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【定義】

嘉禎元年(1235)12月に、道元禅師が宇治の観音導利院(後の興聖寺)に、僧堂を建立するために、一般の在家信者から布施を募る、勧進のために書かれた疏である。『建撕記』に収録する。

 稽首和南し敬って、十方の一切の諸仏菩薩賢聖僧衆、天上・人間、龍府八部、善男子・善女人等に白す。一銭の浄信をもって、一所の道場を建立せんと欲する事。
 右、菩薩戒経に曰く、「若仏子よ、常にまさに一切の衆生教化し、僧房を建立し、山林園田に仏塔を立作すべし。冬夏の安居坐禅の処所、一切の行道の処所に、皆これを立つべし。もし爾らざれば、軽垢罪を犯す」と。然して寺院はこれ諸仏道場なり。神丹の仏寺は、天竺の僧院を移せり。日本の精舎もまた、まさに彼を学ぶべし。契徳篤く、国に伝わり、人に施すに処あり。
 道元、入宋し帰朝してより以来、一寺草創の願志、年久しく月深しといえども、衣盂の拄うべきなし。而今、勝地一所を獲たり、深草の辺、極楽寺の内にありて、初め観音導利院と号す。草を薙りし上に未だ叢林ならざるも、この所に甲刹を搆えんと欲す。寺院の最要は仏殿法堂僧堂なり。仏殿は本よりあり、法堂は未だし、僧堂最も切要なり。今ここに建てんとす、その躰たるは、七間の僧宇を立て、堂内は隔てなく、長牀を設け、僧衆集まり住し、昼夜に行道し、暫らくも懈らず。中正に聖像を安きて、僧衆は圍遶して住す。三宝を一堂に帰崇するの儀軌、行じ来たること久し、功徳は多く、仏事も広かるべし。ここに一力もて功を終うるを覓むべしといえども、遍ねく良縁を結ばんがために、広く十方に化せんとす。竺土・漢土のこれ勝躅なり。正法・像法のこれ僧儀なり。檀主の名字を聖像の腹心に納め、よく万字の種智となし、自他の文彩となさん。これに先だちて、箇中に道を得し人あらば、渠をこの衆の導師となさん、あに善知識にあらざらんや。独に人中に進むるのみにあらず、天上・龍宮にも化すべく、仙界・冥府も聴くべし。ただこれ釈尊の転ぜしところの法輪なり。法界の内外に及ぼすことあらん。謹んで疏す。
   嘉禎元年十二月 日
     都勧縁、住観音導利 沙門釈

これを見ると、観音導利院には、仏殿はあったようだが、法堂と僧堂はなく、そこで僧堂を建てたいと発願したことが知られる。また、この僧堂建立の意図については、以下のような想いがあったとされる。
僧堂を立んとて勧進をもし、随分に労する事は、必しも仏法興隆とは思はず。ただ当時学道する人も無く、徒に日月を送る間、ただあらんよりもと思て、迷徒結縁ともなれかし、また当時学道の輩の坐禅道場のためなり。 『正法眼蔵随聞記』巻3−6

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