日本の戦国時代に関すること全般。戦国武将や合戦、城、戦国時代に関する資料・書籍等について書いています。

(いまがわよしもと)
永正16年(1519)〜永禄3年(1560)5月19日

氏親の五男として駿府城に生まれる。幼名は万菊丸。
五男だった為、幼い頃に出家をして梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称して禅僧太原雪斎(たいげんせっさい)の弟子となり、善徳寺で修行をする。

天文5年(1536)氏親の跡を継いだ嫡子氏輝がわずか24歳で急死。氏輝には嫡子が居なかった為に次男の彦五郎も急死、京へ登り学んでいたが、義元は氏輝と同様正室の子だったので家督相続の為に駿府へ戻る。しかし、これに黙っていなかったのが三男玄光恵探(げんこうえたん)であった。
義元と玄光恵探の間で花倉の乱というお家騒動が起こることとなる。
義元は6月10日これに勝ち、還俗し名を「義元」に改め、18歳にして今川家9代目当主となる。
花倉の乱での功労者、太原雪斎が、この後軍師となる。

先々代の氏親の叔父が北条早雲だったことから、今川家は北条家と血縁関係で親しかった。しかし、義元は家督を継ぎすぐに武田信虎の娘と結婚をする。
このことに北条氏は怒るが雪斎の活躍により北条・武田・今川の甲相駿の三国同盟が締結される。これにより後顧の憂いがなくなった義元は、三河の松平家を支配化に置き、東海地方に一大勢力を築きあげ「海道一の弓取り」と称されるようになる。

永禄3年5月19日上洛を決意し、信長が家督を継いだ尾張織田家を攻める為2万5千もの兵を引き連れ桶狭間へと侵攻する。
しかし、休息中、大雨で視界がきかないことを利用した信長に奇襲され、立ち向かうが不利な状況を挽回できずに、毛利新助により討ち取られる。
享年42歳。

法名は天澤寺秀峯哲公。
墓所は静岡県大岩町の臨済寺。首塚は愛知県西尾市駒場町にある。

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