【定義】
岩手県奥州市水沢区黒石町正法寺にある寺院。現在は認められないが、本来は本山格を持つ寺院で、現在でも「日本曹洞第三の本山・奥の正法寺」という呼称で呼ぶ者もいる。山号と合わせた正しい呼称は「大梅拈華山円通正法寺」といい、堂々たる十字の寺号を持つ。
【内容】
總持寺教団の方向性を定め、中世に於ける日本曹洞宗の発展を基礎づけた總持寺2世である峨山韶碩には、峨山二十五哲と呼ばれる高弟が存在しているが、その上足である無底良韶禅師を開山に仰ぐ正法寺は、その後無底禅師が45歳にて法嗣を得ることなく示寂すると、師である峨山は、その死を悼み同様に法嗣であった月泉?良印禅師に命じて2世として入寺させた。その後は月泉派の中心的寺院として活動することになるが、月泉禅師は無底禅師の塔を拝して嗣法しているという観点から、無底派と月泉派を分けなくとも良いとする見解もある。
貞和4年(1348)に黒石越後守正端・長部重義の外護により開かれた正法寺は、観応元年(1350)に崇光天皇から「奥羽二州僧録日本曹洞第三之本寺紫紅衣着允許」の勅を賜り、嘉吉元年(1441)には、奥羽二州末寺出世の綸旨を受けたため、江戸期までは転衣出世が可能な独立本山として奥州と羽州の寺院を統括し門派を形成した。
現在でも、東北地方や関東地方などに1200ヵ寺余りの末寺を持ち、また茅葺きの本堂などの豪壮な建築でも知られている。
【宗統復古運動との関わり】
先に挙げたように、正法寺開山となった無底良韶禅師には法嗣が無く、そこで法弟である月泉?良印禅師はその塔を拝して正法寺に入ったのだが、ここで、「拝塔嗣法?」が行われており「伽藍法」を重んじる門風が成立したと解釈されることになった。そして、江戸期の宗統復古運動時には当時の住職であった定山?良光が、『正法嫡伝獅子一吼集』を著して、伽藍法に依る相続を伝統としていた正法寺の立場を表明した。
【連絡先】
〒023−0101
岩手県奥州市水沢区黒石町字正法寺129
TEL:0197−26−4041
FAX:0197−26−4107
・公式ホームページ
岩手県奥州市水沢区黒石町正法寺にある寺院。現在は認められないが、本来は本山格を持つ寺院で、現在でも「日本曹洞第三の本山・奥の正法寺」という呼称で呼ぶ者もいる。山号と合わせた正しい呼称は「大梅拈華山円通正法寺」といい、堂々たる十字の寺号を持つ。
【内容】
總持寺教団の方向性を定め、中世に於ける日本曹洞宗の発展を基礎づけた總持寺2世である峨山韶碩には、峨山二十五哲と呼ばれる高弟が存在しているが、その上足である無底良韶禅師を開山に仰ぐ正法寺は、その後無底禅師が45歳にて法嗣を得ることなく示寂すると、師である峨山は、その死を悼み同様に法嗣であった月泉?良印禅師に命じて2世として入寺させた。その後は月泉派の中心的寺院として活動することになるが、月泉禅師は無底禅師の塔を拝して嗣法しているという観点から、無底派と月泉派を分けなくとも良いとする見解もある。
貞和4年(1348)に黒石越後守正端・長部重義の外護により開かれた正法寺は、観応元年(1350)に崇光天皇から「奥羽二州僧録日本曹洞第三之本寺紫紅衣着允許」の勅を賜り、嘉吉元年(1441)には、奥羽二州末寺出世の綸旨を受けたため、江戸期までは転衣出世が可能な独立本山として奥州と羽州の寺院を統括し門派を形成した。
現在でも、東北地方や関東地方などに1200ヵ寺余りの末寺を持ち、また茅葺きの本堂などの豪壮な建築でも知られている。
【宗統復古運動との関わり】
先に挙げたように、正法寺開山となった無底良韶禅師には法嗣が無く、そこで法弟である月泉?良印禅師はその塔を拝して正法寺に入ったのだが、ここで、「拝塔嗣法?」が行われており「伽藍法」を重んじる門風が成立したと解釈されることになった。そして、江戸期の宗統復古運動時には当時の住職であった定山?良光が、『正法嫡伝獅子一吼集』を著して、伽藍法に依る相続を伝統としていた正法寺の立場を表明した。
【連絡先】
〒023−0101
岩手県奥州市水沢区黒石町字正法寺129
TEL:0197−26−4041
FAX:0197−26−4107
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