マイソフの創作と資料とチラシの置き場です。

ミリタリ関係




ほんとうのフォン・トラップ物語


この物語はゲオルクがドイツ語で書いた1935年の自伝'To the Last Salute'を 孫のエリザベス・キャンベルが英訳したものを主に、Wikipediaの記述などを 合わせて脚色したものです。人物の台詞などは、脚色で加わったものがあります。 「サウンド・オブ・ミュージック」で描かれているトラップ一家は、実際の彼らとは いろいろな点が違っています。そんなことより大事なのは、本当の話のほうが、 作り物の映画よりよほど信じられないエピソードでいっぱいだということです。

1.ゲオルク・フォン・トラップ


 クロアチアのザダルという町は、ザーラというイタリア語の名前を持っています。町や地方がいくつもの名前を持っていることは、東ヨーロッパでは珍しくありません。それはそのまま、たくさんの国がその町や地方を取り合った名残りなのです。

 ザダルはアドリア海の北側、ダルマチア地方にあります。ローマ帝国の流れをくむ港町で、良い港であるためにヴェネツィア共和国からは「商売がたきになるかもしれない奴ら」と思われていたようです。例えば第4回十字軍の騎士たちは船賃が払えなかったので、ヴェネツィアの頼みで、ヴェネツィアの言うことを聞かなくなっていたザダルを攻撃しました。東ローマ帝国がおとろえた後、ザダルをめぐって争ったのは主にハンガリーとヴェネツィアでしたが、後になってオスマン・トルコも勢力を伸ばしてきました。

 後になってこの町はイタリアのものになり、周囲にいたイタリア系の人々が集まる代わりにクロアチアの人たちが住みづらくなって減ってしまいます。でも1880年にゲオルク・リッター・フォン・トラップ少佐が生まれたとき、まだここはハンガリーのものでしたから、ゲオルクはどんな血筋だったかわかりません。お父さんもオーストリア・ハンガリー帝国の海軍中佐で、苗字にリッター・フォンがつくようになったのは、お父さんが海軍で手柄を立てたためです。

 ゲオルクは海軍士官学校に入りました。1898年にゲオルクたちは卒業を前にして、オーストラリアから中国まで2年間にわたる遠洋航海に出ました。訓練だけではなくて、海図を作るのも航海の目的だったようです。このときに使った船の名前はわかりません。

 さて帰り道のこと。ゲオルクたちはエジプトに立ち寄りました。上陸すると、占い師がゲオルクの手を見て言いました。

「あなたはふたりの奥さんと10人の子供を持つね。100才まで生きるね」

 ゲオルクは後になって修道院から家庭教師を紹介してもらうくらいですから、熱心なカトリック信者でした。エジプトを後にした軍艦はパレスチナにも立ち寄ったので、ゲオルクは瓶に詰めたヨルダン川の水が売られているのを見つけました。カトリックの子供が洗礼を受けるのに使うのです。

 ゲオルクは予言を聞いたせいか、瓶を7本も買いました。そんなに買って、仲間から笑われたかもしれません。でも、ずっと後になってわかったのですが、それでも3本足りなかったのです。だって100才まで生きること以外、占い師の言葉は当たっていたのですから。

 帰って来ると1900年でした。ゲオルクはまだ二等士官候補生でした。オーストリア海軍には中尉がない代わりに一等士官候補生があるので、日本海軍で言うと少尉候補生と考えるといいでしょう。ゲオルクが乗ったのは装甲巡洋艦「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」でした。日本語とドイツ語のWikipediaで食い違っていますが、たぶんドイツ語版のほうが正確でしょう。

 日清戦争の黄海海戦では、そのころ「速射砲」と呼ばれた小さな大砲が乗組員を倒したり、火事を起こしたりして、大きな被害を与えました。それなら、大きな大砲を防げない薄い装甲でも、速射砲を防げるなら、ないよりましです。そう考えたフランス海軍が作ったのが装甲巡洋艦で、日本も含めて世界中が真似をしました。

 ゲオルクが乗ってすぐ、この船は中国へ向かうよう命じられました。義和団の乱を鎮圧するために、極東にいた巡洋艦「ツェンタ」がすでに連合軍に加わっていましたが、さらに3隻を増援することになったのです。「カイゼリン・エリザベート」「アスペルン」そしてゲオルグの艦でした。

 大沽砲台を攻撃するドイツ海軍歩兵を支援するため、ゲオルクも陸に上がって戦いました。「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」は水雷艇を追い払うための47ミリ砲をたくさん積んでいたので、それを下ろして戦ったのかもしれません。ゲオルクは勲章をもらい、無事に帰って来ました。

 ずっとあとになって蒋介石の軍事顧問となり、第二次上海事変の頃に中国軍を指導したドイツ陸軍のファルケンハウゼンはこのころ少尉で、志願してドイツの派遣軍に加わっていました。ただ彼らはずっと遅れたので、たぶんこのとき戦ったのは青島にいるドイツ海軍歩兵だけだったでしょう。

 一等士官候補生、海軍少尉とだんだん昇進したゲオルクは、Offiziers-SeeminenkursとOffiziers-Torpedokursをもらっています。おそらくこれは機雷と魚雷の士官用特技章にあたるものでしょう。

 そして1908年、海軍大尉になったゲオルクはリエカに行きます。当時はフィウメと呼ばれていたリエカもイタリア、オーストリア=ハンガリー、そしてユーゴスラビアが激しく取り合った町です。このころはアドリア海のオーストリア海軍が軍港を置いていました。潜水艦乗りになるため、ロバート・ホワイトヘッドの工場で研修を積むよう命じられたのです。

 ロバート・ホワイトヘッドはイギリス人でしたが、フランスやイタリアで技師として経験を積み、リエカでオーストリア海軍向けのエンジンを作っていた会社にヘッドハンティングされました。そこで彼は世界最初の無人で水中をまっすぐ進む兵器、魚雷を開発したのです。

 しかしゲオルクにとって一番大事なのはそのことではなく、ゲオルクがホワイトヘッド家のホームパーティーに呼ばれたことでした。ロバートの孫娘アガーテが、母親のピアノに合わせてバイオリンを弾いたのです。ゲオルクは恋に落ちました。ああアドリアのローマンス。ふたりは1911年に結婚しました。ただし、このときロバートも、アガーテの父ジョンもすでに亡く、会社全体はイギリスのヴィッカース・アームストロング社のものになっていました。

 1910年、ゲオルクは潜水艦U-6の潜水艦長となりましたが、戦争は起きないまま1913年に魚雷艇52号の艇長になりました。アドリア海では孤立した一部の艦艇が追いかけられたり、軍港を無力化しようと陸上からの砲撃があったりしましたが、両軍ともまず機雷敷設を試みたので、ゲオルクのイメージと違ってぶつかり合いはなかなか起きませんでした。

2.潜水艦U-5


 アドリア海は東京湾と同じように、北に向かって突き出した湾です。東京湾の北の端には東京があります。ではアドリア海の北の端にあるのは? ヴェネツィアです。

 東京を横須賀軍港が守っているように、ヴェネツィアがアドリア海の東側に張り巡らしていた航路の入り口にあるのが、今ではクロアチアのものになったプーラの町でした。オーストリアやイタリアではこの町をポーラと呼びます。ほとんど同じ名前ですね。名前がひとつしかないのは、ヴェネツィア共和国がこの町を何としてでも守り抜いたことの表れです。このプーラは、オーストリア=ハンガリーの最前線基地でした。ゲオルクとアガーテはここに新居を構えていました。

 ゲオルクたちは1911年の1月に結婚し、11月に最初の子供が産まれました。本当にきちんとした人たちです。大戦が始まるときには3人目の子供がアガーテのお腹にいて、戦争が終わった時には子供は6人になっていたのですが、少し話を戻しましょう。

 せっかくの新居でしたが、ゲオルクは単身赴任を強いられました。彼はずっと南、セルビア国境の近くで掃海と護衛に明け暮れる毎日を送っていました。

 1915年4月、ゲオルクは呼び出しを受け、それまで慎重に隠されていた潜水艦U-5の艦長に任じられました。

 オーストリアは後発の潜水艦保有国でしたから、選択肢がいろいろありました。少なくとも、オーストリアに何かを売り込もうという人たちは大勢いました。3種類の設計で、2隻ずつを作ってみることになりました。U-5とU-6は日本に第一型潜水艦を売ったジョン・ホランドの設計で、ロバートの工場で組み立てられました。どうやら2隻とも、進水式で艦を祝福する役を独身のころのアガーテがやったようです。まさか両方の艦長にゲオルクが就くとも思わなかったでしょうね。

 どうも3モデルとも、よろしくありませんでした。U-1型は計画通りの速度が出ないだけでなく、試験中の浸水でバッテリーをつぶし、ディーゼルエンジンに乗せ換えた後、U-1とU-2は何も撃沈しないまま訓練艦として大戦を終えました。U-3とU-4は潜航が遅い問題を抱えていましたが、U-4が装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディを沈めるなど12隻の戦果を挙げました。

 U-5とU-6は、換気が悪くてしょっちゅう乗員が倒れる欠点がありました。それでも「これなら作れる」と踏んだホワイトヘッド社は、独自に3隻目を作って買い手を探しました。第一次大戦が始まっても売れ残っていたので、オーストリア海軍が仕方なく買いました。7隻目の艦なのにU-12となったのは、高い授業料を払って得た教訓を生かして5隻の潜水艦をドイツに発注していたのに、受け取ることができなくなってしまったからです。ドイツも悪いと思ったのか、部品の形で鉄道輸送できるドイツ海軍用の潜水艦を次々に送ってアドリア海で組み立てさせましたが、これは少し後の話です。

 そんなこんなで、U-5の艦長になったゲオルクは、なじみになった魚雷艇隊の戦友と別れるのに気が進みませんでしたが、どうやら潜水艦だけが積極的に戦えるチャンスがありそうなので張り切りました。

 すでに前年の12月、売れ残りのU-12が大手柄を立てていました。フランスの戦艦ジャン・バールを雷撃して中破させ、3か月余りのドック送りにしていたのです。このため、連合軍の大型艦は用心してアドリア海に入らないようにしていました。イタリア半島の長靴のかかと、イタリアとアルバニアをへだてるオトラント海峡に連合軍の巡洋艦が時々出て来るという情報をつかんだゲオルクは、航続距離ぎりぎりのところでしたが、行ってみることにしました。

 夜が来ました。そして朝が来ました。煙に続いて、待ちに待ったビクトル・ユーゴー級巡洋艦の艦影が見えました。イタリア参戦に向けた交渉は大詰めで、フランス海軍は普段の封鎖線より北に出てきたのです。ゲオルクは急いで潜航を命じましたが、潜望鏡で見ると、フランス艦はU-5を見つけて、避けて通って行ったようでした。水中速力で追いつける相手ではありません。

 夜になりました。オーストリア海軍は夜間に潜航状態で雷撃をかけたことがありませんでした。何の電波兵器もなしに雷撃しても当たりそうにないからです。しかしフランス艦も警戒は解くでしょう。ゲオルクは期待して待ちました。空気が悪くなるのを遅らせるためエンジンは切りました。艦の下の方からハーモニカが聞こえてきました。イタリアの歌、ドイツの歌。オーストリア=ハンガリー帝国を構成するあらゆる民族の歌を、ハーモニカを回しながら楽しんでいるようでした。コックはすぐに食べられる食糧を用意し始めました。最近プーラ軍港の防潜ネットに捕まったフランス潜水艦から分捕った、肉の缶詰です。

 4月27日の真夜中を過ぎて、フランス艦が戻って来ました。U-5はフランス艦の進路をふさぐ位置にいたので、当てる見込みはありました。ゲオルクは近くにいた乗員たちに、代わる代わる潜望鏡をのぞかせました。乗員たちはやる気を取り戻しました。夜間に浮上攻撃しようとしないので、ゲオルクが雷撃をあきらめたと思っていたのです。月夜でした。しばらく姿を見失いましたが、また見つけました。

「右舷魚雷発射! 左舷魚雷発射!」

 マストの上に上がる煙を見るのは艦長の特権でしたが、鉄板に何かが当たったような鈍い音が、10秒間隔で2回聞こえたことの意味は、ひとつしかありませんでした。

「フラー! フラー!」

 艦内は大騒ぎになりました。浮上してみると、救命ボートが5隻浮かんでいるのが見えました。もちらん、どうしてあげることもできませんでした。ぐずぐずしている暇すらありません。もう燃料はぎりぎりなんですから。

 ゲオルグの基地は、入り江に浮かんだ潜水母船でした。誰かが声をかけてきました。

「どうだった」

「フランスの巡洋艦を沈めた」

「そりゃすごい。あんたらだったのか。いま電報が来たところだ。艦の名前を知ってるかい」

「いいや」

「レオン・ガンベッタだってさ」

 まだ潜水艦に無線機なんかなかった(無線の受信だけは出来たようです)ころのやり取りです。

3.朝焼けの決闘


 ゲオルクは英雄となり、親族の葬儀で列車に乗ると「アドリア海の英雄来たる」という調子で顔写真付きで新聞に載り、あちこちで敬礼されたり、新聞の写真にサインを求められたりしました。

 1915年5月になってイタリアが参戦し、アドリア海は騒然としました。すでにドイツ海軍のUボートもアドリア海にやってきていました。U-5は37ミリ砲を持っているだけでしたが、ドイツ軍のUボートはずっと大型で、88ミリ砲か105ミリ砲を持っていました。砲弾なら小さなUボートでも120発積めましたから、商船を停めては沈めて行く初期の通商破壊には魚雷よりずっと便利でした。

 アドリア海の真っただ中に、パラグルーザ島があります。この島はオーストリア=ハンガリー領でしたが、参戦してすぐイタリアが占領しました。遠いので守りようがなかったのです。この島にイタリアの潜水艦が来ていることを、飛行機やドイツ潜水艦が見つけました。ゲオルグのU-5がこれを沈めるよう命じられました。

 潜水艦で潜水艦を沈めろと言われて、ゲオルクはすごく困っただろうと思うのですが、彼の本にはそのことは書いてありません。夜のあいだに島に近づいたゲオルクは、潜水艦がいそうな入り江を見つけて、夜明けを待ちました。相手を先に見つけたほうが勝つでしょう。

 午前5時ごろ、ゲオルクはイタリア国旗が海面すれすれにひるがえっているのに気付きました。潜水艦は海岸のすぐ近くに止まり、乗員が上陸して洗濯をしているようでした。こちらに気づいたようです。ゲオルクは潜望鏡を下ろして、コンパスを頼りに320度回頭しました。U-5は行き過ぎていたので、前を向かないと魚雷が撃てないのです。

 潜望鏡を上げたゲオルグは冷や汗をかきました。回り過ぎです。

「取り舵いっぱい」

 イタリア潜水艦はこちらを向いています。ゲオルクは待ちきれません。

「取り舵いっぱい間違いないか」

「取り舵いっぱい間違いなし」

 敵艦前に泡の筋が見えます。こちらに来ます。

「推進器音、右舷」

 ふたりの乗員が同時に言いました。当たらなければどうということはありません。こちらの番です。右舷、左舷魚雷発射。右舷の魚雷は敵艦のずっと前を通り過ぎました。左舷の魚雷はいいコースです。

 艦が大きく揺れました。潜望鏡には大きな水柱と、煙が見えます。

 みんな自分たちが死にかけたことに気づいていたので、大喜びよりも安心が広がりました。それでも乗員は、最後のシャンパンを残していて、お祝いの言葉とともにゲオルクに差し出してくれました。このイタリア潜水艦はネリーデと言う名前でした。

 潜水艦同士が魚雷を撃ち合って、相手が外して自分が当てる。漫画の中でしか起こりそうにないことをゲオルクはやり遂げたのです。世界の歴史の中で、こんな艦長さんは本当にわずかしかいないでしょう。この人が歌の好きなパパさんとしてだけ世界に知られているとしたら、ほんとうに不思議なことですね。

 8月はU-3とU-12が、ゲオルクの古い友達とともに相次いで沈んだ月でした。そして10月、新たな運命がゲオルクを待っていました。

4.フォン・トラップと88ミリ砲


 1914年12月、フランス海軍のブリュメール級潜水艦クーリエは巡洋艦の護衛つきでアドリア海にやってきました。イタリアはまだ中立国なので、フランスの基地から潜水してこっそり近づくには航続距離が足りなかったのでしょう。目的はプーラ軍港に潜入して大物を仕留めることです。いっしょに巡洋艦が動くのですから、潜水艦長の思いつきではありません。もっと上の人の計画です。

 オーストリア軍艦が進入する、機雷のないコースを慎重に観察したクーリエは、防潜網をくぐって港に入ろうとしました。しかしオーストリアは防潜網を二重に張り巡らし、内側のものはもっと深いところに張ってあったので、クーリエは見事に引っかかってしまいました。ほとんどのクルーは脱出して捕虜になりました。砲撃で30メートル以上の深さに沈んだクーリエをオーストリア海軍が引き上げたのは、肉の缶詰を食べたかったからではありません。オーストリア海軍が欲しかったのは、潜水艦クーリエそのものでした。オーストリアは少しでも潜水艦が欲しかったのです。元通りに修理されたクーリエの艦長が病気になったので、ゲオルクがが転任することになりました。

 あたらしい艦には、いいところも悪いところもありました。今まで乗っていたU-5は水上状態で240排水トン。U-14と名前が変わったクーリエは397トン。艦内は広く、U-5だとふたりの士官は魚雷発射管のあいだの空気ベッドに交代で寝るしかなかったのに、この艦には士官食堂までありました。もっともテーブルは艦の中央を走る廊下をふさぐので、食事中に乗組員がテーブルの下をくぐって行き帰するのは我慢しないといけません。航続距離の長さは言わずもがな。士官も自分を入れて3人乗れるので、当直の負担はずっと軽くて済みました。

 持って行ける魚雷は増えましたが、艦外発射なので狙いが不正確でした。ディーゼルエンジンになって酸欠の心配も減りましたが、ちょっと信頼性に難がありました。

 U-14は爆雷攻撃を食らいました。12時間のつらい連続潜航。漏れ出して敵艦を惑わせる燃料。ぺしゃんこになって役に立たなくなる魚雷。きちんと説明すると長くなる戦闘経過でしたが、結果は短くまとめることができます。「なんとか航行できるがあちこちが傷み、攻撃は続けられない」

 フランス海軍が見張っている狭いオトラント海峡を通るときは、オーストリア潜水艦の中でU-14だけが当然持っている備品が役に立ちました。フランス国旗です。航空爆雷を抱えたフランスの飛行機もやって来ましたが、みんなで帽子を振って、あっちに行ってもらいました。

 1915年2月から11月まで、U-14はプーラで修理を兼ねた大改装を受けました。新婚当時はプーラに家があったのですが、まだ第一次大戦が始まる前に、ずっと北のツェル・アム・ゼーに引っ越していました。湖のほとりだからアム・ゼーなのですが、海とは縁のないところです。プーラとはずいぶん離れていますが、1917年に5番目の子供が生まれているので、休暇で帰ることは出来たようです。前の子供は魚雷艇長だったころ、次の子供はU-14を降りてから1年以上経って1919年に生まれています。

 子供を作る話はこのくらいにして、潜水艦を改装する話に戻りましょう。艦の外側にじゃらじゃら魚雷を吊るして行くのはどうにもならないとして、45センチ魚雷は53センチ魚雷に代えられました。広かった艦内には燃料タンクが詰め込まれ、エンジンはもっと馬力があって調子のいいものに変わりました。前のエンジンを取り外して工場に持っていくと、エンジニアはそれを最大出力で動かしてみました。ゲオルクが決してやろうとしなかったことです。しばらくするとエンジンは爆発して、破片がはね飛びました。

 ゲオルクはそれらの多くを提案し、賛成してもらいましたが、どうしても賛成が得られないものがありました。ドイツ海軍の潜水艦はほとんどみんな持っている、88ミリ以上の大砲です。1隻だけのために他では使っていない大砲を積むなんて、海軍の役人たちは補給で問題が起きるに決まっていると感じました。ゲオルクはドイツ海軍の人たちともう話をつけていて、砲弾は融通してもらえるから心配ないと言いました。

 ある日ゲオルクが現場に行ってみると、古くさい65ミリ砲が今にも据え付けられようとしていましたから、ゲオルクはけんか腰で顔なじみの基地司令官を捕まえに行き、なんとかそれを食い止めて、88ミリ砲をせしめました。このとき積んだ88ミリ砲は8,8 cm L/30と書いてありますから、当時ドイツのUボートが使っていた旧式で砲身の短い88ミリ砲を分けてもらったのでしょう。第二次大戦でドイツが使ったUボートのうち、VIIA型からVIIC型も88ミリ砲を持っていましたが、もう少し砲身の長いもの(L/45)でした。ティーゲル戦車に使われた有名な高射砲はもっと砲身の長いもの(L/56)です。

 ゲオルクの新しい航海の話に戻る前に、このころプーラにいたに違いない人のことをお話ししておきましょう。撃沈商船の総トン数で順位をつけると、第一次大戦でドイツ海軍の潜水艦トッフエースはフォン・アルノー・ド・ラ・ペリエールで、プーラから出撃していました。第二位のエースがヴァルター・フォルストマンです。第一次大戦だけでなく、世界ランキング史上一位と二位のエース艦長がプーラにいて、フォン・トラップと同じ士官クラブでお酒を飲んでいたのです。

 第一次大戦が始まったとき、地中海にいたドイツ海軍の巡洋戦艦ゲーペンと軽巡洋艦ブレスラウは逃げ回り、ドイツと仲のいい中立国だったトルコに逃げ込みました。中立国に逃げ込んだ軍艦は沈めるか、戦争に使えないようにしてしまうのが普通ですが、トルコは2隻をドイツから譲ってもらい、乗員もそのまま雇いました。そのあとトルコに続いてブルガリアもドイツ側に立って参戦したので、取り残されたドイツ海軍将兵も本国と行き来できるようになりました。

 軽巡洋艦ブレスラウに乗り込んでいたひとりの若い士官がUボート部隊に志願して、1916年にヨーロッパ大陸に戻って来ました。フォルストマンの艦に乗り込んで修行した後、その士官はUC-25の艦長を引き継ぎ、5隻の商船を沈めました。大威張りな戦果だと思いますが、世界ランキング上位者が天下一撃沈会をやっているようなプーラでは目立つ人ではなかったでしょう。

 ゲオルクの本は1935年に出版されていますが、この人のことは何も書いてありません。カール・デーニッツがいつか有名な人になるなんて、誰も思わなかったでしょうね。

5.狩人の合唱


 ゲオルクはU-5艦長のころ1隻だけ、軍需品を積んでいる商船を捕まえて母国に運んだことがありました。でもU-14が改装を終えて1917年の初めに戦線に復帰した時、ゲオルクはまだ1隻も商船を沈めたことがなかったのです。

 航続距離の長い艦を手にしたゲオルクは、30日を超える哨戒をするようになり、だんだん狩りのやり方を覚えて行きました。航海が長くなったので煙草がなくなり、水兵たちが茶の葉を紙に巻いて吸っているのに気づいたゲオルクが、手持ちを少し分けてあげたこともありました。母港が近づくと、最後にとってあった真水がありったけ配給されました。水兵たちはそれを飲んだりせず、上陸に備えて身だしなみを整えるのに使ったのです。

 1917年になると、国民の生活は目立って苦しくなり、陸軍の戦いにもう勝利の望みがないことをゲオルクたちは漠然と感じていました。自分たちが祖国にとって最後の頼みの綱だという自覚を持って戦っていました。

 今では、Uボートに関わるデータを一切合財集めて公開しているサイトがあって、お金を取って出版することが難しくなっているとさえいわれます。第一次大戦中にドイツとオーストリアで潜水艦長を務めた人は420人。一覧表はなく、私が目で数えたのでひとつふたつ間違っているかもしれませんが、商船撃沈トン数では81位です。ゲオルクが沈めた商船は11隻。最初の撃沈は1917年4月で、1917年8月の1週間に5隻を続けて沈めました。撃沈総トン数は47653トン(www.uboat.netによる数字)。


 チェコスロバキア出身の艦長Zdenko大尉は2隻のドイツ製潜水艦を駆って出撃し、44743トン(この数字もwww.uboat.netによります)の商船を撃沈しました。オーストリア海軍で2万トンを超える撃沈記録を持つのはこのふたりだけです。1万トン台がふたり、あとは1万トン未満。420人の艦長たちが撃沈した商船トン数を合わせると500万トンを少し超えますから、大海の一滴と言えば言えるかもしれません。でも間違いなく、ゲオルクはオーストリア潜水艦隊のエースオブエースでした。

 ちなみに、チェコ語の掲示板記事をgoogleに翻訳させてざっと読んだところでは、彼も故国のチェコスロバキアに海軍がないのでそうした職に就けず、戦後は語学ができるのを頼りに政府の仕事をしていたそうです。ヒトラーにドイツ海軍へ誘ってもらった記述がないのは、民族的にドイツ系じゃなかったからでしょうか。歌が上手でなかったことがマイナスだったかもしれません。

6.陸上勤務と終戦


 商船が沈没するといろんなものが漂い出してきました。受け取った電報のメモが漂ってきたので調べてみると、U-14の少し前の位置が書いてあって「発見されてますね」とゲオルクが他の士官から苦笑いされました。まだ生きている雄牛を見つけたときは、乗組員たちは肉料理の夢に目を輝かせましたが、結局どうすることもできませんでした。

 浮上して浮遊物を探していたとき、乗員のひとりが何か叫んで、海に飛び込みました。叫んだ内容はゲオルクに聞こえなかったので見ていると、片手だけで泳いで戻って来ます。そしてそっと戦利品をみんなに見せました。

 子猫でした。シャッツェール(お宝ちゃん)と名付けられた子猫は、ずっとU-14に飼われました。

 手紙の入った札入れがありました。マーベルと言う女性から差し出されたその手紙は、熱烈なラブレターでした。でも、その札入れにはもう少し紙が入っていました。持ち主の男性が梅毒の検査を受けた結果で、「強い陽性」でした。ゲオルクはマーベルと言う見知らぬ女性に心から同情しました。

 ある日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世がわざわざ閲兵にやって来ました。ここのやりとりは不正確に伝わるといけませんから、なるべくゲオルクが書いたとおりに訳してみます。(von Trapp[2007]、p.167)
「どんな出自の者がこの船に乗っているのか」 「陛下、帝国のほとんどすべての地域からであります。ドイツ、ハンガリー、 イタリア、ルーマニア、スラブ、ポーランド。ですが潜水艦では、すべての乗員が ドイツ語を理解しなければなりません」 「オーストリアでの指揮語としてのドイツ語の重要さが分かっているのか」 私は返答に窮した。

 ゲオルクはこれ以上この件にコメントしていません。おおよそ、何かをアジテーションする人ではないようです。この会話からまず伝わって来るものは、坊ちゃん皇帝ウィルヘルムのKYっぷりですが、ゲオルクの人となりも見える気がします。

 多民族国家オーストリアは大変な国です。その大変な国で、互いに憎み合わずに一つの目的に向けて協力する。そのことにゲオルクはプラスの価値を見て、命をかけてそれを守っているのです。

 1918年5月、ゲオルクは少佐に進級し、U-14を後にして、セルビア国境近くの潜水艦基地で司令を務めることになりました。そのころオーストリアはリエカで新しい潜水艦を建造中で、完成したらゲオルクが艦長になるのだと聞かされていました。偉い人が本当にそうするつもりだったのか、国の英雄をもう戦死のリスクにさらすつもりがなかったのかは、今となってはわかりません。でも……もうゲオルクも38才でした。潜水艦の艦長としては、体力の限界が近づいていたかもしれませんね。

 ここでまた、少し余談をしておきましょう。英語で海軍大佐はキャプテンで、船長もキャプテンです。もちろん艦長もキャプテンです。海軍大佐はもともと、イギリスの「主力艦艦長資格保有者名簿」に載っている人のことでした。もう少し小さな艦の艦長や、それになれる人のことを、イギリス海軍ではコマンダーと呼んでいて、これが海軍中佐になりました。

 でも、コマンダーと言えば指揮官のことです。こんな呼び方じゃ不便ですね。ドイツ海軍もフランス海軍もイタリア海軍も不便だと思ったので、別の呼び方を考えました。

 まだ無線機も電伝虫もない時代、何かを海の向こうに伝えるには、手紙か人を船で送るしかありませんでした。大海を渡れるぎりぎりの大きさの、ちょっとだけ武装した船をコルベットと呼びました。幕末の日本もコルベットを何隻か買っています。

 主力艦よりも小さな艦も、強い艦のいない植民地の海では活躍できましたし、いつの時代も主力艦は高価ですから節約しなければいけません。主力艦より少し小さなクラスをフリゲートと言いました。主力艦は大砲を載せる甲板を2層にするのが普通で、木造戦艦が古くなって強度が怪しくなると、上のガンデッキを引っぺがして半分の砲しか積まない艦に改造することがよくありました。こうして作られたフリゲートもたくさんあります。

 そういうわけでドイツとフランスとイタリアは、イギリス海軍のコマンダーに当たるものを「フリゲート艦長」、その下に当たる海軍少佐を「コルベット艦長」と呼ぶことにしたのです。オーストリアもその呼び方にそろえたので、ゲオルグが昇進したのはKorvettenkapitanでした。カピタン? 聞いたことがある人はいますか。長崎出島の長もカピタンでしたね。

「サウンド・オブ・ミュージック」のフォン・トラップがキャプテン(大佐)にされてしまったのは、短いほうがよかったんでしょうね。

 少佐となったゲオルクの軍人としての最後の日々は、あまり驚くような事件がなかったので簡単に済ませましょう。地方の海軍基地には、戦争の様子が伝わって来なかったようなのです。陸軍の撤退が伝えられてから、最終的な降伏命令が届くまで、それほどの日数はありませんでした。新しいユーゴスラビア(最初の最初はセルボ・クロアート・スロヴェーンと言ったはずですが、1935年にはすでにそんな国名はゲオルクも覚えていなかったようです)は、オーストリア海軍将兵が引き続き働いてくれるなら歓迎すると言いましたが、誰もそうしようとしませんでした。

 ゲオルクたちがアメリカに行くまで、もう戦争に関係のあることは何も起きませんでした。でももう少しだけ、嘘のような本当のことが起こったので、そのことを最後にお話ししようと思います。

7.ゲオルクパパとマリア母ちゃん


 大戦の雲行きが怪しくなり、連合軍がオーストリア=ハンガリー帝国の解体を目論んでいることが伝わってきたころ、親しい士官と話したことをゲオルクが書いています。ふたりとも、もしオーストリアが海軍を失ったら、自分たちには故郷と呼べるところはないと言いました。オーストリア海軍の基地はみんなクロアチアにありましたが、だからといって彼らはクロアチアの人たちが、自分たちオーストリア海軍を仲間だと思ってくれていないように感じていました。1935年の本にわざわざこの会話を書くのですから、ゲオルクはそのころになっても、故郷と呼べる場所が見つからなかったのでしょう。

 私の机の上には、トラップ・ファミリー合唱団のCDがあります。Wikipediaにあるゲオルクの写真はとても美男子ですが、顔色がなんだか浅黒く、アジア的な印象を受けます。CDのジャケットやリーフレットに出て来る晩年のゲオルクは、頭髪が薄くなって広い額が目立つようになり、西ヨーロッパのどこにでもいそうなおじさんになっています。潜水艦乗りですから、あまり長身でもありません。

 ゲオルクは家庭ではひたすら優しいパパでした。休暇で帰って来るのが夜中になると、ゲオルクはそうっと自分の部屋に入りました。でも子供たちはパパを待ちわびていて、ゲオルクがまだ起きないうちからドアをとんとんと叩くのでした。アガーテが生きている頃から、兵隊さんが歌うような歌を子供たちに聞かせることもありました。

 戦争後にアガーテたちはもう一度引っ越して、ウィーンのすぐ北にあるクロスターノイブルクで暮らしていました。オーストリアもドイツほどではないにしろ、国の経済はめちゃめちゃでしたが、アガーテはロバートおじいちゃんの遺産を−ここが大切なところですが−イギリスの銀行にたくさん持っていました。ゲオルクはときどき船乗りの仕事をもらって出かけ、航海が終わると帰って来る生活でしたが、生活には困りませんでした。きっとゲオルクにとって、アガーテが故郷だったはずです。7人目の子供は1921年に生まれました。

 この最後の子供が「サウンド・オブ・ミュージック」に出演した最後の子供と言うことになりますが、じつは映画では名前も年齢も全然違っています。映画版の長女は「Sixteen Going on Seventeen」で「もうすぐ17才になる」と歌いますが、トラップ一家がオーストリアを離れた1938年には7番目の子供が17才でした。もう再婚してから11年経っていて、脱出する子供の数もふたり増えて9人になっていました。しかし話をアガーテのことに戻しましょう。

 そのアガーテは1922年に死んでしまいました。前の年に子供たちがかかった「しょうこう熱」が移ったのです。しょうこう熱は9ヶ月も闘病する病気ではありませんが、現代でも抗生物質で治療してもらえない発展途上国では、この病気からリウマチ熱と言う別の病気になって、心臓が弱ってしまうことがあります。腎臓病になる例もあるので、アガーテの死因はそのどちらかでしょう。

 ゲオルクはがっかりしてしまいました。子供たちに「南の島へ行って暮らすのはどうだろう」と尋ねたこともありました。大きくなった子どもたちは、両親のもとで敬虔なカトリック信者になっていましたから、「南の島でミサはできるの」と聞き返し、答えられなかったゲオルクはこの話をおしまいにしました。

 もちろんパラオでもポナペでも、ドイツ語が通じないことを気にしなければフィリピンでもいいのですが、カトリック教会はちゃんとあります。もし本当に移住していたら、ちょっと人数の少ないトラップファミリー合唱団が、慰問にやってきた藤山一郎と一緒にローレライを歌ったりしたかもしれませんね。私が持っているCDはトラップ・ファミリーのクリスマスソング集ですが、半分以上はドイツ語の歌です。ちょっと英語に苦労したかもしれません。

 アガーテのことを忘れたかったのか、ゲオルクはザルツブルクの近くに引っ越しました。庭があまりにも広かったので、ゲオルクは軍隊で使っていたボースンコール(水夫長が合図に使う笛)を持ち出して、子供たちそれぞれに「おいで」と呼ぶ合図の信号を決めました。「みんなおいで」もありました。映画でトラップ大佐が笛を吹いて子供たちを歩かせるのは、この話を作り替えたものです。

 三番目の子供のマリア・フランシスカはジフテリアのせいで少し麻痺がありました。通学がつらそうだからと、修道院に頼んで来てもらった家庭教師が、同じ名前のマリア・アウグスタ・クチェラでした。マリアは子供たちと仲良くなりました。子供たちはマリアを「グストル」と呼びました。アウグスタという女性に対する、ありふれた愛称です。ゲオルクは「いいひと」だけれどまず愛したのは子供たちだった、と後にマリアは回想しました。ゲオルクも(映画に出てきたように)別の女性と結婚を考えていましたが、その結婚話がなかなか進まないことと、子供たちが「グストル」にすっかりなついているのを見て、グストルに求婚しました。マリアが修道院のシスターたちに相談するシーンが映画にありますが、まあ相談も迷いもあったでしょうね。27才の差があれば当然です。ふたりは1927年に結婚しました。

 1935年、オーストリアのある銀行が倒産しました。ゲオルクの友人がその関係者で、ゲオルクは業績の足しにと、イギリスにあった財産をすっかりその銀行に預けていたのです。ゲオルクはすっかり打ちのめされてしまいました。

 映画と違って、マリアは感情をむき出しにすることがあって、ゲオルクはそれをなだめて一家のバランスを取っていました。ゲオルクが生気を無くした一家の危機に、マリアは獅子吼しました。

「稼ぐんや! なんとしても稼ぐんや!」

 マリアがやって来る前から、一家は音楽好きでした。マリアはそれに教会音楽を加えて磨きをかけていました。

 この文章を最初から読んでいる方は、ゲオルクの強烈な好運にお気づきでしょう。例えば潜水艦ネリーデとの一騎打ち。ゲオルクは320度時計回りに回転しました。舵で回転するのですから、スクリューは回したままです。時計回りに行きすぎたので、ゲオルグはせいいっぱい左にコースをとりました。ネリーデの魚雷は、U-5の右側をすり抜けて行ったのです。コースを変えなければそこにいたはずの場所を、正確に。

 ゲオルクは戦功でマリア・テレジア勲章騎士十字章を受けていました。もし持っていなければリッターの称号が与えられ、生涯年金をもらえるはずでしたが、敗戦で打ち切られました。功労者ゲオルクに何もくれなかったオーストリアは、最後の最後になってその伝統の杯を少し傾けて、ゲオルクを潤してくれたのです。ゲオルクたちはいま、どこに住んでいるのでしたっけ?

「ザルツブルク音楽祭に出よう!」

 彼らは好評を博し、有名になりました。

 オーストリアのカトリック教会は、オーストリア・ファシズムの有力な後援者であり、その支持者はカトリックが広く使うクロスポテントをシンボルにしていました。ゲオルクは敬虔なカトリックとしてこの運動に一定の協力はしたでしょう。そして、ヒトラーとゲオルクが相いれなかったのは、まさにこの点だったのです。

8.すべての山に汽車で登れ


 マリア母ちゃんのおかげで、一家は経済的に持ち直しました。しかしヒトラー政権が強引にオーストリアを合併したことは、トラップ一家にとって不愉快なことでした。カトリック教会はヒトラー政権下で活動や発言を抑え込まれていたからです。ヒトラー・ユーゲントに入った子供たちが親を監視し、古い家庭を壊す態度をとるのも、ゲオルクには腹立たしいことでした。

 ゲオルクはドイツ海軍への参加を勧める「ヒトラーからの手紙」を2通受け取っていました。カッコ書きにするのは、ゲオルクの孫が聞き書きをまとめた文章をもとに書いているからで、署名者はヒトラーではなかったかもしれませんし、ドイツ海軍が旧オーストリア海軍軍人に手当たり次第送っているものだったかもしれません。少なくともトラップ一家がはっきりしたプレッシャーを受けていたことは確かです。

 一家に決断を迫ったのは出頭命令ではなく、ヒトラーの誕生日にヒトラーの前で歌ってほしいという招待状でした。歌うためであっても、本人を目の前にすればヒトラーはゲオルクに海軍への参加を勧めるに相違なく、本人の前で「だが断る」とも言えません。しっかり者のマリアは「留守中」に自分の家を貸す相手を見つけました。彼らは悠然と汽車でイタリアに出国し、興行主から招きを受けていたアメリカに渡ります。

 じつは、このときトラップ一家が手放した大邸宅は、1940年になって接収され、ヒトラーがオーバーザルツベルク山荘にいるときにヒムラーが使うようになりました。1942年4月にはヒトラーとムッソリーニの会談場所に使われたこともあります。1943年からは、ヒムラーはこの場所を'Feldkommandostelle(野戦指揮所)'と呼ぶようになりました。もしヒトラーがオーバーザルツベルク山荘で戦う日が来たらここを総統の防衛指揮所にしましょう、というヒムラーのお追従でしょうか。

 悠然と出て行ったとはいえ、これは大決心でした。ゲオルクは子供たちの決心を尋ねたのち、聖書を見ないでページを開き、鉛筆で印をつけました。神の意向を尋ねたのです。西部劇映画をご存知の方なら、「三人の名付け親」にこれとそっくりなシーンがあって、「エルサレムへ行け」という語句をガンマンたちが見つけるのをご記憶かと思います。

 エリザベス・キャンベルはもうすっかりアメリカ人になっていて、ゲオルクが探し当てた聖書の文句を正確に記していません。どうやら、この語句であったようです。

創世記 12章(新改訳) 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を 大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

 フィクションを書くことが本当にばかばかしくなって来る実話です。

 おわり

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