日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。


(くろだ ながまさ)
永禄11年(1568年)12月3日生まれ、元和9年(1623年)没。

黒田官兵衛孝高の子で筑前50万石の大名。官位は甲斐・筑前守。洗礼名は【ダミアン】である。幼名・松寿丸。

天正5年(1577年)に、荒木村重の説得に向かった父である孝高の人質として織田信長の元へ行き、秀吉に預けられ近江長浜城で幼少期を過ごす。この時、なかなか帰ってこない孝高に疑惑を抱いた信長より殺害命令が下り、竹中半兵衛により長政が匿われ命を救われたと、逸話が残っている。以降、秀吉の天下統一の為の戦に参戦、山崎・賤ヶ岳の戦いで活躍し、河内国内450万石、小牧長久手の戦いの功績により2千石の加増をうける。

天正17年(1589年)、孝高の隠居に伴い豊前6郡ほかを継ぎ、黒田家当主となり、約18万石の大名となる。大名になる前までの長政は、自身が【黒田24騎】の一人であった。


文禄・慶長の役にも参戦。この時、和寧関で戦いをしていた黒田家の先手である栗山利安、後藤又兵衛が明軍4万に急襲され、2人は危急の事により、独断で反撃し3千の兵で撃退した。この報告を受けた長政はすぐさま利安の陣へ駆けつけ、「なぜ、このような危ない戦を勝手にするのか。もしも、そのほうが死んだらわしが生きておられると思っているのか。」と、泣きながら叱ったという話も残る。父同様に家臣を大切にする黒田家の家風は着実に受け継がれていたようである。

慶長5年(1600年)、関が原の戦いでは東軍に属し、徳川家康の会津出兵の先鋒、小早川秀秋ら諸侯の内応工作に努めた。又、関が原の戦いでの戦功も大きく、家康自ら長政の手を取り喜んだといわれる。この事を父・孝高に話したところ、孝高は「その時お前の左手は何をしていたのだ」と戒めたという逸話がある。つまり、家康が長政の右手を取り喜んでいる隙をどうして左手で刺し殺せなかったのか、というわけであった。関が原の戦功により、筑前52万3000石を家康より与えられる。筑前に52万石を与えられた長政は、筑前を【福岡】と命名したことでも有名である。


しかし、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣方への内通を疑われ、福島正則・加藤嘉明などと共に江戸留守居になった為、長男の忠之が病床をおして出陣。元和元年(1615年)の大阪夏の陣には徳川秀忠に属し参戦、天王寺・岡山の陣で戦う。長政のこの時の活躍がなければ、後の歴史が変わっていたといわれる程の戦い振りであったという。又、長政は絵師を連れて参戦しており、このときの戦を絵に描かせている。これが後に言われている【大阪夏の陣図屏風】(または黒田屏風)である。



領内の見地、治水、治安に努め、福岡を発展させ、本丸釈迦の間で領内の政治等について、家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論をする「異見会」を行うなど、戦ばかりが目立ちがちな長政であるが、政治や軍略にも長けた武将であった。一方で少々熟慮断行の気質があったようで、父・孝高にはそれが優柔不断と写ったようである。


元和9年(1623年)没。55歳であった。墓所は福岡の崇福寺。法名は興雲院殿古心道卜大居士である。又、東京都広尾にある祥雲寺にも黒田長政の墓所がある。

「このほどはうき世の旅にまよいきて いまこそかへれあんらくの空」

は、長政の辞世の句である
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