初期のオスマン帝国の兵士1299年に、イスラム教の戦士団を率いていたオスマン・ベイによって建国されたと言われる。(オスマン君侯国)
ムラト一世を刺し違えたとされるミロシュ・オビリチ。オルハンの死後、第3代皇帝に即位したムラト一世は、1362年にエディルネを占領。ブルサから遷都すると共に、エディルネはコンスタンティノープル陥落?までオスマン帝国の首都として繁栄することになる。
ニコポリスの戦いこれを危惧したヨーロッパ諸侯は、1396年に十字軍を結成してオスマン帝国に侵攻するも、ニコポリスの戦いで、逆にバヤズィト率いるオスマン軍に撃退される。
メフメト二世即位後のオスマン帝国
征服帝メフメト二世ムラト二世死後の1451年に第7代皇帝に即位したメフメト二世は、1453年に東ローマ帝国?の帝都であり、千年間の都として栄えたコンスタンティノープルを陥落させ、ここを新首都と定め遷都する。
陥落した千年都市に入城するメフメト二世コンスタンティノープルの陥落後、メフメト二世はシャーリアに従うことを余儀なくされ、コンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。
メフメト二世崩御直前の領土1479年までにはジュノヴァの島々を征服し、エーゲ海、黒海を支配下に置き、「オスマンの内海」と呼ばれるようになるほどまでにオスマン帝国海軍は強くなる。
セリム二世崩御直前の領土エジプトから帰国したセリム二世は、ロードス島攻略に向かうも途中で病死。
壮麗帝スレイマン一世セリム二世の死後、1520年第10代皇帝に即位したスレイマン一世は即位直後に周辺地域の反乱を平定する。
モハーチの戦い1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ二世を討ち取りハンガリー中央部を平定。
第一次ウィーン包囲
バルバロス・ハイレッディン海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とする海賊勢力のバルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。
プレヴェザの海戦彼の率いるオスマン帝国海軍は1538年のプレヴェザの海戦でスペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン一世の時代である。
晩年のスレイマン一世1543年に次男メフメトが病死、1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀反の罪で処刑、同年に末子ジハンギルも病死、1558年の最愛の妻ヒュッレムの死後、1559年に反乱を起こした皇子バヤズィトを1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマンは、1565年にマルタ島への遠征軍を派遣したが失敗、1566年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世が和睦を破りハンガリーを攻撃すると報復のためハンガリー遠征を敢行。
スレイマン没直後の領土(1566年)
オスマン帝国の最大版図(1683年)キョプリュリュ家?が世襲で執政を務めたキョプリュリュ時代、オスマン帝国は着実に領土をさらに拡大させ、国力の面では微かに衰退を見せていたものの、対外戦争では未だにヨーロッパの脅威として君臨した。
詳細は大トルコ戦争を参照。
大宰相カラ・ムスタファ・パシャベオグラードに敗走したカラ・ムスタファは残存兵およそ80,000人を集結させ、迎撃の構えを見せた。
18世紀のイスタンブール18世紀に入ったオスマン帝国は、近代化政策が積極的に推進され、ヨーロッパ世界に遅れまいと帝国も近代化政策を採用することとなる。
マフムト2世19世紀に入った1802年、オスマン帝国でマフムト2世が第30代皇帝として即位する。
アブデュルメジト1世1839年11月、アブデュルメジト1世の「ギュルハネ」勅令によってタンジマート?が布告。
アブデュルアズィズ英国をモデルとした艦船に完全に心を奪われ、英国より技術者を招き、オスマン帝国の海軍エンジニア達に技術を根付けさせ、海軍の近代化に一定の評価を得る。
紅い流血の皇帝 アブデュルハミト2世退位したムラト五世の弟、アブデュルハミトが第34代皇帝アブデュルハミト2世として即位。
立憲派のポスター1926年、メフメト6世の跡を継いだ息子のアブデュルメジ2世?は、文化人肌で世俗的権力に興味がなく、政治は大宰相ら側近に任せるという自由人であった。
若かりし頃のアリー1世1932年のオスマン帝国憲法発布後、正式に国号が「オスマン国」と規定された。
ワラキア州にある工業地帯アリー1世の行った改革によって、国内各地の産業は盛んとなり、元々盛んであったが綿花の生産が大きく向上した。さらにアナトリアの都市、アンタルヤ?に工業地帯(アンタルヤ工業地帯?)が開設するなど、経済は大きく成長し始めた。
油田また原油埋蔵量は世界一とも言えるアムルースクでは、原油の輸出なども国内経済の一翼を担っている。