2.2 改修準備中

地名北西部族地域
公用語英語、ヒンディー語、ウルドゥー語、パシュトゥーン語
首都ペシャワール(部族地域の管理は主に州都で行われる)
最大都市ダッラ・アダム・ケル
知事ムフティー・ビジュリガー
行政単位州政府直轄部族地域
人口5,001,676人
GDP
通貨インド・ルピー



概要

北西部族地域はインド諸州連合北西部のカイバル・パクトゥンクワ州に存在する部族地域。
伝統的な部族法、掟が認められており、政府の法律の下にない部族地域(トライバルエリア)である。そのため、かなり高い独立性を有しており、反政府勢力や武装組織、犯罪組織の拠点となり、密輸や違法な商取引の拠点となっている。
こうしたトライバルエリアの中では比較的アクセスが容易であることや、外国と国境を接していること、部族法がある程度の外国人の居住を妨げないことなどを理由に、インド諸州連合随一の犯罪拠点と化している。行政は「ジルガ」と呼称されている長老会議によって執り行われ、インド政府は介入できない。

歴史

インダス文明

紀元前3300年のインダス文明より、この地は商人が行き交っていたと思われる。
インダス文明はバクトリアやマルギアナの文明とある程度の商業的な関係があったと思われ、ヒンドゥークシュ山脈はその間に位置していた。
この地域はエラムやメソポタミアとバクトリアやマルギアナ、インダスの間を繋ぐ交易圏に取り込まれていたと思われる。

ヴェーダ時代

ヴェーダ時代、部族地域とカイバル・パクトゥンクワはガンダーラの統治下にあった。
ギリシャの文献により言及されているこの地域の住民、パクティアンはおそらくその後のパシュトゥーン人に繋がるものと思われる。

アレクサンドロスの侵略

アレクサンドロス大王はこの地を通過し、インドに攻め入った。彼らはこの地を制圧して自国に編入した。

マウリヤ朝

アレクサンドロスが追い払われ、その後のヘレニズム国家群がこの地への影響力を失うと、インドの多くを支配する大国、マウリア朝がこの地を影響下に置いた。ギリシャ人はわずかな影響力を維持し続けたものの、徐々に弱り切ってしまった。

クシャーナ朝

クシャーナ朝が成立すると、この地はクシャーナ朝の支配下となった。他の王朝同様、この地はあまり重要なものではなかったものの、クシャーナ朝が衰退していく中でもアフガニスタンやインダス渓谷と同様に領有が継続された。

イスラムの到来

イスラム帝国が勃興し、インドへの侵入を開始するとこの地は征服活動にさらされた。ガズナ朝はアーグラ付近までを制圧し、地域の覇権を握った。この時期に部族地域の住民はイスラム教へ改宗したと思われる。

ムガル帝国まで

この地はその後、頻繁に支配者が入れ替わった。ゴール朝の征服後、さらにこの地はモンゴル帝国の支配下となり、さらにイル・ハン国の支配下となった。その後、地域はティムール朝に引き継がれ、さらにムガル帝国がそれを置き換えた。この地はムガルとサファヴィー朝の小競り合いが繰り広げられてきた。

ドゥッラーニー朝

アフガニスタンに成立したドゥッラーニー朝はこの地域のムガルの影響を削ぎ落とした。
ムガル帝国はこの時期にはすでに衰退気味であり、この地域はドゥッラーニー朝の領域となった。

英国の支配

インド全域に触手を伸ばした英国はドゥッラーニー朝よりこの地を奪取した。英国政府は1901年に辺境犯罪規則を成立させ、部族にかなりの自治を与えることによってアフガニスタンとの緩衝地帯とし、部族の不満も和らげた。
1936年3月、一族によって拉致され、強制改宗させたられた少女、イスラム・ビビの結婚を英領インド裁判所が認めない判決を出すと、パシュトゥーン人の不満が爆発した。
ミルザリ・カーン率いる反乱軍はワジリスタン地方を中心としてゲリラ戦を継続し、英国へのジハードを宣言した。
ミルザリ・カーンはペシャワールのパシュトゥーン人運動であるクダイ・キドマタガルのメンバーであったバシャ・カーンなどとともにジルガを開催し、パシュトゥーン人国家(パシュトゥーニスタン)の独立の是非を問う国民投票を要求したが認められなかった。

独立後

インドが独立してもこの地域は一貫して反政府的であった。ミルザリ・カーンはインド政府を認めない姿勢をとったものの、徐々に長老たちはインドに迎合し、ミルザリ・カーンなどの民族運動家は支持を失った。独立後に30ほどの合意が諸部族と締結され、この地域は一応、政府の統制下となった。
1990年代、インド北東部においても厳格なイスラム教の遵守を求めるタリバンの影響力が高まると、この地域にもタリバンは強い影響力を残すこととなった。
インド政府はタリバンに対して基本的には否定的な立場であったにもかかわらず、ベンガルやパンジャーブ、シンドなどの有力者は資金援助を行い、インド政府首班の一部も裏でタリバンを支援するという自己矛盾に陥った。この背景にはインド政府内やインド国民の一部でもタリバン運動がこの地域を安定化させるのではないかという期待が存在したことが大きい。
タリバン勢力の弾圧姿勢が明らかとなるとインド国内では反タリバンの機運が高まった。インド政府は2002年にこの地域に駐屯し、対過激派紛争を開始した。2006年の和平協定によりインド政府はわずかな警備兵を残して部族地域より撤退し、さらに部族民の銃の所持などを認めることとなった。
2014年、テロの増加を受けインド政府は介入を再開し、ワジリスタンの過激派に攻撃を開始した。

人口統計

2017年の調査によると、5,001,676人が部族地域に暮らし、人口増加率は3.21%だった。99.1%はスンニ派イスラム教徒であるが、残り半分はその他の宗派、さらに残った割合はシーク教徒やキリスト教徒、ヒンドゥー教徒である。

経済

北西部族地域は農業を主体とする経済であるものの、競争力に欠け、インド国内では特段貧しい地域である。
現在もインド国内法が及んでいないためあらゆる麻薬の生産や銃の密造が事実上の合法と化しており、これは経済において大きな割合を占めている。

農業

北西部族地域では小麦、トウモロコシ、タバコ、米、テンサイ、ピーナッツ、豆、トマト、多くの果物が栽培されているほか、ケシの世界的な産地の一つである。インド国内法では許可のないケシ栽培は禁止ではあるものの、北西部族地域は法外の地域のため事実上合法である。
栽培されたケシは加工され、アヘンなどとなって密輸される。
家畜の飼育は牛と山羊、羊が主体である。牛乳はこの地域の料理に欠かせないほか、ラーミンと呼ばれる焼肉も食べられている。揚げた山羊はパラウーと呼ばれ、地元の人々に最も愛された食べ物である。

鉱業

この地域ではさまざまな鉱物資源の可能性が期待されており、実際、石炭やクロム、銅、マンガン、金などの埋蔵が確認されているが、調査は進んでいない。

服飾

北西部族地域はさまざまな美しい民族衣装、特に女性の多様なドレスで知られている。山岳地帯であるため村の標高に応じてさまざまな種類の服を見ることができるほか、未婚女性と既婚女性で異なる服飾品を身につけ、アクセサリーも非常に豊富である。特にワジリスタンではインド北東部でみられる一般的な民族衣装と同系統のものはなんでも見つけることができる。
こうした伝統文化はインド国内で人気が高い。

観光

北西部族地域はその特性から観光は容易ではない。治安の悪さから一般の観光客はこの地を避ける傾向にあるが、時折、部族の案内人などを雇い準備を整えた観光客の姿を見つけることができる。
しかし、同時にこの地はさまざまな特別な目的から外国人が集まっている。密造された銃火器が露店で売られ、平然とアヘンや大麻が出回る北西部族地域は特殊な目的の外国人にとって魅力的であり、その治安の悪さにも関わらずこの地に人を呼び寄せている。
一方、インド国内においても近隣のカイバル・パクトゥンクワ州やバローチスターン州、少し離れているもののシンド州、パンジャーブ州、カシミール州の住民にとってはある程度身近な観光地である。
英国統治下でミランシャに作られた要塞や、避暑地として知られるラズマク渓谷などに観光客は集まる。
これらの州には多くのパシュトゥーン人が暮らしており、パシュトゥーン文化を身近に感じている人々も多く、部族地域に入ることに抵抗感を感じないからである。
しかしながら、国内から見ても治安の悪いこの地域では度々テロが発生しており、観光客も犠牲となることが多かったために他の観光地に比べて見劣りする。

社会問題

健康

北西部族地域では人口の半分しか清潔な水にアクセスできず、病院も不足しており、インドの平均的な値の半分の病床数しか存在しない。
住民の多くは未だに現代医療やワクチンなどに懐疑的であり、一部は敵視すらしている。彼らによる反現代医療の攻撃もあり、ワクチン摂取を呼びかけていた車が爆破されたこともあるため、現在でも普及は容易ではない。

教育

北西部族地域は教育の行き届いていない地域であり、識字率はわずかに22%しかない。初等教育も行き届いているとは言い難く、大学は数件しか存在しない。

スポーツ

北西部族地域はその状態にも関わらず、インドを代表するクリケット選手を数人輩出している。
北西部族地域ではクリケットのほか、スカッシュやポロも盛んである。

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