては逃げ、撃っては逃げるような運用をしなければ、戦果に見合わない損害を被ることになるだろう。

 そのためには自走砲化するか、少なくとも牽引車両をあてがわなければならない。砲架を含めた自重は1.2トンだから、フランス軽戦車のほか、3トンハーフトラック、あるいはRSOに相当する車両が牽引車両として適当である。自走砲としては、フランスの軽戦車を含め、史実において75/76ミリ対戦車砲を搭載させられたすべての車両が一応候補に上がる。

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