瀬能と美春7
初出スレ:2代目442〜
属性:おじちゃんと女子大生
現実は小説のようにはいかないが、事実は小説より奇也と言う言葉もある。
時には思いもよらない事があり、瀬能にとっては、美春との関係が変化した事がそうだ。
春、愛の告白と言うには少しばかり甘さのない、それでも嘘偽りのない言葉を美春に告げてから、美春は以前よりもいっそう、瀬能の元を訪れるようになった。
夏のある日も、美春は瀬能が渡した合鍵で部屋に来ており、瀬能が帰宅すると、カレーの香りに混じって美春の鼻唄が聞こえていた。
「ただいま」
「お帰りー、お疲れ様」
キッチンに立つ美春は、瀬能が帰って来ると、鼻唄を中断させて瀬能の方を振り返る。
常日頃から笑顔の絶やさない美春ではあるが、今日は特に機嫌が良いようだった。
「何かあったのか、鼻唄なんか歌って」
ネクタイを緩め、鞄を放り投げた瀬能は、食事の準備を手伝いながら美春に問う。
美春はにへら〜っと想合を崩しながら頷いて、カレーをよそいつつ口を開いた。
「瀬能さん、今週末は休みだよね」
「あぁ」
「じゃあ、海かプールに行かない?」
野菜がゴロゴロと入ったカレーが二つ、食卓に並べられる。
自分の分のビールと、美春の分のお茶を冷蔵庫から取り出した瀬能は、美春のお誘いに顔を天井へ向けた。
「…………」
「なに、その沈黙は」
「疲れるからヤだなー……とか思って」
「えー」
どちらかと言えば瀬能はインドア派だ。
しかも今は、夏休み真っ盛り。海にしろプールにしろ、家族連れやカップルが多いのは明白で、わざわざ人混みに疲れに行く気にはなれない。
しかし美春は、当然ながら不満そうで、唇を尖らせて食卓に座った。
「せっかく新しい水着買ったのにー」
「そう言うな。たまの休みぐらい、ごろごろさせてくれ」
「気持ちは分かるけどさー」
二人揃って「いただきます」と唱和するが、美春の表情は晴れない。
瀬能だって美春の気持ちは分かる。
しかし大学生の美春と違って、瀬能には比較的自由になる時間は少ない。デートは休日にしか出来ないし、そのデートも瀬能の部屋か映画を見に行くぐらいで、特に何処かに遊びに行った事も無い。
たまには──それこそ、小旅行ぐらいは行きたいとも思うが、それも出来ずに三ヶ月が経過している。
何より、人混みというのが瀬能にとっては苦痛であり、それを知る美春は、暫しぶうたれてはいたが。
「まぁ……仕方ないか。ゆうちゃん達と行こうかな」
カレーを頬張り苦い笑みを浮かべる。
こう言う時、美春の聞き訳の良さは助かる。仲の良い女友達と一緒なら、瀬能もいらぬ心配をせずに済むし、有り難い。
そうしてくれると助かる、と瀬能は口を開き掛けたが、美春は唐突に「あ!」と声を上げて、カレーを頬張った口元を押さえた。
「何──」
「じゃあさ、せめて水着だけでも見ない?」
「……ハ?」
「だって、瀬能さんと遊びに行こうと思って買ったんだもん。瀬能さんに見てもらわなきゃ」
「どう言う理屈だよ」
「あとで見せたげるね」
「聞けよ、ツッコミを」
名案とばかりににこにこと笑う美春に、瀬能は呆気に取られる。
けれど美春は気にする風もなく、大口を開けてカレーを口に運び続ける。
その様子に、さほど深い意味もないだろうと、瀬能も怪訝な表情ながらカレーを口に運んだが。
美春の性格上、それだけで済む筈が無かったのである。
翌日が休みともなれば、美春の帰宅時間にも余裕が生まれる。
普段は九時前には帰宅させるのだが、美春は何のかんのと理由を付けては、終電間際まで瀬能の家に居る事が多くなった。
その事に瀬能はあまり良い顔しなかったが、美春と共に過ごせる時間が少ないのも事実。そう言われてしまえば、返す言葉もなく、瀬能もそれを許容せざるを得なかった。
この日も、美春は翌日の授業が三限からだからと、十時を過ぎても帰宅する様子はなかった。
しかし瀬能は、翌日も七時半には家を出なければならない。
「俺、風呂入るな」
テレビを見ている美春に一声掛けて、瀬能は着替えを手に浴室へと移動した。
バスタオルと着替えを置き、服を脱いで風呂場に入る。
掛け湯のあとに湯に浸かり、親父臭いため息を漏らして、瀬能はのんびりと風呂を楽しむ。
夏場であろうとシャワーで済ませないのは、子どもの頃からの習慣である。
しばらくゆっくりと湯に浸かり、さて体を洗おうと腰を上げた瀬能だが。
「瀬能さんっ」
「うわっ!」
突然、美春が扉を開けて、風呂場へ入って来たのだ。
瀬能は慌てて浴槽に体を沈めたが、美春は平気な顔で中に入る。
その姿は裸ではなく、鮮やかなブルーのワンピースの水着姿。
「おま…な、に」
「水着、見せたげるって言ったじゃない。ほら、可愛いでしょ?」
少しはにかんだように美春は笑うが、瀬能はそれどころではない。
美春は水着を着ているから構わないのかも知れないが、こちらは文字通り完全な素っ裸。下半身を隠そうにも、タオルは美春の傍らだし、洗面器では情けなさ過ぎる。
仕方なく、浴槽にうずくまったまま、瀬能は美春を見上げた。
ナイスボディとは言い難いが、凹凸のある体は中学高校と続けたバスケットのお陰か、程良く引き締まっている。
なのに女性特有の柔らかさを感じ、そのアンバランスさは魅力的だ。
ふと、本能的に感じた思いに、瀬能は慌てて思考を振り払ったが。
「瀬能さん?」
余程、ぼんやりとしていたのだろう。
不思議そうな表情の美春が、ちょこんとしゃがんで、瀬能と視線の高さを同じくした。
「どうしたの? あ、もしかして見惚れてた?」
「馬鹿、いきなりで驚いたんだよ」
冗談めかす美春に、瀬能はいつもの調子で切り返す。
美春も例によって頬を膨らませると、立てた膝で頬杖を突いた。
「なあんだ。せっかく、瀬能さんのために買ったのに」
「ああ……いや、うん、可愛いよ」
「ほんと?」
「ほんと」
どうあっても、可愛いと言わせる美春の手段は分かっている。
ならば、先手を打っておけば、美春も納得するに違いない。
その考えはあながち間違いでもなく、美春はパッと表情を明るくすると、嬉しそうに笑った。
本音を言えば、水着のデザインが可愛いのではなく、水着を着ている事に多少の魔力があるのだが、それは言わない方が良いだろう。
それよりも、体を洗おうとしていた矢先の、突然の美春の乱入。
冬場ならまだしも、夏のこの時期に、いつまでも浴槽には居られない。
美春も、用件が終われば浴室を出るのかと思いきや、水着を買った時の事などを話し始める。
これでは、逆上せてしまうのも時間の問題だ。
「美春」
「ん?」
「体、洗いたいんだけど」
「あ……」
喋る美春の隙間を縫って、そう瀬能が切り出すと、今更ながらに瀬能の様子に気付いたらしく、美春は慌てて立ち上がった。
「ご、ごめん。すぐ出るね」
「ん」
慌ただしく浴室を後にする美春を見送り、瀬能はがっくりと頭を垂れた。
付き合ってまだ三ヶ月。もう三ヶ月。
その間、進展らしい進展も無いのは、ひとえに瀬能の努力の賜物である。
流石に、今日のような不意打ちは少ないとは言え、欲望に流されそうになった事は二度や三度ではない。
それでも瀬能は、美春に手を出す事に躊躇していた。
親友の子どもだからと言うのも理由の一つ。
これにけじめを付けなければ、瀬能はこれ以上前に進む勇気が持てない。
更に加えて、年齢の差故の躊躇いが、瀬能の中にくすぶっている。
「……つっても…流石になぁ」
先ほどの美春の水着姿で、僅かに首をもたげた己自信に情けなさを覚えて、瀬能は深々と溜息を吐いた。
****
それから二週間後。
余りの呆気なさに、瀬能は呆然と扇風機の前に座っていた。
その隣では美春が、授業のレポートに向き合っている。
「……馬鹿ばっか…?」
年季の入った扇風機によって、瀬能の声は散らされる。美春も気付いた様子は無い。
瀬能なりに悩みに悩んだ末、美春との交際を治樹に打ち明けたのは昨日のこと。
酒の席でもあったからか、はたまたお気楽な治樹の性格故か、瀬能が治樹に言われたのはたった一言。
『美春を泣かせたら七代祟る』
それだけだった。
美春の脳天気な性格が、父親譲りとは知っていたが、まさかこれほどまでに呆気ない結末があるなんて、まさに事実は小説より奇也である。
後になって知った事だが、既に美春は瀬能との交際の事を治樹に告げており、治樹は治樹なりに悩んでいたらしいのだが。あっさりと許されてしまった瀬能にとっては、最早どうでも良い事である。
「瀬能さーん、クーラー付けようよー」
辞書を開きながら、ぼやくような声で美春が言う。
長い髪は後頭部で団子に纏められ、そこから覗くうなじは、薄らと汗ばんでいる。
思わず目が行った自分に、瀬能はふるふると首を振った。
どうやら暑さにやられているらしい。
「無理。電池切れたまんま」
「うわっ……じゃ、後で買ってくる」
瀬能の答えに美春は一瞬眉を寄せたが、すぐに諦めたか、くるりとシャーペンを回してレポートに向かう。
ふと見れば、テーブルの上のアイスティーは、すっかり氷が溶けていて、グラスに付いていた水滴が、小さな水溜まりを作っていた。
「美春、新しいの入れるか?」
グラスを引き寄せ問いかけると、美春はレポートから顔を上げ、へらりと嬉しそうな笑みを見せた。
「いいや、後で入れ直すから」
「そっか」
やんわりと断られれば、瀬能も無理強いはしない。
素直にグラスを戻して、また元のように扇風機の前に座り直した。
「瀬能さん」
「んー?」
「ありがとね」
礼を言われるようなことなどしたかと、瀬能は首を捻って美春を見やる。
「お父さんに、ちゃんと言ってくれて。……安心した」
レポートから顔を上げずに、美春は淡々と言葉を紡ぐ。
けれどその表情は、少し照れ臭そうにも見えて、瀬能は知らず笑みを浮かべた。
「けじめけじめ。でなきゃ、こう言う事出来ねぇからさ」
瀬能の言葉に、美春は不思議そうに顔を上げる。
その隙を突いて、瀬能は美春の唇の端に、己の唇を寄せた。
「っ…せ、のう…さん!?」
何が起きたのか理解出来ず、美春は目を丸くして瀬能を見つめる。
そんな美春に、瀬能はにいっと笑いかけると、ぽんっと頭に手を乗せてやった。
「ほれ、早く終わらせろ。でなきゃ、いつまでたっても、クーラー付けらんねぇぞ」
「え……あ……、うん」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、美春はそれでも現状を理解出来ずにいるようで、存外素直にレポートに向き直った。
そんな美春の様子に、まだまだ先は長いかな、と瀬能はひっそりと呟いたが。
その呟きは、夏を謳歌する蝉の声にかき消され、美春に届いた様子はなかった。
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