まとめ:雅ちゃんがももちの胸を触るセクハラ

312 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止@無断転載は禁止2016/10/10(月) 17:19:07.63 0

何読んでんの、と雅が声をかけると、小難しいタイトルが帰ってきた。桃子の口からでなければ、きっと人生で一度も聞くことはなかっただろう。
さらりと答えた彼女の視線は本に注がれたままで、それ以上会話が続けられることはない。

「そろそろ帰らないの?」
「……え?」

その視線をどうにかこちらに向けさせたくて、投げかけた言葉。こつん、と軽い音を立てて、その言葉はきっと彼女にぶつかった。

「ね、一緒に帰ろーよ?」

けれど、ぶつかったからといって、意味が通じたかどうかは別の問題のようで。

「ももに言ってるの?」
「それ以外ないでしょ」

雅が念を押すように言うと、ようやく桃子は言葉の意味を理解したようだった。数回ほど目を瞬かせ、その視線がすっと下に落ちる。
ごめん、とだけつぶやかれたのが、放課後のザワザワとした雑音の中でやけに鮮明に雅の耳に届いた。

「えと、今日この後、予定があって」

まさか夏焼さんが私のこと待ってくれてるとは思わなくて、とか、そんなことを言いながら、前髪の奥に見え隠れする眉がしょげるのを見た。
そんな顔をさせたかったわけではないし、そもそも明示的な約束をしていたわけでもないのに。

「あ、いや、全然いーよ、気にしないで」
「あの——」

何か言いたげに開かれた桃子の唇。
しかし、そこから発せられるはずだった音声は、雅の耳に届くことはなかった。

「みやー、今日はー?」

声の主は、所謂いつものメンツ。彼女に話しかけられるのはいつものことだが、今はあまりにも間が悪い。悪気はないのだと分かっていても、眉を寄せるのを止められなかった。

「ごめーん、バイト」

適当な返事をしてから顔を戻すと、既に桃子の姿はそこにはなかった。

「あー、もう……」

今日も話すタイミングを逃した、と雅は肩を落とした。

443 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/15(土) 02:19:25.73 0

*  *  *

3年間という歳月が長いかどうかは、人によって異なるけれど、きっと中学校の3年間ってやつは、誰にとっても大きいと思う。
少なくとも、雅は久しぶりに再会した彼女を目にして、それを実感した。

新しい環境、新しい顔ぶれ、新しい生活。入学式の後の教室に満ちるのは、独特の浮かれた空気。
その中で、教室の真ん中、一番後ろの席だけは流れる時間が緩やかだった。

「ホントに、ももだ……」

懐かしい呼び名を口にすると、ようやく目の前の光景が現実なのだと感じられた。
小学生の頃と変わらない、透けるような白い肌。薄い唇に、整った横顔の輪郭。
美人だな、と当時から感じていたことを思い出す。
けれど、あの頃とどこか違う印象を受けるのは、細身の赤い眼鏡のせいだろうか。それとも、小さな手に収まっている文庫本のせいだろうか。

「あのー、もも、だよね?」

彼女の周りの空気を壊さないように恐る恐る近寄って、雅はそっと身を屈めた。
3年の月日を飛び越え、面と向かって声をかけるのは少しだけ勇気が必要だった。

「……はい?」

反応されなかったらどうしよう、という不安は、こちらに向けられた視線に溶かされる。
ただ、雅に向けられた表情はあくまでも怪訝なまま。
違う、期待してた反応じゃない。

「あ、えーと、覚えてない? みやのこと」
「え、と……ごめんなさい」

謝ってほしかったわけではないが、桃子の反応に雅は少なからずショックを受けていた。

「そ、か」

確かに、毎日のように仲良く遊んだ仲というわけではない。
休憩時間には、雅は教室の真ん中で、桃子は端っこで、過ごし方も異なる二人だった。
とはいえ、全く覚えられていなかったとは、想定外だった。
これじゃまるで、自分だけが意識していたみたいじゃん、と心の中で独りごちて、雅は小さく息を吐く。

「んーと、じゃあ、はい」
「……?」

雅が差し出した手に、桃子の首がゆるりと傾く。
どうやら意図は通じていないらしいと分かったが、構わず雅は桃子の手を取る。

「握手。うちはね、夏焼雅っていうの」

よろしくね、とウインクしたのはおまけのつもり。

「あ、うん、ももはーー」
「嗣永桃子、でしょ?」

彼女の記憶の中に残っていないのなら、新しくそこに刻み込めばいい。
名前を言い当てられて目を丸くしている桃子に、雅はとびきりの笑顔で握るその手に力を込めた。

*  *  *

353 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/26(水) 01:48:35.48 0

結局、桃子にフラれた後の雅は友達と騒ぐ気にもならず、バイト先のカラオケ店まで来てしまった。
今日はシフトの日ではないけれど、何かしら仕事があれば回してもらえるだろうと踏んだ雅の見込みは正解だった。
これで今日は休憩が取れるよ、と店長が休憩に下がったのを見届けて、雅は小さく伸びをする。
平日の夕方、時計はちょうど料金の変わり目の時刻を示していた。
まだ客は少ないが、これから徐々に混み始める時間帯。よし、と雅は気合を入れ直す。
訪れた客の対応、オーダーの受付、清掃。
さほど混んでいないとはいえ、もともと人員もあまり足りていないカラオケ店では細かな仕事が次から次へとやってくる。
時間を忘れられる程度に忙しい方が、今の雅には都合が良かった。

「夏焼さーん、そろそろあがっていいよー」

休憩を終えた店長の呑気な声に、気づけば数時間が経過していた。

「あ、はい」

じゃあこれだけやっちゃいますね、と雅は受話器を手に取る。
数回のコールの後、がちゃり、と向こうの受話器が取られる音がした。
後は、残り10分であることを告げ、延長の有無を確認して、それで今日の仕事は終わり。そのはずだった。

「ーーはい」

受話器の向こうの声に、何かが頭をかすめた気がした。
しかし、それは一瞬のことで、しっかりとつかむ前にどこかへ消えていく。

「お時間終了10分前なんですけど、延長はされますか?」
「あ、大丈夫です」

お決まりのやりとりはそれでおしまいだったが、つかみ損ねた思考は引っかかったまま。
もやもやとした何かが喉に詰まって、雅は腕を組んだ。
一瞬だけ、あの声に何かが引っかかったはずーー声?
引っかかりの正体に思い至った瞬間、雅の心拍数は一気に跳ね上がっていた。
まさか、まさかね。そんな偶然、ありえないでしょ。
期待しそうになるのを何とか抑えこんで、雅は客のサインリストに手を伸ばす。
もし、もし、ここにいるのだとすれば、その名前があるはずーー。
パラパラと紙をめくっていくと、果たしてそこに記名されていたのは紛れもなく彼女の苗字だった。
“ツグナガ"なんて、そうそういるはずがない。

354 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/26(水) 01:48:58.04 0

逸る気持ちに背中を押されて、気づけばカウンターを飛び出していた。
勢いのままに目指す部屋まで来たところで、部屋の中から漏れ聞こえる歌声に雅は動きを止める。
それは紛れもなく桃子のもので、そして雅がずっと聞きたいと願っていた声だった。
桃子は変わってしまったと思っていたが、少なくともこの声だけは、あの頃から変わっていないと確信する。
そう思うと、急に指先が強張ったようだった。
けれど、ここで引くわけにはいかない。微かにしか聞こえない声が、もどかしさを募らせた。
ええい、と半ばヤケになってドアノブに手をかける。
ガチャリ、と無機質な音と同時に途切れる歌声。固まる桃子と、まっすぐに目が合った。

「……み、……ん……?!」

桃子の口からこぼれ落ちた音は、聞き間違いではなかろうか。
そんなことを思うより早く、桃子の小さな体が雅の傍をすり抜けていた。

「あっ! ちょっと!」

見慣れたスクールバッグを背にした桃子の姿は、あっという間に小さくなる。
走り出せば確実に追いつける距離ではあったが、さっきまでの勢いが嘘だったかのように雅の体は重たかった。

「まじ、何なのさ……」

想定しなかったパターンに、頭がついていかない。
走ってきたせいか、はたまた緊張が緩んだせいか。足にうまく力が入らず、雅は近くの椅子に座り込んだ。
予定があるから一人で帰るとか言ってたくせに、カラオケかよ、とか。
歌ってる時の横顔、昔と変わんないな、とか。
意味のない思考がぐるぐると廻って、雅はようやく重大なことを思い出す。

「もも、絶対うちのこと呼んだよね……」

ーーみーやん。
みんなが「みや」と呼ぶ中で、違う呼び方がしたいと言い出したのは桃子から。
好きに呼べばと言ったら、さも嬉しげに桃子がそう呼んだのを覚えている。
初めて呼ばれた、あの日のことも。

「覚えてないなんて、嘘じゃん」

誰に言うともない独り言は、部屋の壁にこつんとぶつかって転がった。

515 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/31(月) 03:04:56.17 0

*  *  *

「結局、その”もも"って人には逃げられちゃったの?」
「まあ、そーゆーこと」

愛理の指が器用にスティックを操り、ハイハットがシャラシャラと乾いた音を立てた。
くるくるとよく動く愛理の指先に、なんとなく彼女の機嫌がいいらしいことを察する。
今日はスタジオに顔を出すつもりはなかったので、予期していなかった雅の来訪に喜んでいるのかもしれない。

「で、私に愚痴りに来た、と」
「そういうんじゃないけどさ」

図星であるのを誤魔化すように、雅も抱えていたエレキギターの弦をポロポロと爪弾いてみる。
アンプを通さない弦の音は、どこか間抜けに空気を揺らした。

「なんか……凹むってゆーか」

逃げられてばかりで、挙句の果てには嘘をつかれて。
深いため息と共にかき鳴らしたのはFmaj7。曖昧で、気怠い響きに愛理が苦笑した。

「こんなみや、初めて見るかも」
「そう?」
「うん。その子のこと、よっぽど気になるんだなって感じ」

体の中心、奥の方に表現しがたいモヤモヤとした何かが溜まっている。
それをどう形容したらいいか雅には分からなかったが、愛理の言葉であることに気がついた。
そうか、気になってるんだ、もものこと。

「私は全然知らないから分かんないけど」

そんなにすごい子なの、と問いたくなる愛理の気持ちもよく分かる。
しかし、あいにく雅の語彙の中では桃子のすごさを語ることは困難に思えた。

516 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/31(月) 03:05:33.90 0

小学生も終わりに差しかかったーーあれは、修学旅行だったから6年生だったはず。
その頃の嗣永桃子は、雅にとってよく分からない存在だった。
段々とグループで固まるようになる年頃の子どもの中で、桃子は一人でいることが多かった。
演技かと思うほど大袈裟なリアクション、ヒョコヒョコとした体の使い方、いつでも立っている小指。
自分とは全く違う桃子の一つ一つが気になってしょうがなかった。
気になったといえば聞こえは良いが、おそらくあの頃の雅は、桃子に少し意地悪な気持ちを抱いていたことも事実だったと思う。
今なら、素直に認められる。
たまたま修学旅行で同じ部屋になった時、罰ゲームと称して無理矢理に歌を歌わせたのも、きっとそんな感情がきっかけだった。

いつもぶりっ子を気取る桃子には不似合いな、激しめのロック。
今をときめくバンドの楽曲で、あの頃はテレビをつければ必ず1度は耳にしていたような気がする。
そこまで流行った曲ならば、桃子も知っているだろう。そう踏んで、雅は言った。

ーー超なりきって、歌ってみてよ。

その時の自分はどんな顔をしていたのだろう、と今でも思い返すことがある。
ほら、と言われて、しぶしぶといった様子で立ち上がった桃子は、どうしてもやらなきゃだめ?って困った顔をしていた。
誰かがこっそりと持ってきていたMP3プレーヤーからは、若干音割れのしたノイズ混じりのインストが流れる。
仕方ない、とマイク代わりに口元に添えられた拳。その時も確か、小指はピンと立っていて。
深く息を吸う音がして、すっと桃子の視線が上向く。それらが全ての始まりだった。

517 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/10/31(月) 03:05:55.99 0

瞼を閉じれば、あの時の桃子の表情が、仕草が、今でもありありと再生できる。

「うちが歌、始めたきっかけだし」

忘れられない、忘れるわけがない。
イントロが流れた瞬間に、桃子を包む空気が変わった。
安っぽい音質のインストとは裏腹に、伸びやかな歌声が桃子の唇から生み出される。
いつもなら気になって仕方がないオーバーな動作も、その時だけはかっこいいと思った。
桃子の作り出した雰囲気に呑まれ、1曲は気づけばあっという間に終わっていた。
悔しいとか、癪だとか、そんな感情が挟まる隙など一切ない。そこにあったのは、ただただ純粋な感動。

「ま、その”もも”のおかげで、私はみやとバンドやれてるわけだけど」
「結局は、ね」

あの時の桃子が忘れられず、あんな風に歌を歌いたいと中学校では軽音楽部に飛び込んだ。
そのつながりで出会ったのが目の前の愛理であり、このスタジオだった。

「みやは? 結局、軽音部入らないの?」
「んー……どうしよっかな」

もうそろそろ5月も終わりという時期。
部活に所属するにせよ、帰宅部を選ぶにせよ、周囲を見渡してみても迷っているのは雅くらいなものだった。

「それこそ、”もも”ちゃんを誘うっていうのは?」
「うーん、どうせ断られそーだし」

桃子と一緒に音楽をやれたら、と妄想しなかったわけではない。けれど、今の桃子はバンドなどとは無縁の世界の人間だった。少なくとも、雅はそう感じていた。

「ふーん、みやにしては弱気なんだね」
「弱、気?」

思わぬ言葉を突きつけられて、雅は思わず愛理を見やる。
自覚したことはなかったが、今の状態を弱気になっているというのだろうか。

「だってさー、みやだったらとりあえず誘っちゃいそうなのに」
「そうかなぁ」

そうだよ、とでも言うように、愛理が軽やかにスネアを奏でる。
波のさざめきのようなタップに目を閉じると、不意に今日の出来事が瞼の裏で再生された。
一緒に帰ろうと誘った時の下がった眉、カラオケ屋での驚いた表情、遠くなっていく背中。
やはり、どれをとってもいけそうだと思える要素がない。
無理でしょ、と誰に言うともなくつぶやくと、ライド・シンバルがシャラン、と鳴らされた。

「じゃあ、まずはすっごく仲良くなるっていうのは?」
「え、何それ」
「ほら、仲良くなったら押せばいけるとかあるかもしれないじゃん」

題して、仲良し大作戦!と無邪気に言う愛理に、小学生みたいと苦笑する。
けれど、内心では愛理の提案にはっとさせられたのも事実。笑い飛ばしてしまうには、説得力がありすぎて。少し考えてみる、と雅は答えた。

818 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/07(月) 00:34:50.48 0

翌日、何事もなかったかのように登校してきた桃子の姿に、雅はひそかに安堵した。
もしも、昨日の出来事のせいで桃子が現れなかったら。
自意識過剰という言葉が浮かぶ一方で、思考は容易く悪い想像へと転がっていった。
考えても仕方のないことをこね回した結果、昨夜は3時間も眠れていない。
大きなあくびを一つして、雅はちらりと桃子の様子を伺った。
自分の席で、いつものように薄桃色のブックカバーに覆われた文庫本を開く桃子。
彼女が一息ついたタイミングで、雅は今だと席を立った。

「あのさ」
「?! わっ」

近づいてくる雅の気配に気づいていなかったのか、桃子の身体が大きく跳ねた。
それと同時に、彼女の持っていた文庫本がまるで盾のように二人の視線に割り込む。
薄桃色に遮られた視界のせいで、桃子の表情は読み取れない。
しかし、その声色に拒絶の色は含まれていないと踏んで、桃子の前の席に腰掛けた。

「あの、ごめん」
「えっ」

これでも一晩考えたのだ。ない知恵なりに一晩中。
仲良し大作戦なんて名前をつけてみたところで、作戦を考えるのも実行するのも雅自身。
どういう結果が得られれば作戦は成功したといえるのか。
その疑問に答えるためには、雅なりに「仲良し」の定義を考えなくてはならなかった。

「昨日のこと。……ももの都合とか、全然考えてなかった」

ああでもないこうでもないと考えをめぐらせて、今までの自分を、桃子を、思い返して。
よくよく省みれば、桃子のことなんて知っていることのほうが少ないと気がついた。
小学生の頃。入学式のあの日。昨日。
あの瞬間、この瞬間、桃子はどんな表情をしていたのだろう。
甦るのは遠ざかる背中ばかりと気づいて、雅は頭を抱えた。
きっとそれはつまり、今まで追いかけてばかりだったということで。

819 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/07(月) 00:35:13.20 0

「だから……ごめん」
「あ、う、えーと」

こちらこそごめん、と細やかな声がして、二人を隔てる本の向こう側からひょっこりと覗く丸い瞳。
気にしていないということを伝えたくて、雅は本を握りしめる手にそっと自分の手を添える。
昨日と、それよりもっと前のことを振り返るのはここまで。お互いに謝るのもここまで。
今日の本題は、これからの話の方にあるのだ。
それでさ、と前置きをして、雅はぐっと身を乗り出した。

「うち、ももともっと仲良くなりたいんだけど」
「えっ……?」

桃子の瞳が更に丸くなり、触れていた指先は小さく震える。
その手から、すとんと滑り落ちた文庫本は鈍い音を立てた。
伝われ、と半ば祈るように息を吸って、雅は桃子をまっすぐに見据える。

「もものこと、もっと、し、知りたいって思ってる」

大事なところで噛むなんて、なんてカッコ悪いのだろう。
軽く噛んだ舌先がじわりと痛み、思わず俯きそうになるのを抑えた。
桃子の瞼は忙しなく瞬き、形の良い唇は何かを形にしようと動く。
今の自分が桃子の瞳にはどう映っているのか、自分の言葉は桃子にどう伝わったのか。
沈黙が続けば続くほど、良くない想像ばかりが降り積もっていく。
差し出した言葉を引っ込めたくなるのを堪えて、雅は桃子の言葉を待った。
自分たちの周りだけ時間の流れが止まったかのようで、けれど、トクトクと早くなる心音が確実に時を刻む。
桃子が小さく呼吸したのが分かった、その口から漏れ出る息に一際大きく心臓が跳ねて。

「……ぃ、いい、けど」

ぎこちなく首を縦に振りながら発せられた言葉は肯定で、雅は一気に緊張が緩むのを感じた。
吐き出した息に軽い目眩を覚えて、自分でも笑ってしまうほど緊張していたらしいと知った。

「でも、なんで……?」
「それはーー」

それ以上は、無粋なチャイムに遮られて言葉にできなかった。また後で、と雅は急ぎ自分の席へと戻る。
いつもと同じ日常の中で、いつもと違う日常が始まる予感がして、雅は勝手にニヤける頬をそっと掌で押さえた。

603 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:39:49.20 0

*  *  *

「まずさ、夏焼さんっていうのやめない?」

こんなにも休憩時間が待ち遠しかったことはない。普段なら寝てしまう授業も、今日は時計とにらめっこをしたおかげでばっちり起きていた。だからといって、授業の内容が頭に入っているかどうかはまた別の話。

「ぇえっ」

休憩時間になるやいなや飛んできた雅の言葉に、桃子の瞳は大きく見開かれていた。その様子はどこか漫画チックで、どことなく懐かしさを感じさせる。
ここ数日の間に、何度こんな顔を見ただろう。

「うちはさ、もものこと"もも"って呼ぶから」

好きに呼んでいいよ、と笑いかけた先で、彼女の視線は机に落とされた。
髪の毛の隙間から覗く耳が、心なしか色づいているような。

「それとも、呼びたくない?」
「ちがっ! ちが、くて」

からかうつもりで尋ねると、桃子が力いっぱい首を振る。
必死な様子に少しだけ安堵した。

「なん、て……呼んだらいいか」

勝手にあだ名をつけてきた桃子と同一人物なのかと疑いたくなるくらい、しおらしくそんなことがつぶやかれる。

「じゃあさ、みやって呼んでよ」
「……いいの?」
「決まってんじゃん」

"みーやん"と呼んでほしい。あの頃と、同じように。
こぼれ落ちそうになった欲は無理やり呑み込んだ。まずは仲良くなることから、話はそれからだ。

「ね、もも」
「あぅ、え……」

目線は彷徨って。助けを求めるように雅の瞳に注がれる。それに気づかなかったふりをして、呼んで?と促すと目線は再び困ったように逸らされた。

「……ゃ」
「ん?」
「……ぁー」

桃子の小さな両手が彼女の顔を覆う。
何をそんなに照れることがあるのか分からなかったが、雅は辛抱強くその手が開かれるのを待った。

「もーも?」

そっと、促すように。ささやかな助け舟。桃子の華奢な肩が一度だけ、大きく上下して。

「……み、や」

ほとんど息のような声で、けれどそれはしっかりと雅の耳までたどり着く。
温かいものがこみ上げて、とくとくとしたリズムで体をめぐったような気がした。
不意にあふれ出した感情が飛び出そうになって、雅は息を止める。
今、なんて言おうとした?

604 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:40:23.49 0

「あはは、よくできました」
「もう!」

浮かびかけた言葉は、見なかったことにして。誤魔化すように桃子の頭にぽんぽんと触れると、ようやく両手が解かれた。

「マジで顔真っ赤じゃん」
「それは!み、ゃ……が……」

勢いこんで吐き出された音は尻すぼみに消えていく。
あ、二回目。思ったけれど、口には出さないでおいた。
雅の言葉一つで、桃子の表情が、感情が、ころころと目まぐるしく移り変わる。
それだけのことが、なぜかくすぐったくて、柔らかな気持ちが体を満たしていくのが分かった。

「そうだ、今日のお昼――」
「みやー!」

続く言葉は、背中にどすんと追突してきた何者かによって奪われた。

「ちょっと!何すんのさ」
「夏焼雅さん、先生がお呼びですってよ」

苛立ちまぎれに体を捻ると、友人――千奈美のにやついた顔があった。
わざとらしく作った声ではあったが、千奈美の指す先には確かに人影が見え隠れしている。
どうやら、冗談やふざけ半分ではないらしい。

「は?何?」
「さーね。うちは呼んでって言われただけだし」
「あー!もう!」

後回しにもできず、仕方なく雅は桃子の元を離れる羽目になったのだった。

605 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:42:58.87 0

結局その後もタイミングは合わず、昼休みになったと思えば桃子はあっという間にどこかへ姿を消していた。

「ちょ、まじで……?」

お手洗いにでも行ったのかと思ったが、どうやらカバンごと消えてしまっているらしかった。
桃子が昼休みを教室で過ごしている印象もあまりないため、どうやら別の場所で過ごしているのだろうと結論づける。
どうしようと逡巡したのも一瞬、雅は教室を飛び出していた。
桃子の行きそうな場所なんて言われても、検討などつくはずもない。
それも、まだ通い始めて数ヶ月の校舎内。難易度は更に跳ね上がる。
急に駆け出したせいで心臓はバクバクと打ち、呼吸は浅くなって思考は簡単にばらけていった。

「ぅわっ!」

勢い余って地面の凹凸に足を取られて転びそうになったのを、腕を振り回してどうにか回避する。
そのことに少しだけ頭が冷えて、雅は一つ大きく深呼吸をした。
一人になれる場所。飲食可能な場所。
どこだ、と回り始めた思考を、微かな音が遮った。
ピアノの音だろうか、一度だけポロンと鳴らされて。

「もも……?」

自信はない、けれど予感はあった。さっと周囲に注意を向け、その音の出所を探る。
極めて細い糸をたどっていくように空気の振動をたどって歩を進めていくと、行き着いたのは古びた金属の扉だった。
その上に掲げられている教室名のプレートは分厚い埃に覆われ、文字も所々が薄くなっているのが見えた。

「音楽、練習室?」

かろうじて、そう読み取ることができた。
扉に据え付けられた頑丈そうなドアノブには見覚えがある。
いつも練習に使っているスタジオの扉にも、確か同じものが取り付けられていた。
その時、ポロンとまた音がする。やっぱりピアノの音だと確信した。
ということは、この先に誰かがいる。そう意識した瞬間、手のひらがじわりと湿り気を帯びたのが分かった。
けれど、ここまで来て後には引けない。
ええいままよ、と掴んだドアノブからは確かな手応えが返ってくる。
ぐっと体重をかけると扉は軽く軋みながら雅を室内に迎え入れた。

「……っ?!」

果たして部屋には雅が期待した通りの人がいて、そして想像した通りの丸い瞳で固まっていた。
前もこんなことあったっけ、と蘇る記憶。
また追いかけてる、と不意に思った。

606 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:43:58.01 0

「もも、探した」
「え、なんで……」

4畳ほどしかない狭い部屋に、詰め込まれたアップライトピアノが一台。
その前に桃子が座っていて、室内は本当に窮屈という言葉がぴったりだった。
唯一救いなのは、大きな窓が取り付けられていることだろうか。

「や、だって、お昼」

一緒に食べたかったから、と言いかけて、雅は自分の両手の軽さにはっとした。
そのことに気づいたのは、桃子も同じだったようで。
お昼?、ときょとんとされているのが逆に気まずい。

「えー、と……」

まさか今から教室に取りに行くわけにもいかず、雅は左右へ視線を泳がせた。
こんなの、必死すぎて笑っちゃうじゃん。
そう思っても、ツッコんでくれる人間はここには誰もいない。

「そのー、散歩?」

苦し紛れだが言い訳できた、そう思った瞬間に、雅の胃が正直に空腹を訴えた。

「あー、もも、ちょっと多めに持ってるから……その、食べる?」
「う……」

その提案は、おそらく桃子なりの最大限の優しさだったのだと思う。
ガタガタと音がする方を見れば、どこからか登場したパイプ椅子。
ほら、と促されて、今は座る以外の選択肢もなさそうだと素直に雅はそこに収まった。

「どれがいい? 焼きそばパンと、コロッケパンと、メロンパン」

ポイポイと雅の膝の上に並べられるパン達。
どれでもどうぞと差し出され、雅はありがたく焼きそばパンを手に取った。
桃子もまだ昼食を取っていなかったのか、彼女の手にはコロッケパンが収まる。
ピアノを前に、二人で並んでパンを口にする。
しばらくは、ビニールの擦れる音だけが辺りを支配した。

「あれ、そういえば」
「ん?」
「焼きそばパンって、めっちゃ競争率高いやつじゃない?」

一口齧って、気がついた。
みんながこぞって買うので、昼休憩開始数分で売り切れると噂のパンではなかったか。
確かめるようにそう聞くと、えへへ、と桃子が表情を崩す。

「そう、だからいつも休憩になったらすぐ行くの」
「あー、そういう……」

昼休憩になった途端に姿を消した桃子の行動が、ようやく頭の中で繋がりかけたところで、いやいや、とブレーキがかかる。

「え、その後は? 教室戻んないの?」
「んー、まあ戻ることもあるけど」

基本的にはここにいるかな、と呟いたその横顔に、大切な秘密を囁かれたような気になった。
理由は分からないがむず痒い心地がして、雅は手元の焼きそばパンへと視線を逃す。

607 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:44:49.30 0

「こんなとこあるの、知らなかった」
「ももだって、たまたま見つけたんだよ」

校舎内で迷って、偶然見つけたのがこの小さな個室なのだと桃子は言った。
音楽室を更にミニチュアにしたような空間ではあったが、壁にはきちんと吸音用の穴が空いている。
ピアノもきちんと調律されてはいるが、如何せん利用者が少ない。
音楽科の教師がそんなことを嘆くような状況だったため、この部屋の利用許可を得るのは簡単なことだった、らしい。

「静かで、好きなの」
「……確かに」

小規模ながらもさすが防音室といったところか、廊下からの音は一切入ってこない。
まるで、外の世界に二人だけが置いていかれてしまったような、そんな感覚だった。

「ももは、いつもここで何してるの?」

そんな空気も手伝ってか、その問いは自然とこぼれ落ちていた。

「あー……歌、ってる」

歌。
照れくさそうに、桃子の口から出た言葉。
だからピアノの音も単音だったのか、と妙なところで納得をした。いや、そんなことよりも。

「え、歌ってんの?」
「何、いけない?」
「違、そうじゃなくて」

聞かせてほしい、喉まで出かかって、けれどそれは形にならなかった。
今更ながら、あの時の自分を殴ってやりたい衝動にかられ、雅は頭を小さく揺さぶった。
どうしようもない過去の自分に、今も捕らわれたままなのだとこんなところで気づかされる。

「一人で、歌ってるの?」
「んー、誰かに聞かせたいわけじゃないし」

裏返せば、それは一人で十分という意味だった。突きつけられた言葉に、やっぱ無理、という弱音が浮かぶ。
仲良くなったって軽音部に誘うなんて無理だよ、と脳内の愛理に泣きついてみるが、想像上の愛理は良い笑顔で親指を立てるのみ。
無責任なやつめ、とここにはいない愛理にぶつけ、雅は小さく息を吐いた。

「そ、か」

力なく返事をしたが、次の策なんて浮かぶはずがない。
ぷつりと途切れた会話は宙ぶらりんのまま、どうやって繋げばいいか分からなくなった。
弱気だと言われたことが蘇る。本当に弱気だ、自分にしてはおかしなくらい。
どことなく居た堪れなくて、雅は持っていたパンに齧り付く。

608 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:45:21.49 0

「……みやは?」
「へっ? うち?」

そんな状況で、桃子の問いは不意打ちだった。思わず口の中のものをこぼしそうになるのを押さえ、雅は桃子と目を合わせる。
なぜ今、自分に話題が向いたのだろうか。

「うちは、まあ、歌うけど」

バンド、組んでて、中学校で。
片言みたいな自分の言葉が耳から脳へと伝わって、どうしてこんなにぎこちないのかも分からない。

「ロックとか?」
「あー……歌う、よ」

いよいよ桃子の真意が掴めない。
戸惑いながらそう答えると、桃子の表情が微かに和らいだように感じた。

「聞きたいって言ったら、どうする?」
「え? や、その……えぇっ?」

まさか、逆の立場に立たされるとは予想していなかった。
桃子の言葉は、そのままの意味で解釈して良いのだろうか。いや、それ以外の受け取り方はないはずだ、けれど、でも?

「や、いい、けど」

何が聞きたい?なんて、自分でもノリノリみたいな聞き方をしてしまったことは後から気づく。
桃子は心を決めていたかのように、ある曲名を口にした。
なぜそれを、という問いは挟ませてもらえず、桃子の人差し指が鍵盤を叩く。始まりの音、知ってる。

「ごめん、ももピアノ弾けないけど」
「いいよ、よゆー」

こうなったら歌ってやろうじゃん。変な意地なのかプライドなのか、最初の音でスイッチは切り替わった。
1コーラスでいいよね、と勝手に決めて、雅は息を吸う。
息が流れ出して、心拍数は一気に上がる。
妙な高揚感の中で、どうして桃子はこの曲——雅が中学校の時に歌った曲——を指定したのだろう、という疑問はぐるぐると渦巻いた。
いろんな形になって、色づいて、ぎゅっと瞼をつぶると雅は全身の感覚に神経を集中させた。
どんなステージに立つよりも。どんな観客の前で歌うよりも。きっと、緊張したと思う。

609 : 名無し募集中。。。@無断転載は禁止2016/11/14(月) 03:45:42.21 0

最後の一音。息を吐き終えた雅を、パチパチと拍手が包んだ。

「すごい、みや」
「それほどじゃないし……」

たった一人のために歌うなんて、こんなのまるで。転がりかけた思考を、ぐっと引き止める。

「ほら、そろそろ教室戻るよ」
「あ、もうそんな時間?」

パタパタと片付けをしている桃子の後ろ姿に、ふと今しかないという予感がした。

「あのさ、明日も来てい?」
「いいよー……って、えっ?!」

何気ない風を装って口にしたつもりが、桃子が大袈裟に振り向くものだから雅まで大変なことを言ってしまったような気分になった。
それでも妙な空気になるのをとどめようと、改めて同じ言葉を言い直す。
返ってきたのは、緩慢な動作ながらもしっかりとした頷き。
受け入れられたと、とらえていいのだろうか。

「あ、明日も、ここにいる、と思う」
「おっけ、わかった」

また明日、拙いながらも交わした約束。
それはとても大切で、大事で、雅の心をとくんと弾ませた。

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