マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

ミリタリ関係




ドイツ空軍の海上作戦



 このパートでは、ドイツ空軍の海上での作戦と、海軍との協力体制について述べる。ただ1940年2月22日にドイツ駆逐艦2隻を誤爆し、その後の被雷沈没に追いやった事件を頂点として、水上艦艇とドイツ空軍の協力にはポジティブな可能性を認めづらいので、多少描写が薄くなることをご了承いただきたい。

ドイツ海軍の地域防衛体制

日本海軍の地域防衛体制

 艦隊の編成表はどこにでもあるが、内線部隊たる鎮守府の内部構成はあまりどこにでも書いてある話ではない。日本とここが違うとか書いても、予備知識がないとお楽しみいただけないだろうから、これを先に書いておくことにしよう。

 戦争がないときも艦隊はある。なんだか戦争だぞ危ないぞと言うとき、連合艦隊を編成して指揮権を統一するのが日本海軍のタテマエである。ただし昭和に入ると平時でも連合艦隊を置くようになった。満州事変や日華事変を戦争だと認めると戦略物資の禁輸を食らってしまうので事変と呼んで戦争なのかそうでないのかあいまいにしたのだが、まあそういうわけでNSレギーム*1のころには、日本には連合艦隊があった。

 これに対して、今なら海上保安庁が担当するような仕事も、戦前は日本海軍がやっていた。戦争があろうとなかろうと海軍の仕事はあるし、犯罪者や外敵とぶつかれば戦闘になる。だから呉や横須賀に常設する司令部もないと困る。これが鎮守府である。大正の軍縮で舞鶴が格下げされた時期があったが、概ね第二次大戦とそれに先立つ動乱の時代には、横須賀、呉、舞鶴、佐世保に4つの鎮守府があった。

 これらはまず第一に、海軍の地域事務所だった。それぞれに担当する道府県があり、そこからの徴兵を訓練した。それぞれの専門に応じた学校は別にあるので、水兵の総合訓練、下士官の総合訓練が主な仕事である。

 第二に、海軍カンパニーの営業所だった。工廠でフネをつくり、燃料廠では石油を精製し(鎮守府に属さない海軍工廠や海軍燃料廠も多い)、軍需部では時期と場所によるがパンを焼いた。そして関連材料・部品・完成品を発注し受け入れ保管する巨大な流れの結節点となっていた。

 第三に、軍港付属施設を管理する港湾事務所兼防衛司令部だった。周囲の監視用施設などを維持・防衛する防備隊が多数傘下にあり、往来用の小艦艇も持っていた。少し大きなフネや軍港そのものを防衛するフネ、例えば旧式艦や商船改造の特設巡洋艦などは防備戦隊にまとめられていた。もっぱら陸上での警備巡回に当たる警備隊が置かれていることもあった。タグボートや連絡艇など、港湾業務に使う船は港務部が主に保有していた。掃海艇を集めた掃海隊なども鎮守府に属するものがあった。海軍兵学校などは海軍省直属だが、呉や横須賀の鎮守府に属している学校も多い。

 そして最後に、今で言う海上保安管区(司令部)だった。受け持ちの道府県海岸に大体対応する受け持ち区域を持ち、平時のシーレーン防衛に当たった。これにあたる艦艇は鎮守府ごとに、警備戦隊と呼ばれる部隊を構成していた。警備戦隊は太平洋戦争開戦直後に解散され、アメリカ艦隊などの接近を知らせるための水上警戒などにあたったので、「開戦直後の」日本海軍編成表にはまだ載っている。

 最後ふたつの意味で、戦争のないときも鎮守府は「作戦」を常時行っている存在だった。そしてそれらは、「艦隊」に属さない旧式艦艇、小型艇、特設(民間船改造)艦艇、特務(非戦闘)艦艇が担っていたのである。
鎮守府と保安司令部

 ドイツ海軍では日本の鎮守府が持つ機能を、ふたつの司令部に分けていたようである。デンマーク半島をはさんで、北海側とバルト海側にそれぞれ2つの司令部。
  • Marinestation der Nordsee(ウィルヘルムスハーフェン=ハンブルク鎮守府)
  • Befehlshaber der Sicherung der Nordsee(北海保安司令部)

そして、
  • Marinestation der Ostsee(キール鎮守府)
  • Befehlshaber der Sicherung der Ostsee(東部保安司令部)

 鎮守府には海軍病院など基地固有の施設や部隊が所属し、保安司令部には掃海艇、駆潜艇などの雑多な小艦艇部隊が属する。のちに黒海とバルカン半島を担当する南部保安司令部ができるなど、占領地の拡大に伴う部隊新設があった。

 ただしこれらはどちらかというと行政上の都合で組まれた部隊で、保安司令部の所属部隊を下にたどっていくと、艦艇の種類別にきちんと隊が組まれている。1941年2月以降、艇種をごちゃ混ぜに地域単位にまとめたSicherungsdivision(海防部隊)が保安司令部の下につき、地域防御にあたることになった。従来の掃海艇ばかりの部隊は司令部だけの部隊として存続し、海防部隊から掃海任務に合わせた艦艇を一時的に配属されるようになる。

 部隊の配属(untersetzen)にtruppendienstlichとeinsatz(文脈によりeinsatzmaessig)の2通りがあり、どうも前者が建制の配属、後者が軍隊区分ないし戦術的指揮権の上での上下関係を指すようである。

 小艦艇について建制と軍隊区分を区別するのは、ドイツだけが特別というわけでもないようである。第二次大戦開戦当時のイギリス本国艦隊編成を見ると、すべての駆逐艦を統括するRear-Admiral, Destroyersが任じられている。戦争が始まると、その旗艦であった軽巡洋艦オーロラ駆逐艦母艦ウールウィッチに交代し、ウールウィッチがエジプトで任につくとさらに他の艦に交代していった。Rear-Admiral, Destroyersの一覧表には人名の抜けた時期があるが、終始旗艦は置かれているので、提督が赴任していなくても行政組織は残っていたと思われる(リストから抜けているだけで、任じられていたかもしれない)。

 こうしたことを長々と解説するのは、海軍に協力したドイツ空軍についても同様に建制と軍隊区分が一致しないことが多いからである。そのこと自体はドイツ海軍では異常なことではない。ただ結果的に、「海軍の補給を受けつつ空軍の命令で作戦する」かたちになった部隊が多くなったことは注記に値するだろう。

大戦以前の海上におけるドイツ空軍

FdLの誕生

 1934年4月1日にLuftkreiskommando 6が作られた後、1934年7月1日にその下で水上作戦用航空部隊を統括する海上航空部隊司令部 (Fuehrer der Seeluftstreitkraefte、略称FdLまたはFdLuft)が作られた。FdLuftの士官は80%が海軍出身者であった(Neitzel[1995;p.12])。

 このLuftkreiskommando 6はFdL以外にはキールの高射砲部隊と通信部隊を統括するもので、この司令部が丸ごと海軍用空軍部隊と言ってよい。1938年2月4日、Luftkreiskommando 6はLuftwaffenkommando Seeと改称され、水上機訓練学校も指揮下に置いたが、空軍の海上航空部隊がキール以外にも広がってきたからか、1939年2月に廃止された。最初から最後までこの司令部のトップだったKonrad Zanderという人は水雷艇乗りで、海軍少将のときに空軍に移ってきた人物である。空軍大将で退役したが、退役前にクリミア方面の空軍部隊司令官を短期間務めたためにソビエトに抑留され、そのまま1947年に死去した。
FdL傘下の部隊群
  • Kuestenfliegergruppe(水上飛行隊)

 偵察機中隊、He115を中心とするMehrzweckestaffeln(多用途機中隊)、Do24飛行艇などの長距離偵察機中隊などが属した。雑多な機材とローカルな偵察部隊の寄せ集めであり内部構成は一定しない。また各中隊の細かい区別は順次廃され、単に番号で呼ばれるようになった。
  • Bordfliegergruppe(艦載飛行隊)

 艦艇に積まれる水上機、グラーフ・ツェッペリン搭載予定部隊のほか、主にAr196が属した。
  • Seejagdgruppe(水上戦闘機中隊)

 He51水上戦闘機が属した。
  • Traeger-Stuka-staffel(空母スツーカ中隊)

 グラーフ・ツェッペリンのためにJu87で編成された。実際に編成された唯一のものは艦載飛行隊に属した。
  • Traeger-Jagd-staffel(空母戦闘機中隊)

 グラーフ・ツェッペリンのためにMe109Tで編成された。実際に編成されたものはすべて艦載飛行隊に属した。
  • Traeger-Mehrzweck-Staffeln (空母多用途機中隊)

 グラーフ・ツェッペリンのためにFi167で編成される予定だったが実現しなかった。
  • Luftzeuggruppe (航空材料廠)

 一般にLuftzeuggruppeは、航空装備・弾薬のプールである。
1939年2月の合意

 Isby[2005]の第1章は、1947年にアメリカ海軍情報部がまとめた個人著者名のない文書「German Naval Air 1939-1945」である。

 この文書によると、ドイツ空軍は海上作戦とその機材に決して不熱心ではなかったが、航空部隊を海軍の指揮下に置く具体的な約束を徹底的に避け、海軍幕僚の疑心を招いた。

 すでに述べたように、FdLuftは発足していたが、これが空軍所属のまま海上作戦を行うのか、明確に海軍の指揮下に入るかがはっきりしなかったということである。

 レーダー海軍総司令官はブロンベルク国防大臣の仲裁を得て、1937年に「海軍の沿岸防衛に関する責任範囲には、空からの攻撃への対処も含まれる」と明記した指令をブロンベルクから出させた(p.33)。ところがその後、ブロンベルク国防大臣はヒトラーの不興を買って失脚してしまったので、新たな枠組みが必要になった。1939年1月27日に海空軍の総司令官が会談し、その合意事項を基礎に2月3日付の協定文書が作られた。

 その最大のポイントは、「FdLuftを廃止して海軍司令部空軍代表を置き、戦時には海軍司令部空軍代表は海軍総司令官の指揮下に入る」という一項だった。これで問題は、海軍司令部空軍代表にどれだけの部隊を配属するかに絞られた。

 作戦分担については次のように決められた(p.36)。

 イギリス本土及び、ドイツ海軍が艦艇を侵入させないイギリス沿岸部は空軍の作戦区域である。

 海軍作戦のための偵察は海軍が行う。

 艦艇同士の戦闘に対する空軍の介入は海軍の要請か、一般的な事前合意に基づいて行われるものとする。海軍はそうした海上戦闘のための航空部隊を訓練する。

 航空機による機雷敷設作戦は必ず海軍の合意に基づいて行う。

 この合意文書には、1941年までに空軍が海軍司令部空軍代表のもとに置くべき兵力規模が記されていたが、早すぎる対英開戦と同時に合意は破棄された。
長距離偵察中隊9
その他の海軍用飛行中隊18
空母艦載機中隊12
その他の艦載機中隊2

 特徴的なことがひとつある。海軍も空軍も、Uボートと外洋で協力する可能性についてはまったく言及していないことである。外洋型Uボートの量産がまだ進んでいなかったこと、ノルウェーやフランスが拠点として使えないうちは哨戒機の現実的なコースが限られることなど、様々な要因が考えられる。

 結局のところ、通商破壊はともかく、イギリス海軍艦艇への攻撃はもっぱら空軍の指揮下で行われたのだが、まったく海軍指揮下の部隊に近代的な爆撃機・攻撃機があてがわれなかったわけではない。Isby[2005;pp.44-45]には1940年1月15日現在、海軍司令部空軍代表の指揮下にあった部隊と機種のリストがある。ほとんどの部隊は水上機か飛行艇だが、K.Fl.Gr.806はHe111の雷撃機タイプであるHe111Jを装備している。この部隊はのちJu88に機種転換して、フランス占領後はナント、さらに1940年9月からカーンに駐留して海軍に協力し続けたが、独ソ戦開始後バルト海の海軍作戦に協力するためリガに移駐し、1942年にはシシリー島で戦い、9月に同地にいたKG54に統合された。

 おそらくドイツ空軍による最初のイギリス海軍施設への攻撃は、1939年10月17日のスカパ・フロー空襲である。KG30に属する4機のJu88とKG26に属する1個中隊のHe111が参加した。この部隊は海軍司令部空軍代表の指揮下にない。

海軍司令部空軍代表

 General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Kriegsmarine (略称にしてもGen.d.L.b.Ob.d.M.とどうしようもなく長い)は、ドイツ海軍司令官に直属して空軍を代表する将軍である。FdLが廃止された1939年2月から、海軍に協力する空軍部隊を建制として(truppendienstlich)指揮した。(Neitzel[1995],p.263)。

 1939年から1944年までこの任についていたのは、Hans Ritter空軍少将(1940年に中将、1942年に大将)である。第一次大戦には海軍航空隊のパイロットを経験し、海軍総司令部の航空主任参謀をつとめていた中佐当時に空軍が創設され、転籍した。ヒトラー暗殺事件後の1944年9月に職を辞し、以後は軍職についていなかったが、ソビエト占領地域にとどまっていたせいかソビエトに捕まって1955年まで獄中にあった。幸いその後は長生きして。ドイツ再統一もしっかり見届けて1991年に他界した。

 FdLは廃止されたが、実質的には調整役としてのGen.d.L.b.Ob.d.M.を含めて、3つに分割されたと言うべきである。Fuehrer der Seeluftstreitkraefte WestとFuehrer der Seeluftstreitkraefte Ostがそれぞれ空軍少将を長として新設され、作戦上の指揮権(einsatzmassigkeit)はそれぞれMarinegruppenkommando WestとMarinegruppenkommando Ostに与えられた。

 この司令部はそれぞれウィルヘルムスハーフェンとキールの鎮守府にくわえ、沿岸海域防備やローカルな攻撃任務に当たる小艦艇を統一指揮するもので、多分に二枚看板的な地域司令部である。ポーランド戦が終わるとMarinegruppenkommando Ostの長はキール鎮守府司令長官のCarls大将が兼任するようになったし、Westのほうはウィルヘルムスハーフェン鎮守府司令長官だったSaalwachter大将が一段上がってM.Gr.Kdo.Westの司令長官になっただけである。大型艦を擁する艦隊司令部は、これとは別にある。

 こうして水上機部隊は海軍の地域司令部が指揮し、航空材料の補給は海軍司令部空軍代表の指揮下にあるLuftzeuggruppe(See)から受ける体制でドイツ空軍の海上作戦は出発した。

 ちなみにCarls大将は、のちにRaedar大将が海軍総司令官を辞するとき、Doenitzと並んで後任の候補に挙げた人物である。

ドイツ空軍の栄光と挫折、そして新たな妥協

 1940年の年末まで断続的に、空軍は海軍にいったん割り振った部隊を「一時的に」「特定作戦のために」空軍の指揮下に置こうとした。その圧力に、1939年2月の合意を無視した内容の総統指令も混じっていた。実際、ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンのためにすべてを動員する必要があった。

 そしてそれは終わった。1941年1月6日の総統指令は、Uボート部隊指揮官(デーニッツ)の用に供するため、Fw200を装備するI/KG40を海軍総司令官の指揮下に置き、その機数を12機を下回らないようにする責任をゲーリングに負わせるものだった。要するにI/KG40をBdUに直属させろというのである(Neitzel[2005],p.81)。

 空軍は直ちに反撃し、海軍を全面屈服させるかたちで協定が結び直された。FdL OstがただひとつのFdLとして存続し、ひとにぎりの艦載機部隊を海軍の指揮下に残した。FdL Westについては少し後で述べる。

 いったん海軍のものになるはずだったKG40は空軍が創設する太平洋航空指揮官(Fl.F.Atlantik)の指揮下に入り、Uボート部隊指揮官と西部海軍部隊指揮官は'Foderungen'を認められることになった。'Foderungen'は「要求」だが、日本軍風に言うと「区処」というところか。ノルウェー方面の指揮権も第5航空艦隊に移り、北部海軍部隊指揮官の区処を受けることになった。

 海軍司令部空軍代表は実質的な指揮権を全て失い、補給についてだけ責任を持つポストとなった。

 海軍自身も、Uボートに勤務する士官が不足して、空軍転属者を海軍に呼び戻す始末だった(Isby[2005;p.62])。

 1941年12月、水上艦載機などを除いて最後の作戦部隊である506飛行隊が空軍に移り、海軍が作戦上の指揮権を持つ航空部隊は事実上なくなった。FdL Westは1940年4月からFuehrer der Seeluftstreitkraefte(海上航空部隊指揮官)と改称していたが、レーダーが粘り強くゲーリングに交渉して、1942年4月に空軍に移管されたものの第3航空艦隊のもとで存続した(Isby[2005;pp.65-66])。ディエップ上陸の撃退に参加した後、この部隊は空軍の海上攻撃部隊である第IX航空軍団に吸収されて、同年9月に廃止された(Isby[2005;pp.128-129])。

 デーニッツもレーダーに劣らず海軍固有の航空戦力にこだわったが、ついに大勢が覆ることはなかった。
海上作戦に従事した主な司令部

主にThe Luftwaffe, 1933-1945とSeefliegerverbande 1939-1945による。

  • FdL West,Fuehrer der Seeluftstreitkraefte

 前項参照。
  • FdL Ost,Fliegerfuehrer Ostsee

 1941年4月、FdL Westと同様に第1航空艦隊に移籍し、Fliegerfuehrer Ostseeに改編された。隷下部隊の多くはイタリアやフランスに転出し、1941年10月に司令部は黒海沿岸のコンスタンツァに移動してFliegerfuehrer Suedの母体となった。1944年10月まで、第1航空艦隊には水上偵察機の小さな直轄部隊Seefliegerstaffelが残存した。
  • Fliegerfuehrer Sued,Seefliegerfuehrer Schwarzes Meer

 1941年10月に創設され、1942年12月にはSeefliegerfuehrer Schwarzes Meerと改称されて1944年9月まで存続した。Seeaufklaerungsgruppe 125(第125水上偵察飛行隊)のもとにAr196、さらにBv138飛行艇も持っていた。
  • Fliegerfuehrer 6

 クールラントで包囲された第6航空艦隊(のち2度改称)のもとに1944年12月設置され、水上偵察機と飛行艇を持っていた。最終段階では女性・子供・負傷者の脱出に働いた。
  • Fliegerfuhrer Nord

 1941年3月、ノルウェーの海上作戦部隊を指揮するため、現地にあったKG26本部を改編してFliegerfuhrer Nordが創設された。KG26自体は存続し、翌年に航空団本部も再建されるのだが、この物語は別項に譲ろう。Fliegerfuhrer Nordは1941年12月、Fliegerfuehrer Nord (Ost)、Fliegerfuehrer Nord (West)、Fliegerfuehrer Lofotenに分割される。
  • Fliegerfuehrer Nord (Ost)、Fliegerfuehrer Eismeer、Fliegerfuehrer 3

 1942年3月から1944年8月までソビエト国境に近いチルケネス(Kirkenes)に司令部を置いていた。2度の改称を経て1944年12月に廃止された。
  • Fliegerfuehrer Nord (West)、Fliegerfuhrer Nordmeer、Fliegerfuhrer 4

 当初トロンヘイム、のちオスロ近郊のKjellerにあった。

  • Fliegerfuehrer Lofoten

1941年12月よりバルドゥフォス(Bardufoss)で活動。Lofotenは周囲の諸島名だがバルドゥフォスは本土側にある。1944年6月よりFliegerfuehrer 5と改称してトロンヘイムに移動。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bardufoss_Air_Station
  • Fl.F.Atlantik

 大西洋の航空優勢が完全に失われ、Uボートとの連携も望めなくなった1944年3月に解体された。

大戦初期の空軍水上作戦

初期の航空魚雷

 大戦初期にドイツが航空魚雷を多用しなかった理由についてはいろいろな記述があるが、「何かをしなかった理由」は公式記録に残るものではないので、生存者の記述もいくらかあいまいである。空軍が何かをしなかった理由を海軍関係者に聞いてもはっきり答えようがない、と言うこともある。

 Isby[2005]にはWeichold海軍中将のドイツ空軍海上作戦に関する概説記事がある。Weichold中将の履歴を調べると、大戦中のほとんどをイタリア海軍司令部駐在武官として過ごしているので、現場の空気がどれだけわかっているかはわからない。彼は、ドイツ空軍は'tactically difficult'な魚雷よりも爆弾による攻撃を好んだ、と述べている(pp.107-108)。訓練もなしに雷撃に慣れたパイロットなどいるわけがないので、これは大きな要素であったかもしれない。逆にドイツ海軍が航空魚雷の戦果に大きな期待を寄せていたことは、同氏も言及している。また、ヒトラーが航空魚雷に懐疑的なゲーリングの影響を受け、一時期航空魚雷の開発を禁止したことも述べている。

 ビスマルクが航空魚雷で沈没につながる損傷を受け、タラントや真珠湾の戦果が上がると、ドイツの空気も変わった(意地悪く言えば、ドイツ海軍が雷撃機を指揮下に置こうとしなくなるまで、空軍は魚雷に興味のないふりをしただけかもしれない)。PQ17船団攻撃では航空魚雷が使われ、KG26は全面的に雷装可能な機体に転換することになる。雷撃装備そのものはアタッチメントであるから、He111HやJu88Aの雷装バリエーションが使われた。これらについては後のセクションで触れることになるだろう。
航空機雷敷設

 海軍は自分の自由になる航空機で機雷敷設を行い、空軍にも協力を求めた。空軍は機雷敷設などの海上作戦を主任務とする第9航空師団を1940年1月に創設(同年11月第IX航空軍団に昇格)したが、海軍はその兵力は過少であると増援を求め続けた。。(おそらく態度を硬化させた空軍の要請で)ヒトラーが介入し、海軍の元で機雷敷設の主力だった第106水上飛行隊を空軍に移管するとともに、1940年2月以降海軍航空機による機雷敷設を禁止した(Isby[2005;pp.183-185])。Wikipediaが触れるように、1939年11月にテームズ川に落ちた航空機雷がイギリス軍の手に落ち、1940年3月にはイギリスの対抗策にドイツは気づいた。1940年4月以降、ドイツ海軍の航空機で機雷敷設を再開することは認められたが、次第に空軍に人員機材を抜き取られる中で実効はもう上がらなかった(Neitzel[1995;pp.35-36])。Weichold中将は、イギリス側は事態を深刻に捉えており、いったん敷設を始めた航空機雷はもっと徹底的に敷設するべきだったと論評している(Isby[2005;pp.104-105])。Weichold中将は戦後になって連合軍側との戦史研究に協力した人物なので、イギリスの困窮についての指摘は傾聴すべきだろう。
1941年3月以前の輸送船団への航空攻撃

 初期の艦船攻撃には、II/KG26やKG30があたっていた。Fw200を擁するKG40も開戦当初はブレーメンにいて、海軍の指揮下にあった。ノルウェー作戦が終わると、そのままKG26やKG30は第X航空軍団のもとにノルウェーから作戦するようになり、フランスから海上への攻撃任務は第IX航空軍団が担うようになった。そしてKG40とFw200は、ノルウェー作戦から海軍を離れて空軍に戻り、第IX航空軍団のもとでボルドー・メリニャック基地から作戦するようになる。1940年6月のことである。

 1940年10月26日、2./KG40のJope少尉(のち大佐、KG100やKG30の司令を歴任)のFw200はアイルランド西で250kg爆弾2発を徴用客船Empress of Britain号に命中させた。爆弾による火勢は強く自力航行は不可能となり、全員が下船した後、駆逐艦によって曳航が続けられた。Jope少尉の帰還後に周囲のUボートが呼び集められ、U32が10月28日に魚雷によって同船を撃沈した。相互の連絡があったわけではないが、結果的にUボートと航空機が大西洋上で共同戦果をあげた最初の例であろう。

 1941年2月にはアイルランド西でOB279船団SC20船団が相次いで攻撃され、Fw200とUボートの戦果が交錯したが、情報提供の有無ははっきりしない。このFw200はI./KG40のものである。

 同2月8日、ジブラルタルからリバプールに向かうHG53船団はU37に発見された。U37は自分も攻撃を行っただけでなく船団の位置を送信し、2./KG40から5機のFw200が出動した。さらに重巡洋艦アドミラル・ヒッパーが接近し、脱落した輸送船1隻を見つけて撃沈したが、捕虜は船団のことを明かさず、船団本体は無事だった(戦闘記録)。22隻の輸送船から9隻が失われた結末を「無事」と呼んでよければだが。

 2月19日、I./KG40のFw200が、リバプールからケープタウン方面に向かうOB287船団を発見した。位置情報が報告され、5隻のUボートと3隻のイタリア潜水艦(27隻のイタリア潜水艦がジブラルタルを抜け、大西洋で作戦していたことはご存知の方も多いであろう)が向かったが、ドイツ空軍機の位置報告が77海里(143km)ずれていたため触接が遅れた。にもかかわらず方向は合っていたものか、4日間にわたって延べ5機のFw200が毎日1〜2機ずつ船団を見つけて攻撃した。船団は散開を余儀なくされた。イタリア潜水艦が1隻見つかって撃沈された。

 同日にリバプールから北アメリカに向かったOB288船団はアイルランド西で1./KG40のFw200に見つかり、独伊合わせて8隻の潜水艦が呼び集められた。5隻が触接に成功し、10隻の商船、合計約5万トンが沈んだ。

 当初の半年間はFw200が大きな戦果を上げたが、連合軍の防御が進んで、まず船団への低空攻撃、次いで独航船への攻撃が不可能になったが、それを避けて高空からの爆撃では成果が上がらなくなった(Isby[2005;pp.138-139]、ドイツ空軍が1944年にまとめた内部文書)。爆撃照準器の改善は1943年にずれ込んだので実効がなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=kqly1pHyZ5Eは1941年2月のFw200出撃。ただし数機のフィルムが混ぜてある様子。

 無制限潜水艦作戦と同様の国際法上の問題を懸念して、空軍は1939年11月1日まで民間船舶への航空攻撃を禁止していた。その後も当初は、船団を組んでいない独航船への攻撃は認めなかった(Isby[2005;p.190])。

 バルト海の水運をコントロールするため、日本で言う特設艦艇が何隻か臨検船として張り付き、イギリス向けの物資が通らないようコントロールしていた。海軍所属の航空機もこれに協力し、上空から信号で臨検船へ誘導したり、飛行艇が横付けして臨検を行ったりした(Isby[2005;pp.191-193])。

 まだLdLuftが存在した1940年7月末、Kuestenfliegergruppe 606 (第606水上飛行隊)がブレストから東北東に100kmほどのLannionに展開した。水上飛行隊といっても機材はDo17Z双発爆撃機だった。アイリッシュ海(アイルランドとブリテン島の間に横たわる海域)を行動半径に収める最初の水上攻撃飛行隊だったが、すでに述べたようにバトル・オブ・ブリテンに駆り出されるうちに通商破壊任務からは遠ざかって行った。1942年になるとこの部隊はJu88に改編されてシシリー島に展開し、その後KG77と改称された。

 1941年1〜3月をピークとしてドイツ空軍機の艦船攻撃は減り、夜間攻撃の比率が増したNeitzel[1995;p.69])。Neitzelはこれをもっぱらイギリスの対抗措置(護衛機、対空砲)のせいにしているが、猟犬側にも事情があったのではないかと思う。1941年3月まで、フランスに駐留する爆撃航空団が一時的にアイリッシュ海に出動している(Neitzel[1995;pp.67-68])。これらは当然、1941年6月が近づくにつれ、別の場所で別の仕事が山ほどできたはずである。

 航空機による船舶被害が頂点に達したとされるこの時期、アイリッシュ海にまだドイツの大型機が往来しており、戦果の相当部分がこの海域で出ていたことは注意すべきであろう。つまりアイルランドの西側でFw200があげた戦果ばかりではない、ということである。

 KG40のもとになったのは長距離偵察隊(Fernaufklaerungsstaffel)だと書いているWebもあるが、開戦直後2か月のFw200部隊についてははっきりしない。1939年11月、1./KG40が発足した。ローマ数字でなくアラビア数字だから飛行中隊である。飛行隊司令部も航空団司令部もこの時はまだない。そのあと少しずつ飛行中隊や本部ができて、1940年7月にようやく1個飛行隊だけを持つ爆撃航空団KG40の編成が完結する。このころ、I/KG40はほぼFw200の部隊である。

 大西洋航空指揮官の発足に先立つ1941年1月、II/KG40の編成が始まり、1941年5月に編成が完結した。主にDo217を装備する。次いでI/KG1がIII/KG40として引き抜かれ、従来のHe111のまま1941年3月から加わった。

1941年3月以後の大西洋

大西洋航空指揮官のふたり

 大西洋航空指揮官(Fliegerfuhrer Atlantik)は、代理が置かれた時期もあるが、以下のふたりだった。

 どちらのキャリアも非常に興味深いので、少し詳しく見ておくことにする。

 ハルリングハウゼンは1902年生まれ。どうやら第一次大戦では徴兵もされなかったし志願もしなかった。戦後になって海軍に入り、1933年に秘密空軍へ転属になった。スペイン内乱ではマヨルカ島でレギオン・コンドルのAS88(He59とHe60から成る水上偵察機部隊)を指揮した。その後空軍大学校で参謀教育を受け、第2航空艦隊作戦主任参謀となった。

 大戦が始まると第X航空軍団参謀長となり、ノルウェー戦に参加した。そして本部班所属の機体で次々と成果を挙げた。1940年5月4日、20隻あわせて10万トン以上の撃沈を評価されて騎士十字章を受賞。1941年1月には第X航空軍団とともに地中海に転じ、まだ正式に発足していないFliegerfuehrer nach Afrikaの代行を拝命した。そして部隊が発足もしないうちに(ここではThe Luftwaffe, 1933-1945の記述に従うが他のサイトでは少し日付が違っている)スコアを26隻、127000トンに伸ばし、1941年1月30日付で騎士十字章に柏葉を加えた。KG26司令のFuchs大佐(のち少将)が4月に受賞しているので、自ら出撃する立場としてドイツ初とLexikon der Wehrmachtが評しているのはほめすぎかもしれないが、頭も切れるし腕も立つエース・オブ・エースであった。

 大西洋航空指揮官となってからも、自分で出撃することがあり、事故に巻き込まれて3ヶ月を病院で過ごしたこともあった。ハルリングハウゼンはKG26の司令に補され、KG26をまるごと雷撃部隊に改編する事業に着手した。

 北アフリカ情勢が逼迫し、ハルリングハウゼンは1943年2月に第II航空軍団司令として、育て上げたKG26を含む地中海の空軍部隊を指揮した。このときハルリングハウゼンは上層部と激しく衝突した。上層部が具体的に誰で対立点がどこだったのかはどこにも書かれていない。せっかく雷撃部隊になったKG26を地上支援に使いたくなかったのかもしれない。ともあれ、これでハルリングハウゼンは解任されてしまい、しばらく退役状態だった。1944年初頭からイタリアで閑職についていたようだが、英訳された役職名が何を指すのかさっぱりわからない。Personnel-Saving-Commissionerだから、航空救難責任者(つまり飛行艇部隊指揮官)を指すのかもしれない。

1944年9月、ウィースバーデン(ドイツ西部国境のヘッセン州)の第XIV航空管区司令となり、中将に昇進。終戦直前の4月27日にLuftwaffenkommando Westを率いている。おそらく4月23日にゲーリングが失脚したことの影響で、誰が見てもゲーリングの腰ぎんちゃくであったヨーゼフ"ベッポ"シュミット中将が職を解かれたのであろう。この司令部は元をただせばフランスから逃げてきた第3航空艦隊司令部で、南西ドイツ全体の航空部隊・航空管区・対空砲部隊を指揮していた。

ドイツ語版Wikipediaによると戦後は木材の販売管理をやっていたが、NATO加盟後のドイツ空軍に1957年〜1961年に在籍した。

 さて、ウルリヒ・ケスラーである。検索するとこんなページも引っかかる

 比較的最近出版されたU-234についての書物にケスラーへのインタビューが載っているが、戦争に反対したので自分は空軍参謀総長になれなかったとか、ヒトラー暗殺計画に関与したので仲間が自分を日本に逃がしてくれたのだとか、なかなか物凄いことが書いてある。

 第一次大戦中は海軍軍人だった。1年以上飛行艇の艇長をつとめ、その後は陸に上がって海軍省勤務の中尉として終戦を迎えている。少尉になったのが1914年(22才)で、大尉が1926年。少佐が1933年。空軍に移ってさっそくついたのが空軍兵器学校長。1935年になって陸軍大学校で参謀教育を受け、大戦が始まるときは大佐でKG1の司令をやっていた。ノルウェーではハルリングハウゼンの後任をしばらく務めたが、すぐに教育関係のポストに呼び戻された。

 どうも微妙である。Isby[2005]にはケスラーの原稿も収められていて、ノルウェー侵攻時の海空協力について書いているのだが、明快な文章である。頭はいいのである。

 大西洋航空指揮官当時のケスラーをほめたりけなしたりした文章は見たことがない。実際の作戦は第IX航空軍団がやるのだから、棚上げしようと思えばできる。で、棚上げされたのではないか。いま順番を待っている資料で、このあたりの疑問は解決するかもしれない。

 1943年3月、大西洋航空指揮官は廃止される。隷下部隊の移転先を調べたら、ほとんど移転していない。航空軍団直率になっただけで、ノルマンディー上陸までもとのところにいる。要するにケスラーが外されたのである。外されてどこに行ったかと言うと、東京派遣武官代表と言う、当面まったく空文な肩書きである。これは東京大使館駐在武官という、1945年1月に付け加わる肩書きとは別である。そして4月にドイツ黄金十字章と騎士十字章が贈られる。外交官への箔付けであろう。

 WikipediaのJu290の項を見ると、そのころから連絡飛行の準備が始まっているから、送るつもりはあったのであろう。このころドイツを出発した日独の潜水艦は多数あったが、Ju290を使うつもりだったから便乗しなかったのだろう。もちろん3月に始まっているのだから、ヒトラー暗殺計画の後難を避けて日本に行くと言うのはナンセンスである。

 これが実現しなかった事情は、吉村昭「深海の使者」を読むと分かる。1943年にクリミアから中国北部に飛来し、帰って行ったイタリアのSM82は、日本の意向を無視してイタリアの政治宣伝に使われ、領空侵犯はソビエトにはっきりバレてしまった。日本はそうしたことを恐れたと考えられる。

 そしてU234で日本に行く以外の選択肢がなくなり、途中で終戦となって降伏したのであった。
Uボートと航空機の協力

 Isby[2005]の第11章は、アメリカ海軍が捕虜尋問などから得た情報を戦後になってまとめたものであり、情報提供者の名前や尋問日時は多くの場合伏せられている。それによると、1942年2月にはデーニッツは「navy pilot」が操る5機のフォッケウルフ哨戒機を自由に利用できた(p.253)。捕虜がどういうつもりでこの数字を言ったのかわからないが、1941年3月に大西洋航空指揮官が発足した時、I./KG40は21機のFw200を持ち、稼働機はそのうち6機だったから、まるっきりでたらめな数字ではない。「ドイツ空軍の栄光と挫折、そして新たな妥協」の項で述べたように、1941年1月から3月まで空軍と海軍が水上作戦用航空部隊を巡って綱引きを展開するが、1941年1月6日の総統指令で与えられた指揮権をたてに、デーニッツはI./KG40に対し、護衛船団を見たら位置情報を報告するように命令した(Neitzel[2005]、p.86および注481)。これ以前の協力は自然発生的なものだったことになる。


 無線で船団の位置を知らせる航空機をFuehlungshaltersと呼んだ(Isby[2005]、p.252)。1941年12月に狼群に参加して撃沈されたU-574は、触接を失うたびにFuehlungshaltersからの定時位置連絡をロリアンのデーニッツから中継してもらい、船団に追いつくことに成功していた(p.253)。

 1944年2月の捕虜情報によると、哨戒機はその日の発信周波数を海軍に伝え、Uボート部隊司令官(デーニッツはこの肩書を手放さなかったので、海軍軍令部が実質的にこの仕事をしていたであろう)は触接した哨戒機の周波数をUボートに知らせた(pp.254-255)。洋上で4時間燃え続けるフレアも使われたが、海軍司令部は[航空機が危険にさらされても、というニュアンスであろう。また、哨戒機から口頭で報告される位置情報が不正確なことも問題になった]船団近くで無線を発信し続けることを望んだ(p.256)。戦闘時に航空機と潜水艦がVHF通信できる設備も一部の艦に備えられたが、使われることはまれだった。

 地中海では空軍の船団目撃情報はまず「ローマの空軍司令部」に行き、そこからデーニッツに伝えられた。この情報は海軍の目から見ると不正確であったので結局無視された。

 なお第2航空艦隊と南方軍は当初は二枚看板であり、陸軍部隊はケッセルリンク元帥の指揮下になかった。ケッセルリンクについての英語版Wikipediaは「1943年1月に」ふたつの司令部が分離したと書いているが、判断根拠が書かれていない。ふたつの司令部参謀長は1943年6月まで同一人物(ザイデマン大佐、次いでダイヒマン少将)であり、そのあとそれぞれ別人となるのである。この時期までケッセルリンクの陸軍部隊への指揮権は多少曖昧であり、詳細にわたる指揮のための専門的な陸軍スタッフを持たないと言っていいだろう。1943年6月の改組は明らかに1943年5月にアフリカ戦車軍が失われ、地中海の陸軍上級司令部がなくなったことに対する措置である。イタリアが脱落した1944年11月にC軍集団司令部が再建され、ケッセルリンク元帥が兼任司令官に、南方軍参謀長のヴェストファル少将がそのまま参謀長について、南方軍の陸軍パートが完成した。もっともこのとき同時に、南方軍は南西総軍(Oberbefehlshaber Suedwest )と改称している。

 Isby[2005]の第13章はドイツ空軍参謀本部が大西洋航空指揮官が廃止された1944年3月に作成した総括文書である。1941年3月の発足当初、Fw200の攻撃は効果的だったが、連合軍側が航空戦力や対空砲を充実させてきたため損害が激増した。また同様の理由でUボートの損害も多かったので、UボートはFw200の航続力が届かない大西洋の西側で作戦するようになった。つまりデーニッツの大西洋航空指揮官への区処/要求が認められた1941年3月をひとつの目途として、Fw200とUボートがダイナミックに協力する状況は1941年にのみ存在した、といってもよい。

1942年3月、デーニッツは空軍に対し、ビスケー湾から対潜攻撃機を駆逐するよう要請した。大西洋航空指揮官はしばらくの間、この任務に成功した。

1943年春以降、III/KG40は爆撃照準器Lofte 7D(ロトフェルンロール7)を装備したFw200C-3/U2を使って、再び戦果を上げるようになった。船津氏のサイトによると、Fw200のうちC-3/U2とC-4、C-6がこれを装備している。

航空機の航続距離

 Isby[2005]の第12章は1943年12月に大西洋航空指揮官が作成した文書の英訳である。多くは大西洋航空指揮官の任務について一般的に述べているが、哨戒機の航続距離について触れている。

 Fw200は標準状態で1500km、増槽をせいいっぱい装着すると2200kmの行動半径を持っていた。He177は1500km、Bv222は2400km(ディーゼルエンジン搭載のV-10、V-11は2700km)、制空任務に就くJu88H-2やG-1は1600km〜1800kmと推定される(限界を試すような任務ではないからであろう)。Ju290については「十分だ」というだけで明確な記述がない。Isby[2005]第1章のアメリカ海軍文書では、1944年6月に海軍参謀本部が出した文書を引用してこう述べる。Ju290の行動半径1800km〜2000kmは、潜水艦との共同作戦には不十分であり、He177Aがこの距離を飛ぶためには前後の20mm4連装機銃を各1門の単装まで落とす必要がある(pp.76-78)。
大西洋航空指揮官の諸部隊と初期の大西洋作戦

 I/KG40は当初航空機雷敷設に従事していたが、損害が出たためボルドー・メリニャックに移動し、海上哨戒にあたるようになった。KG40はFdLuftの指揮下になかったため、FdLuftのDo26飛行艇などとの連絡は円滑でなかった(Neitzel[2005],p.76)。また、アイルランド北西のエリアはノルウェーの第5航空艦隊とが担当するはずだったが、Fliegerfuhrer NordにはFw200がないので飛行艇を哨戒に配するか、確保できない時期には哨戒をあきらめるかしかなかった。そしてFw200はもっぱら哨戒よりも艦船攻撃を第一義に作戦した。

1940年11月にはI/KG40は7機のFw200しか持っておらず、同時稼働機は2機を超えることがなく、1日の出撃は延べ3機が限界だった(Neitzel[2005],p.79)。

 1941年5月には(Neitzelは1940年5月とするが、ウルトラ情報に関する他の資料も考え合わせると誤植であろう)イギリスはドイツ空軍のエニグマ暗号を解読し、ボルドーからの哨戒機(Fw200)がスコットランド西まで北上し、もときた航路を折り返していることを突き止めていた。ブレニム夜間戦闘機、1940年12月以降はCAMシップ、のカタパルト発進戦闘機が脅威に加わった。ただしCAMシップ搭載機の初撃墜戦果は1941年8月であったといわれるように、直ちにバランスがドイツ軍不利に大きく傾いたわけではない。護衛空母の嚆矢とされるオーダシティは1941年9月に初出撃している。

1941年3月31日現在、大西洋航空指揮官は次のような陣容だった(Neitzel[2005],p.85)。1940年11月と比べてFw200が増強されているのがわかる。

部隊機種配備/稼働
本部He-1111/1
I./KG40Fw20021/6
I/KG1(のちIII/KG40となる)He11126/12
K.F.Gr.606
(第606水上飛行隊)
Ju88不明
その他の旧FdLuft所属部隊He115
Ar196
27/16
20/17
3(F)/Aufkl.Gr.123
(第123偵察飛行隊第3中隊(長距離))
Ju88
Me110
6/3
6/3

 1941年4月末、オスロ近郊のGardermoenにあった陸軍用地を使って建設していた飛行場がようやく完成し、Fw200が着陸できるようになった。この飛行場は現在もオスロ国際空港として利用されている。より海岸寄りのスタヴァンゲルに建設中の飛行場は、この時点ではまだ使えなかった。I./KG40の一部がノルウェーに移り、ノルウェーからアイルランドの西を回ってボルドーに至るコースが利用可能になった。「なにわの総統一代記」ではどっちからどっちへ飛んでいたのか分からず、逆コースをたどらせてしまった。やれやれ。

 ちなみにこのコース、Fw200より少し内回りのコース(3135km)ではあるが、He111 H-5が完走している。

 ちょうど1941年6月、イギリス海軍は北米航路の全区間にわたる護衛をようやく実施することができるようになり、警戒が厳重になった。ドイツは艦船攻撃を南方に移し、イギリス-ジブラルタル航路やイギリス-ケープタウン航路に攻撃の重点を移したので、せっかくのアイルランド西哨戒ルートは6月下旬以降放棄された。

 空軍が水上作戦全体を掌握する姿勢を示した1941年初めから、航空魚雷を装備する部隊が増加し始めた。1941年6月28日現在、ドイツ空軍全体でHe111とHe115あわせて51機が魚雷を搭載可能であり、うち21機が出動可能状態にあった(Neitzel[2005],p.128)。いずれも飛行中隊レベルで、航空団を丸ごと魚雷装備とすることはこの時点では考えられていなかったが、ゆくゆくはII./KG26を(地中海の)第X航空軍団、III./KG40を(同じくフランスの)大西洋航空指揮官、I./KG28を(ノルウェーの)第5航空艦隊のもとで魚雷攻撃飛行隊とする計画だった。

 しかし7./KG40はNeitzelによると1941年8月末から、Holmのサイトによると12月から、He111をJG26に渡し、Fw200部隊に再編された。おそらくこれは上で述べたように、イギリスの対空防御が整ってきて主戦場が遠くなり、雷装He111では航続距離不足が目立ったためだろう。

 そして1941年11月にイギリス空軍が雷撃機によるタラント空襲に成功すると、1942年1月、ゲーリングはハルリングハウゼンの大西洋航空指揮官職を免じてKG26司令兼空軍航空魚雷総監(Lufttorpedoinspizienten)に任じ、従来の計画を超えてKG26全体を雷撃部隊とすることを推進した。といってもI./KG26は1942年11月にイタリアへ呼び寄せられるまではずっとノルウェーにいたし、III./KG26は1942年前半には上記の雷撃部隊I./KG28であり、それがI./KG1を再建するために去ってからは雷撃型Ju88 A-4LTを持っていたKue.Fl.Gr. 506(第506水上飛行隊)がIII./KG26となったので、既存の雷撃部隊がJG26に集められたにすぎない。そしてそれは、ドイツ空軍がフランスからの航空攻撃に見切りをつけた時期でもあっただろう。

 結局この部隊は、特にノルウェーではソビエト援助のPQ船団攻撃に多用されたものの、北アフリカの連合軍を食い止めるために一般の爆撃機部隊として投入された。手塩にかけた部隊のすべての訓練が無駄になったハルリングハウゼンと、何もできないことを承知の職につけられたケスラー。どちらが不幸であったろうか。

 さて先に述べたように、III/KG40は1941年12月から順次Fw200部隊に改編された。これを待って、1942年3月にI/KG40はノルウェーのトロンヘイムに移り、Fliegerfuehrer Nord (West)のもとで海上作戦に従事するのだが、このころには主な獲物はムルマンスク輸送船団となっていたはずである。

 Bv 222C(ディーゼルエンジンの大型飛行艇)を南大西洋に常駐させ、Uボートで給油を行う構想があったが、Bv222 V-2とV-4がビスケー湾で空襲を受けたことから頓挫した。それでも大西洋航空指揮官はV-2、V-4、V-7、C-09と4機のBv222を受け取った。

 1943年6月、スペイン国境に近いフランス南西部のMont de Marsanに発足したFernaufklarungsgruppe 5(第5長距離偵察飛行隊)はJu290を主な機材としていたが、多い時でも5〜6機ほどしか配属機はなかった。1944年3月に大西洋航空指揮官が廃止されるまでの最後の日々、イギリス近海への哨戒はもっぱらこの部隊と、レンヌに陣取った3(F)/Aufkl.Gr.123が受け持っていたようである。装備機種はJu88A/C/Dが多いが、1944年3月、3(F)/Aufkl.Gr.123はJu88H-1を4機配備された。Ju88H-2の配備も予定されていたが、おそらく実現しなかったのではないか。

イギリス沿岸航空軍団 1944-45


 この節では、Bird[2003]を中心に、特にノルウェー沿岸におけるイギリス空軍のドイツ商船攻撃について述べる。

 このテーマについてのアウトラインは、英語版WikipediaのRAF Coastal Command during World War IIを読めば十分であろう。関係する箇所を簡単にまとめておく。

 RAF Coastal Command(沿岸航空軍団)はドイツ船舶の対空砲を軽視しており、極初期の対船舶作戦は大きな被害だけを残して終わった。

 Vorpostenboot(哨戒艇)という言葉は第一次大戦以前から使われている。もともとそれは哨戒艇を意味したし、今日においてもそうである。ただ第二次大戦期のVorpostenbootは、特別な別名を持っていた。Flakship(防空艇)である。1/100スケールでスクラップビルドされた模型を見ると武装の構成例がよくわかる。この例にあるV1102は排水量1290トンであったというから、速力や防御はともかく、日本の感覚で言えば相当な大きさの船を防空任務に当てていたことが分かる。また、この規模でやっと88ミリ砲(それも砲身が短めのクルップ製海軍砲のようだ)を1門積めるというのもわかる。Bird[2003;p.11]によると、典型的なノルウェー方面のVorpostenbootは500トン程度だった。だからもうすこし武装は限られていたと思われる。

 沿岸航空軍団はとりあえずUボート対策に忙しかったし、対艦攻撃に適した機材と部隊は地中海でロンメルの補給品を巡って戦っていたから、1941年まで戦果はわずかであり、1942年2月のチャンネルダッシュ(ツェルベルス作戦)で沿岸航空軍団が存在感を示せなかった遠因もそこにあった。RAF Bomber Command(爆撃機軍団)には対船舶攻撃専門のブレニム爆撃機部隊がいたが戦果は乏しく、ボーフォート雷撃機は航続距離に難があった。なおBird[2003]によると、ハドソン爆撃機やハンブデン爆撃機も船舶攻撃に投じられたがあまり戦果はなかった。

 1942年に登場したボーファイター戦闘機は高いレベルでバランスした機体であり、初期にはパイロットの練度不足によって大きな損害を出したが、1943年には練度向上とモスキート戦闘爆撃機の加入で戦果が上がるようになった。

 モスキートの加入はビスケー湾の航空優勢を決定的に連合軍に傾け、Fw200爆撃機とUボートの両方を封じ込めることになった。

 さて、ここからがBird[2003]の本題である。ボーファイターとモスキートを装備するいくつかのスコードロンが、フランス戦線の安定化した1944年8月を限りにビスケー湾方面を離れ、スコットランド北部のパンフ空軍基地に終結した。1944年9月にスウェーデンはドイツ向け民間航路を閉ざし、フィンランドはソビエトと停戦した。いまやノルウェーにいる20万人のドイツ兵は海路を補給路とも退却路とも頼らねばならず、連合軍にとってこの航路を閉ざす意義は大きくなっていた。

 パンフ空軍基地の配備・出撃記録を掲げたWebページがある。 この基地は1943年から訓練用に使われていたが、訓練部隊はここを引き払い、次のような部隊が集結した。
  • 沿岸航空軍団 第18グループ司令部 Sir Max Aitken中佐
  • Sqqadron No.144 (イギリス空軍、ボーファイター)
  • Squadron No..404 (カナダ空軍、ボーファイター)
  • Squadron No..235(イギリス空軍、モスキート)
  • Squadron No..248(イギリス空軍、モスキート)
  • Squadron No..333の一部(ノルウェーから脱出したパイロット、モスキート)
    • Squadron No..333はカタリナ飛行艇とモスキートを装備しており、モスキートを装備する"P" flight(P小隊)だけがPathfinder(案内役)として加わった。

 各スコードロンの定数は不明だが、ボーファイター、モスキートともに1944年9月の1日に出撃した最大機数はボーファイター28機、モスキート23機である。ここからみて、おそらく各スコードロンは12〜14機程度を保有していたと思われる。

 当初は出撃するだけで一苦労だった。タイヤの破裂、カモメの衝突、燃料消費異常(燃料漏れか?)などが最初の敵だった。9月14日、ボーファイター25機とモスキート13機がノルウェー海岸近くにRover(イギリス空軍では一般に戦線後方に獲物を求めての哨戒を指すが、沿岸航空軍団では輸送船団目当ての哨戒を指す。Bird[2003;p.39]によると、夜間に行われるものはMoon Roverと呼ばれた)のため出撃し、ふたつの小船団が互いに近い位置で航行しているのを発見した。特設駆潜艇UJ1104、特設哨戒艇Vp1608、同Vp1610、そして計5隻の輸送船だった。Vp1608(264BRTのトロール漁船を改装したもの)を撃沈し、商船2隻を大破させたがいずれも沈没に至らず、ボーファイター1機が失われた。

 この戦闘で連合軍からRAG(raketen geschossという一般名称なので、なにか固有名があるに違いない)と呼ばれた対空ロケットが哨戒艇から発射された。これはパラシュートで降下するおもりを両端としてワイヤーで結んだもので、閉塞気球の要領である。オンラインのソースではこちらにRAGへの簡単な言及がある。

 9月18日の出撃は、イギリス沿岸のHF/DF(Uボートの短波通信をとらえて位置を突き止めるレーダーで、ドイツ軍は終戦までこれに気付かなかった)からの通報によるもので、Uボートの存在がわかっていたから、3機のモスキートは機雷を装備していた。直撃はできなかったがバッテリーが機雷の影響で動かなくなり、Uボートは浮上した。そののち別の部隊がB-24で飛来してさらに機雷攻撃したため、艦は放棄された。

 このころの戦闘記録にはドイツ機が登場しない。沿岸の船団を攻撃するため、地上の対空砲台から攻撃が届いてしまうことはままあった。

 1944年10月になると、スコットランド北端のダラシー空軍基地が第18グループの管理下に入り、ダラシーにはDallachy Strike Wingが置かれボーファイター部隊が集められた。同機を装備する144(イギリス)、404(カナダ)、445(オーストラリア)、489(ニュージーランド)の4個スコードロンに加え、No.524スコードロンが加わった。No.524スコードロンはもともとマーチン・マリナー飛行艇をテストする部隊だったが、その後ASVレーダーを搭載した艦船攻撃型ウェリントン爆撃機を装備するようになった。この移動はバンフ基地の面々にとっては寝耳に水であり、第18グループ司令部に対して状況の許す限りでの反対が上申されたが容れられなかった。

 10月初旬に、ベルゲンに近いHerdla島の空軍基地にMe110Gを装備する12./ZG26が進出してきたので、周辺へ哨戒を行うよう命令があった。Bird[2003]にはJG26となっているが、Lexikon der Wehrmachtと照合すると12./ZG26の間違いである。この部隊はもともと1943年からクリミア半島にいたクリミア沿岸航空隊を改称してZG26に編合したもので、クリミアにいた時から最大でも4機のMe110(時期によりHe111)を持っていたにすぎなかった。

 10月24日、4機のMe110Gが連合軍機と遭遇したが、複数の小グループがこの空域に降り、そのひとつが有利な位置でMe110Gを発見し、隊長機を含む3機を撃墜した。上記のように、これでHerdlaの戦闘機部隊はほぼ全滅であったと思われる。

 バンフ基地の部隊はBanff Strike Wingと呼ばれるようになったが、ボーファイター部隊が移動した後にNo.143スコードロンがやってきた。この隊はボーファイターからモスキートに機種転換を進めつつさっそく戦闘に参加した。また、ヴィッカース・ウォーウィック輸送機を持つNo.281スコードロンが配属されて、パラシュートで投下する救命ボートを使った海難救助の任に就いた。

 モスキートの一部は57ミリ砲を機種に装備し、後に登場したロケット弾とのコンビネーションで発射速度の遅さや射撃時の無防備さを補った。時にはもっぱらanti-flak missionにあたる部隊がロケット弾を装備して先発することもあった。ボーファイターの一部は雷装し、後にはさらに翼下ロケット弾を加えて攻撃に加わった。このTorbeau(Mk.XIC)については英語版Wikipediaが詳しい

 11月12日、戦艦ティルピッツを大破着底させた攻撃は爆撃機軍団によるものだったが、爆撃を果たしたランカスター爆撃機の一部はダラシーやパンフに着陸し、しかも連絡に不手際があった。管制官は何の準備もなく「上空をランカスターが旋回している」という報告を受ける始末だった。しかもバンフに降りた1機は故障によりトールボーイ(5トン爆弾)をつけたまま降りてきた。さいわい破裂しなかったが、爆弾処理が済むまで、基地は2日間立ち入り禁止になった。

 同じ11月12日、連合軍の巡洋艦隊がノルウェー沖に進出して輸送船団に出くわし、沿岸航空軍団も加わって一方的な戦闘が起こった。ノルウェー上陸の予兆ともとれるこの攻撃に、ドイツ空軍はなけなしの増援を投入した。3機のMe110(G12./ZG26)が哨戒任務についていたB24リベレーターを攻撃し、同機は機上で死者が出たものの不時着に成功した。12月5日以降、JG5の一部が南ノルウェーに移り、Me109やFw190と接触する危険が生じた。12月7日、大規模な出動をかけた沿岸航空軍団とムスタング戦闘機の護衛にJG5が襲いかかり、沿岸航空軍団のボーファイター・モスキート合計3機を撃墜し、4機を失った。この後もIII/JG5は時折まとまった機数を投入して沿岸航空軍団に出血を強いた。Luftwaffe 1933-45の基地移動記録と必ずしも一致しないが、1944年12月から1945年1月にかけて、III/JG5の主力はノルウェー中部のゴッサ島(ゴッセン)にいたようである。1月8日にベルゲンが空襲されても、航空機による反撃はなかった。しかし損害はその後も増え、ムスタング装備のNo.65スコードロンが専属の護衛機部隊として加わった。

 2月9日、駆逐艦Z-33への攻撃はモスキート9機の喪失をもたらし、以後この種の強力に防御された艦船への攻撃は沿岸航空軍団に回って来なくなった。ロケット弾があるとはいえ、彼らの攻撃は銃撃と砲撃が中心であり、低空での接近を要する。対空砲で特に大きな損害を受けたのも当然であろう。

血塗られたビスケー湾(V/KG40)


 この読み物を書き始めてずいぶん経ってしまった。ここではGoss[1997]を中心として、ビスケー湾における航空戦の経過について述べる。大西洋に向けたUボートの出港・帰港ルートであるフランスのビスケー湾は、1941年以降の英独空軍による激しい角逐の地となった。もちろんそれは、最終的にイギリスの勝利で終わったのである。

 1940年2月、Ju88Cを装備した最初の部隊はZ/KG30であった。爆撃航空団に双発戦闘機中隊が付属したわけである。ノルウェー戦開始時における慣熟度は十分でなかったが、最初は輸送船団の護衛を念頭に置き、次いで戦局が進むとナルヴィクを爆撃するKG30所属機の護衛として、Ju88Cは初陣に臨んだ。

 こうして生まれた時から海上戦闘に携わったJu88Cであったが、1940年6月になるとZ/KG30は4./NJG1に改編され、イギリス爆撃機を敵手とする夜間戦闘に身を投じて行く。そして大西洋航空指揮官の指揮下に多くのJu88が置かれたが、それらは偵察機型か爆撃機型だった。

 すでに「イギリス沿岸航空軍団 1944-45」で触れたように、1942年に登場したボーファイターは、それまでUボート攻撃を担当していたサンダーランド飛行艇やホイットレー爆撃機とは違って、Ar196水上偵察機には近づくことすらできない存在だった。1942年7月、IV/KG40が編成され、当時の戦闘機型であるJu88C-6の配備が始まった。さらに8月、部隊番号が振り直されてV/KG40となった。

 IV./KG40はその後もV./KG40のための訓練部隊として存在し続けた。

 夜間戦闘機乗りや爆撃機乗りを中心として、まずV./KG40に2個中隊のJu88が配備され、III./JG2に属する1個中隊(8./JG2)のFw190とともにビスケー湾の制空戦闘に乗り出した。特定艦の護衛のほか、ファイタースウィープ(当然ドイツ側ではフライヤクトと呼んでいただろう)も行われた。ボーファイターも含め、イギリス機の損害は年末にかけ増加して行ったが、ドイツ側もただでは済まなかった。3つ目の飛行中隊ができてV/KG40の編成が完結すると、11月に最初の飛行隊長が着任したが、年末までにふたりの飛行隊長が戦死した。ビスケー湾は広く、いったん撃墜されると救難機に見つけてもらうのが難しかった。臨時代行を含めて4人目の飛行隊長は「めったに出撃しない」という単純な方法でこの問題を解決し、1943年9月の部隊再編でV./KG40が消滅するまで生き延びたが、大尉としては熟練度不足でもあり、パイロットたちの間で飛行隊長の評判は良くなかった(Goss[1997]、p.22およびp.39)。

 1942年10月以降、対潜哨戒にあたるB-24、Fw190との空戦機会を求めて哨戒するP-38など、アメリカ空軍もビスケー湾に飛来するようになった。2人目の飛行隊長を葬ったのは、アメリカ空軍第68観測群に属し対潜哨戒に当たっていたP-39であったと思われる。イギリスから双発爆撃機の響導を受けて北アフリカに向かうアメリカ戦闘機との遭遇も起きた。

 The Luftwaffe 1933-45によると、1942年12月末にV./KG40は35機のJu88C-6を保有しており、8月から12月までに18機を「戦闘で」失った。この場合の喪失は、帰りついたが修理できなかったもの、戦闘で損傷後長期修理に入ったものを含んでいると思われる。

 ヨーロッパへの上陸作戦を含むウォーゲームをプレイしたことのある読者は、冬季の英仏海峡が悪天候で航空作戦に適さないことをご存じであろう。V./KG40は天候の許す限り飛んだが、12月から2月までの航空戦は投入された部隊規模からすると低調であった。それに先立つ時期から、8./JG2のFw190はボーファイター部隊に大きな損害を与えたので、ボーファイターはフランス沿岸への接近を避けるようになった。

 1943年5月になると、天候の回復とともにドイツ空軍の出撃回数が急増した。特定のUボートを護衛する任務が何よりも増加した。ウルトラ情報の利用、HF/DFの探知、護衛空母配備といった連合軍側の努力が(経験ある艦長はどうにもならないとして)Uボート配備数の増加とぶつかり、大西洋の戦いがクライマックスを画した時期であった。とはいえ、1943年1月〜6月のV/KG40は20機を戦闘で失ったにすぎず、5月末の保有機数は逆に45機まで増えていた。最大でも月間喪失数は5機であり、1942年12月の6機に届かなかった。

 イギリス空軍は色違いの曵光弾を使って、合言葉のように敵味方識別をしていた。「その日の」色がついた弾を撃たれたら、自分も撃って見せないとドイツ機とみなされた。

 1943年6月、Uボートは数隻で隊伍を組んでビスケー湾を横切り、対空火器を使って反撃するようになった。Ar196部隊であった5./BFGr196(第196艦上航空団、Bordfliegergruppe 196は中隊単位またはそれ以下の単位で各地に分遣される現状で、第5中隊がブレストにいた)は、4機のFw190を自衛用にあてがわれ、Ar196のパイロットたちがFw190を操った。これらは8./JG2と行動を共にし、事実上の増援となった。この中隊はどうしようもなくバラバラになったBFGr196から独立して、1./Seeaufklaerungsgruppe 128となった。もっとも第2中隊はドイツのウィルヘルムスハーフェンにいて、2個中隊がSAGr128のすべてだった。この1./SAGr128は10月にJu88C部隊に改編され8./ZG1となる。

 このころになるとV/KG40は少なくとも4機で行動するようになっていた。1943年6月1日、8機のJu88が一斉に出撃し、リスボンからイギリスに向かうDC-3旅客機を見つけた。これまでもドイツ機がこの便に損傷を与えることはあったが、撃墜にまでは至らなかった。先任機はDC-3が民間機であると気付き射撃中止を指示したが、すでに命中弾が出ており、DC-3の撃墜を確認して引き上げるしかなかった。乗客にレスリー・ハワードがいた。先任機長のヒンツェ中尉は、空中勤務者たちは「重要人物がDC-3に乗っていた」ことを後で聞かされ、先に言っておけと怒りを示したと回想している。この便にチャーチルが乗っているという噂があり、おそらくポルトガルにいるドイツのスパイにも聞こえていたことは、出撃前にも後にも空中勤務者たちには知らされなかったようである。

 1943年7月になるとアメリカ空軍のB-24(対潜哨戒)部隊が再びこの海域に配属され、間もなくアメリカ海軍所属の同種部隊がこれを引き継いだ。1943年7月、V./KG40は11機の損害を出した。ドイツ海軍はUボートによる対空迎撃をあきらめ、潜航してビスケー湾を横切るしかなくなった。

 1943年10月、双発戦闘機には危険になり過ぎたイタリアからZG1司令部がやってきた。飛行隊単位であっちこっちに分散するのがドイツ空軍の常だが、ハノーバー周辺でドイツ本土防空にあたっていたI./ZG1を同地近くに司令部があったZG26に渡し、V./KG40を新しいI./ZG1として受け入れる改編があった。同様に不成功作Me210/410の部隊であったIII./ZG1もZG26に厄介払いされ、KG40の小部隊や1./SAGr128を集めて新たなJu88C部隊III./ZG1がつくられた。

 我々は今日、1943年半ばが大西洋の戦いの分水嶺であったことを知っている。だがそれは主力艦隊が撃滅されたミッドウェイのようなものではない。1943年後半、Uボート部隊が戦果に見合わない一方的損害を受け、二度と1943年半ばの存在感を回復できなかったということなのである。空においてもそうであった。例えばI./ZG1の戦闘による月間喪失機数は12月に7機を数えたが、その後は1944年6月に8機を数えるまで、多くても5機である。装備機数も1944年3月末にまだ48機を数えている。海で起こっていることを想像させるのは、その構成である。偵察機型Ju88Rの構成比率が徐々に上がり、1944年以降は15機前後を保有するようになっている。もっともそのひとつの理由は、連合軍上陸の兆候をつかみたいと言う上層部の望みであったのだが(Goss[1997]、p.169)。

 The Luftwaffe 1933-45によると、8./JG2は1943年9月、I./JG2とII./JG2がそれぞれ4個中隊編成となったので番号が変わり、12./JG2となった。連合軍が陸から迫ってくるまで、この飛行中隊はガエル(Gael)に駐屯していた。残念ながら中隊だけの数字がないのだが、ボーモン=ル=ロジェ(パリ北西)(位置)に本拠を置いたIII./JG2の損耗の様子を見ておこう。

 1943年7月末、III./JG2は42機のFw190を持っていた。7月の戦闘による損失はゼロである。ところが8月にいきなり8機を戦闘で損失し、長期修理入りの機体もあって月末機体数が25機にまで減ってしまった。ドイツ空軍は9月から12月に、この部隊に実に61機のFw190を新規配備する。だが落とされるスピードも負けず劣らず、1943年12月末の保有機体数は33機となっている。8月から12月までの、戦闘による損失だけで33機にのぼっている。

 ZG1も事情は同じで、経験ある士官たちが次々に戦死していた。伊二九潜のロリアン入港は多くの空戦を引き起こしたが、そうした部隊の動揺が進むきざはしでの入港だった。Goss[1997]巻末付録によると、I./ZG1とIII./ZG1を合わせ、1944年3月に5機のJu88が戦闘で失われている。ところがこの間に、じつに4機が演習や移動で全損している。この士気も練度もあったものではない状況で、同じ1ヶ月間で7機の米英機がこの空域でI./ZG1とIII./ZG1の攻撃により撃墜されている。封じ込められた獣は、最後の最後まで爪と牙を振るっていた。

(おわり)



参照文献とサイト


  • Neitzel, Soenke [1995]'Der Einsatz der deutschen Luftwaffe ueber dem Atlantik und der Nordsee 1939-1945', Bernard & Graefe Verlag, ISBN 3763759387
  • Isby, David (ed.)[2005]'The Luftwaffe and the War at Sea 1939-1945', Stackpole, ISBN 1861762569
  • Bird, Andrew D. [2003] A Separate Little War: The Banff Coastal Command Strike Wing Versus the Kriegsmarine and Luftwaffe 1944-1945 from Grub Street(London)
  • Goss, Chris[1997],Bloody Biscay: The History of V Gruppe/Kampfgeschwoder 40, Crecy(Manchester), ISBN 0-947554-87-4

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