689 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2013/05/25(土) 00:50:12.70 0
隣に座ったとき、香水は使ったことない、と言っていた彼女のほうから甘い香りがして、衣梨奈は咄嗟にそちらに振り向いた。
空気の流れでそれに気づいたらしい彼女が振り向き、不思議そうに衣梨奈を眺めて衣梨奈からの言葉を待つ。

「あ、れ? 道重さん…?」
「ん? なに?」

すん、と鼻を鳴らしてさゆみのほうに少し顔を寄せると、やっぱりいつもは感じない甘い香りがする。

「香水? つけてます?」
「え? ううん?」
「あれ? でも、なんかいつもと違う匂いしますよ」
「え、なに、クサイってこと?」
「なっ、ちが、違いますっ」
「ふふっ、嘘だよ。…でもさゆみ、香水とか持ってないし、気のせいじゃない?」
「でもでも、道重さん、なんか、いつもより、いい匂いします」
「いつもより、って」

苦笑いのように小さく笑ったさゆみが衣梨奈と少しだけ距離をとる。
それになんだか少し傷ついて、でも構わずに衣梨奈は距離を詰めた。

困ったように笑って衣梨奈を見つめながらも、強い拒絶の言葉が出ないことで、衣梨奈のほうもそれ以上は近づかない。
お互いにとっての適度な距離、を、衣梨奈のほうも理解しているつもりだ。

690 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2013/05/25(土) 00:51:11.62 0
「…あ、あれかな、バスソルト」
「ばすそると?」
「代謝をよくするための、入浴剤みたいなやつ」
「あー…」

なんとなくわかったが、聞いたことはあっても実際目にしたことはないので、
衣梨奈の脳裏に浮かんだのは、淡い乳白色の浴槽に浸かるさゆみの姿だった。

「たまに、疲れたときとか使うの。んー…、なんていうか、気合い入れみたいな感じ?」
「気合い入れ、ですか?」
「そ。ライブとかももちろんだけど、なんだろ、おまじないっていうか、暗示みたいな」
「…暗示」

さゆみの言葉をいちいち反芻している衣梨奈を見て、くすりとさゆみが笑う。
笑い方は穏やかだが、なんだか子供扱いされたような気がして知らずに唇が尖った。

「今日も可愛い! みたいな感じですか?」
「…ホント、最近のアンタ、結構言うようになったよねー」

反抗するつもりではなかったのだが、思いついたことをそのまま言うと、
穏やかに笑っていたさゆみの口元がニヤニヤと何やら含みが見えるものに変わった。

「でもまあ、そんな感じ。負けないぞー、みたいな気持ちになりたいときとか…。あとは…」

さゆみの言葉がそこで途切れたのは、スタッフの一人がさゆみに声をかけたからだ。
物販撮影の待ち時間が終わって、次はさゆみの番だと知らせに来たのである。

691 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2013/05/25(土) 00:52:50.24 0
「呼ばれたから行ってくんね」
「あ、あの待ってください」
「ん?」

立ち上がりかけたさゆみの腕を咄嗟に掴むと、意外そうな顔でさゆみに振り向いた。

「暗示とか、負けたくないって気持ちになりたいときとか、あと、なんですか? 中途半端になっちゃうと気になります」

ホントのところは、それはどうでもよかった。
衣梨奈自身、どうして引きとめてしまったのかよくわからない。

なんとなく、もう少しだけ、さゆみから漂ってくる甘い香りを嗅いでいたかったのも知れない。

きょとん、とした顔で衣梨奈を見たさゆみが、一瞬ののち、さっきのような含み笑いを見せた。
意地悪くも見える笑い方だったが、どこか儚ささえ窺えるさゆみの微笑みに衣梨奈が思わず息を飲んだときだ。

ゆっくり立ち上がりながら、さゆみは衣梨奈の耳元に、まるで息を吹き込むように囁いた。

聞き届けた瞬間、衣梨奈の顔に一気に熱が集まる。
無意識にそれを隠そうとして両手で顔を覆ったら、そうなることは予想していたみたいに、さゆみはスッと衣梨奈から離れて立ち上がった。

「なーんてね」

本気か冗談かわからなくなる言葉を紡いで、さゆみはくるりと身を翻して行く。
けれど、数歩進んでからちらりと振り向いたさゆみの頬が僅かに朱に染まっていたように見えたのは、衣梨奈の願望だろうか。

さゆみはそのまま、何も言わずに衣梨奈の前からいなくなってしまったけれど。
さきほど耳元で囁かれた言葉が衣梨奈の脳裏で鮮明に再生されて、そしてその意味を考えて、
衣梨奈はまた、顔に集まってきた熱を隠すように頭を抱えた。


『…もっと、生田がさゆみのことを、好きになりますように』




タグ

どなたでも編集できます