マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

ミリタリ関連




ディープ・バトルを巡って(ただし第二次大戦まで)

はじめに


 この話題(に深く関連する、ほとんど日本語で語られていない問題)についてはいつか何らかの形で、お金を取って書いてやろうと思っている。しかし簡単に手に入る文書とか、隠すほど珍しくもないネタについては語っても良いだろう。

 マイソフは1945年以降の冷戦については興味がないので、スターリンが死んでから口を開いた人々が何をしゃべり、ディープオペレーション(Глубокая операция)という言葉に何が込められたかは、ここでは扱わないことにする。なおディープバトルを直訳するとглубокая битва(glubokaya bitva)になるが、検索しても全く引っかからず、bitvaでなくoperachiyaがもっぱら使われている。ここでは英語でよく使われる言葉であるディープバトルを使う。

 ディープバトルの源流は、ロシア語版Wikipediaによると内戦期にブジョンヌイが第1騎兵軍を率いたことだとされている。Harrisonはクロパトキンが優勢を活かせず敗北した原因の探求が嚆矢だと書いているし、Glantzは1925年から労農赤軍大学校(のちフルンゼ軍事大学校)で始まった研究が最初の具体化だとしている。成功したコンセプトには多くの父親がいるものである。もっともトゥハチェフスキーが粛清された1937年から、彼の功績は抹殺され、軍人たちは彼を誉めないように発言しなければならず、大戦期においてこの概念は孤児であった。

 Harrisonはこの分野で一冊となればやはりお勧めだが、ロシア帝国末期からのロシア軍事史を延々と読まされる羽目にもなることは警告しておく。Glantzはそういうことはないが、なければないで、1920年代以降にいきなり「軍単位で70〜90km、方面軍単位で200kmの前進を6〜7日で達成する」とかいう突拍子もない数字が出てくるのを読まされる。まあソヴィエト崩壊後の出版ではあるが、おそらく崩壊前の資料がまだ少ないころに主要部分を書き上げていたのではないか。ちょっと肉づけの少ない、生資料感のある筆運びである。

ブルシーロフ攻勢


 第1次大戦中のブルシーロフ攻勢について、ディープバトルとの関連で触れておかねばなるまい。タンネンベルクの戦いで1個軍を失ったのに続き、1915年になるとマッケンゼン将軍が密集突破作戦でロシア軍の戦線を食い破り、大損害を出した。戦線を平らにするためロシア軍は大後退をかけたが、南西方面軍のブルシーロフは1916年になると、不如意ながらも攻勢をかけたいと言い張って、しぶしぶ大本営も了承した。シンプルに言えば、南西方面軍はオーストリア軍、北西方面軍(北方方面軍)はドイツ軍に対峙するのがロシア軍の基本構想であった。

 なにしろ戦力が足りないので、全面攻勢はできない。戦線のあちこちに砲撃を集中させる多方面同時攻勢となった。この「多方面同時攻勢」がディープバトルの特徴を持つと言われるわけである。オーストリア軍は受け止め損ねて後退したが、ドイツとオーストリアの増援が戦線を固めてしまうと、もうロシア軍大本営が増援を送っても前進はそこまでだった。

 もし「多方面同時攻勢」がディープバトルを特徴づけるなら、戦車の関与は本質的な問題ではない。実際、1920年代後半と言えば、1928年にソヴィエト初の国産戦車であるT-18が生産に入ったところで、第1次5ヶ年計画も途上であり、まだ大規模な戦車戦力を前提とした議論は空論だった。

われの戦力は絶大なるものとする


 一方、その名の通りディープな突破がディープバトルなのだとすれば、その優勢はそもそもどこから来るのかということになる。

 Harrisonによると、1921年の党大会でフルンゼが「統一的な軍事ドクトリン」を持つべきだと主張し、軍事人民委員たるトロツキーはこれに消極的な態度を示した。トロツキーは相対的に帝政時代の軍人たちの擁護者であり、フルンゼは党活動家の中で一番軍事がわかる天才……というと単純化が過ぎるだろうか。労農赤軍はあくなき攻撃的・積極的性格を持つべきだとフルンゼは主張し、本来世界革命論の側に立つはずのトロツキーは、この件に関しては、その非理性的・精神主義的側面を批判した。

 このように政治的視点が混入した議論であり、また否応なく「理想と現実」に向き合わざるを得ないトピックスだったが、トゥハチェフスキーは1926年に「むしろ経済的弱者であるからこそ、短期の撃滅戦を希求しなければならない」と議論をまとめ、支持を得た。すでにフルンゼは亡くなっており、トロツキーは失脚していた。

 このような経緯で、「殲滅戦を希求する攻撃的性格」「(世界のプロレタリアートもいずれ合流する)勤労階級の軍であり、我が方は多数」という認識に異を唱えることは難しくなった。優勢なしにディープバトルの理論だけで敵陣が崩れてくれるはずもない。「実際に、物理的に」数的優勢を維持することは、むしろ第二次大戦後の課題となって行ったわけである。

 末尾にリストを付すように、トリアンダーフィロフ、スヴェチン、イサーソンと言った当時の論客たちの著作は英語で読める。トリアンダーフィロフは打撃軍(ударная армия)という用語を初めて使ったが、実際に編成されたもの(1941年12月の第1打撃軍は歩兵9個+騎兵1個師団)よりも大きな、12〜18個師団の大集団を想定していた。これを25〜30kmの幅に密集して突破させ、同時に150〜200kmの幅で他の軍が敵の大集団を戦闘に巻き込んで後退させないようにしないと大突破はできないとトリアンダーフィロフは主張した。ただしこれは、当時のポーランドの動員可能兵力から、再起不能な損害を与えるために必要と考えられた突破規模であった。一般論というわけではない。

新兵器群とディープバトル


 ソヴィエトは重戦車も軽戦車も、戦闘機も爆撃機も、西側が作っているものはほとんど一通り作ろうとした。その優先順位は見えにくく、ディープバトルを語る理論家たちも、それらを総花的に扱い、あまり優劣を論じなかった。戦車部隊は打撃軍の突破が成功した後、第二陣となって深く速く進攻するものとしてイメージされた。なぜそうなったのか、HarrisonもGlantzも明確に論じていない。

 このころについての軍人たちの回想は、多くが英訳されていない。しかし断片的な証言を見ると、スターリンに様々な陳情が行われ、しばしばスターリンがそれに反応してあれこれ命じていたことがうかがえる。従って次のように推論してもいいように思われる。兵器の生産に関するスターリンの決定を勝手に予想したり、まして批判したりすることは余命の期待値を縮めるので、理論家たちはそれを書き記すことを控えたと。それはソヴィエトが実際にそれらを生産できないうちは考えなくてよい要素だったが、1930年代になって初めて重要になった。

 とはいえ、スペイン内乱での戦訓、また大戦の推移から伝わってくる戦訓は軍人たちもスターリンも参照していて、スペイン内乱で戦車部隊の集団行動が(まあ無線機がついていない車両が多ければ当然だが)うまく行かなかったことは戦車の集中運用には逆風となった。

 だからソヴィエト自身が戦争に巻き込まれ、組織的に戦訓を咀嚼しはじめるまで、個別の武器に対する評価や運用法研究は進まなかったのである。ただしこの戦争にはフィンランドとの冬戦争が含まれることに注意すべきである。例えばこの戦いでサブマシンガンが高く評価されることがなかったら、ソヴィエト歩兵の武器構成はもっとゆっくりとしか変わって行かなかったかもしれない。

大戦期ソヴィエト軍の実態


 結論から言うと、大戦期ソヴィエト軍の実態については作戦術云々を考えることはむしろ迂回になる。Raus[1949]を読むほうが早い。

 ラウスはオーストリア軍人で、第1次大戦中は自転車化歩兵として戦っていた。第1次大戦のロシア軍とも戦っていることが説明を豊かにしている。ラウスは序盤で戦闘群長(旅団長)として街道上の怪物KV-IIと対峙し、レニングラードすぐ手前まで行き、転じてヴャージマ包囲戦からルジェフ付近で冬季の戦闘を重ね、フランスでの休養を経てスターリングラード救出作戦で友軍まで60kmと迫り、他方面の火消しに転用された第6装甲師団と別れて軍団長となり、ケンプ軍支隊でハウサーの軍団と肩を並べてハリコフで戦った。そのままクルスク戦に参加し、ハリコフ方面で撤退戦を続けた。ドニエプル川を渡ったところで11月に第4装甲軍司令官となった。コルスン包囲戦では一部の師団が巻き込まれたにすぎなかったが、カメネツ=ポドリスキー包囲戦ではいくらか包囲突破に関わった。事故死したフーベの後任として消耗し切った第1装甲軍司令官を務めた後、8月には指揮をハインリーツィに渡してリトアニアの第3装甲軍司令官に転じた。モーデルが中央軍集団からB軍集団司令官に移り、ラインハルトがその後任となったためである。その任務はすでに、リガからの脱出経路確保となっていた。ラウスは北方軍集団を統べるシェルナーの意に反し、部隊の大半をクアラント・ポケットに向かわせず東プロイセンに向けた。1945年2月、司令部ごとラウスは呼び戻されてヒムラーのヴァイクセル軍集団につけられた。寄せ集めの部隊を率いて戦った。3月、ヒムラーの賛同を得て戦線の現状を直訴するためヒトラー官邸に行ったが軽くいなされ、翌日に解任を告げられた。

 そのようなわけで、ラウスが「自分の知っている例」を挙げて説明すると、極北部を除く東部戦線のほとんどが網羅されてしまう。Raus[2005]は編者Newtonが家族の協力で遺稿をあさったがひとつながりの回想が見つからず、上記の戦歴について書いていた多くの部分的な回想や解説をまとめたものである。Raus[1949]だけを読むとそれぞれの戦例が唐突に出てくる印象があるので、合わせて読むと良い。また、Raus[1949]はTsouras[1997]におさめられているので、kindleで読みたい人は少し身銭を切ると良い。また、Carruthers[2012]は(主に)東部戦線について、非常に多くの米英軍情報部報告書をまとめたもので、あわせて読めばもっと戦術や兵器運用の細部がわかる。
全般

 ソヴィエト兵士は第1次大戦当時と違い、機械の扱いに長けた都市部住民が他の兵士を教え、兵器と装置の取扱に長けていた。陣地の前に地雷を敷設すると、夜中に掘り出して自陣に埋め直してしまうので、ドイツ軍は突破されたときソヴィエト兵士が通るような陣地後方に埋めるようになった。

 政治的な誘因よりも祖国愛に拠って戦い、刻苦に対し鈍感だった。しかしムードに左右されやすく、人が変わったように勇戦したり壊乱したりした。ソヴィエト士官はよく教育されており、大粛清の後に任官した士官たちも軍事的知識は豊かだったが、兵士のムードをコントロールしきれていなかった。将帥たちは軍事的素養と柔軟さを持っていたが、師団レベルでさえも硬直的な命令遂行に徹し、生まれた好機をとらえようとしない傾向があった。
政治委員

 政治委員は知的で抜け目ない存在だったが、野戦病院の改善など部隊の福利に関する上申を行う窓口でもあった。政治委員は軍人扱いせず殺害してよしとするコミッサール指令に関わりなく、しばしば文字通り最後の一兵となっても戦った。
歩兵

 水面を含む困難な地形を踏破すること、自然を利用して隠れ、陣地を強化することに優れていた。後方に現れた小部隊を数時間放置すると、増援を加え陣地を構築して、もう手の付けられない存在となるので、ドイツ側の投入できるのが1個小隊であれ戦車1両であれ、即時の攻撃によってそれを妨害することが鉄則だった。

 その後の攻撃予定があろうとなかろうと、歩兵は停止したら壕を掘った。
砲兵

 末尾に挙げたRichert参謀大佐の報告は出処不明だが、フォーマットから見てアメリカ軍の求めに応じて戦後に書いたものと思われる。この名前の人物は参謀少佐としてドイツ黄金十字章を受けているので、たぶん偽物ではない。これを見るとソヴィエト砲兵は観測による間接砲撃をやっている。

 ただラウスによれば、絶好の観測地点を持ちながら砲撃を加えてこないケースがあった。また、第1次大戦から一般化している、歩兵の進撃に合わせて砲撃目標を前進させていくCreeping Barrageは、ついに終戦までできなかった。そのかわり、旧弊な準備射撃を行うか、砲撃途中で細い空白を作り、そこを歩兵の進撃路とさせた。煙幕弾を使うこともあったが攻撃開始地点をストレートに煙で覆ってきたので、ドイツがその中に砲撃をすることでソヴィエト軍に大きな被害が出た。ドイツ側の攻撃への対応も総じて鈍かった。その一方で欺瞞は緻密に計画され、少数の砲で陽動ないし嫌がらせを行うRoving Gun(Arbeitsgeschütz)は活発であった。

 つまり、砲兵と歩兵など他兵科との協力がまるでダメだった。歩兵が観測地点を持っていても、そこに観測班を間借りさせることを面倒がることがあったのかもしれない。逆に、歩兵と行動を共にする迫撃砲部隊は柔軟に反撃に加わった。

 砲兵の移動には時間がかかり、カウンターバッテリーにはその意味で脆弱だった。
攻撃と戦車

 もっぱら物量により攻撃を成功させる傾向は終始変わらなかった。陽動ないし威力偵察に連隊規模の部隊を動員し、壊滅のリスクにさらすことは当然のように行われた。1943年以降、砲兵の集中使用、ドイツ軍戦線の弱点への集中攻撃といった変化が現れた。

 戦車集団による大規模突破は、1944年になって生じた変化だった。準備砲撃が露払いし、歩兵が続くのだが、いったん進撃が始まると連絡は疎になりがちだった。ドイツ軍は歩兵と戦車が引き離されたときを反撃のチャンスとしていたが、1945年になると、リスクを負って歩兵を乗せたまま戦車集団が接敵することが増えた。大戦末期になっても、抵抗が予想されない場面で装甲部隊を慎重に進ませすぎること、逆に戦車部隊を突出させ、砲兵や歩兵と切り離された状態で大損害を受けることが発生していた。
騎兵

 遅滞戦闘や後方攪乱に活躍したが、前大戦ほどのスキルではなかった。

地形

 Russia as a theater of operationsという章がある。ここで真っ先に述べられているのは、ロシアとはとにかく移動がしにくいところだということである。道が悪いし、道が少ない。森も沼もあって雪が降る。移動できるわずかな道が攻防の焦点になる。守るに易いと言えば言えるが、逃げるとなると今度は容易ではない。

 第1次大戦で大包囲戦のあったタンネンベルクはワルシャワから見て北北西である。西なのである。ロシア軍がロシアを出て、東プロイセンないしポーランドまで来て、ドイツ軍の教科書通りにしてやられたのがこの戦いだった。包囲に駆け付けたドイツ軍の一部は、鉄道を利用しさえした。ロシアではそうはいかない。艦隊決戦がめったに起きないのと同じ理由で、劣勢だと思っている側は接敵を避けるのが当然である。優勢を保ったまま敵主力に接近し、退却を許さず突破を包囲につなげていくのは簡単ではなく、だからこそドイツ、ソヴィエトどちらにも包囲作戦の失敗がしばしばあり、ふたりの独裁者が死守を命じなければもっと包囲失敗は増えたはずなのである。

結語


 戦後ヨーロッパの関心事は、ワルシャワ条約機構軍が東ドイツを発してフルダ峡谷になだれこみ、西ドイツの道路網を伝ってフランクフルト・アム・マインを衝き、さらに西進することだった。仮に同じような戦力構成で東西が対峙しても、起点が1941年当時のベラルーシやウクライナの地勢であったら、西進のスピードはずっと落ちるであろう。

 一方、戦前の議論は机上だから自由に物が言えたかというと、すでに述べたように、ソヴィエトはそういう国ではなかった。

 だから戦前の話、戦後の話のどちらも大戦期の話とごちゃ混ぜにすると理解しづらくなるし、大戦中のことを考えても、兵理兵略の優劣で起きたこととロシアの地勢や国情が課した制約は区別して理解したほうが良いのである。

 さらに言えば、作戦術という概念がなくても、実質的にそうした考慮はせざるを得ない。別稿で述べたように、アルデンヌでの突破はヒトラーも思いついて口走っているし、ポックが「すでに検討したが渋滞が起きる」と反駁している。マンシュタインの計画はそれより精緻ではあったろうが、例えば1939/40年冬にそれをすれば、1944/45年の冬と同じ状況になるであろう。つまり予備戦力というかたちでの数的優勢がなければ、相対的に優勢な英仏軍に出口をふさがれ、細長い進出経路は包囲の罠と化す。ハルダーの日記には、フロム予備軍司令官と新しい師団の動員状況を打ち合わせている記述がある。「突破したあと」のことを考えていない点では、ヒトラーもマンシュタインも大差はない。ハルダーはそうではなかった。英仏との本格的な戦闘に備え、1939年9月の第5波から8ヶ月にわたる動員によって優良師団のほとんどをフランス戦に導入できる状況を作り、ダンケルク撤退後のフランス占領作戦を滞りなく完遂した。1939年9月から1940年6月までの流れはハルダーのコントロールが英仏のグリップにまさったのである。こういうのを作戦術と呼ぶのではないか。


参照文献


  • Carruthers,Bob(ed.)[2012],Wehrmacht Combat Reports - The Russian Front (Eastern Front from Primary Sources) ,Archive Media Publishing Ltd(kindle版あり)
  • Glantz,David M.[1991],Soviet Military Operational Art: in Pursuit of Deep Battle,Routledge(kindle版あり)
  • Harrison,Richard W.[2001],The Russian Way of War:Operational Art,1904-1940,Univ.Press of Kansas
  • Isserson,Georgii Samoilovich[2013], The Evolution of Operational Art (書籍版あり、出版年は書籍版のもの)
  • Raus,Erhard[1949]Peculiarities of Russian Warfare(revised edition)
  • Raus,Erhard,Steven H. Newton(ed.)[2005],Panzer Operations: The Eastern Front Memoir of General Raus, 1941-1945,Da Capo Press(kindle版あり)
  • Richert,Oberst i.G. Hans-Georg[?]Tactics and Fire Control of Russian Artillery in 1941-44
  • Svechin,Aleksandr A.[1993],Strategy,East View(kindle版あり)
  • Triandafillov,V.K.[1994],The Nature of the Operations of Modern Armies,Routledge
  • Tsouras,Peter G.[1997]Fighting in Hell: The German Ordeal on the Eastern Front,Ballantine Books(kindle版あり)

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