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ミリタリ関係

米英軍の補給 前線での補給(第二次大戦期)
参照文献リストは「米英軍の補給」末尾にあります。




前線での補給(第二次大戦期)

陸上


 SHAEFの補給部門は当初SOSと呼ばれていたが、上陸前後にCOMZ(Communication Zone)と呼ばれるようになった。ジョン・リー少将はアイゼンハワーの補給担当副司令官とCOMZ司令官を兼ね、1944年2月に中将に進んだ。

 南フランス上陸作戦(ドラグーン作戦)のアメリカ軍戦闘序列を見ると、「quartermaster」 と名のつくトラック部隊が数多く軍司令部直轄になっている。一方、軍団司令部にはそうした部隊はほとんどなく、師団は水陸両用トラックを持ったquartermaster部隊を多数配属されている。おそらく師団のトラック部隊は補給そのものに携わるというより、師団が持つべき在庫を持って上陸する役回りだったのであろう。

 Colley[2000]のp.30には、第35歩兵師団がモルタンからル・マンまでトラックで(2度の目的地変更を経て)42時間かかって移動したことが記されている。他にもそうした例は多い。トラック部隊は命令ひとつ受けるとわらわらと集まって来て、師団単位の部隊を数百キロ移動させた。

 軍が大規模な物資集積所を持ち、軍団を飛ばして師団に物資を送る。軍団は軍団砲兵の活用を中心とする戦闘組織として振舞う。おおよそドイツと同様に、そういう役回りになっていたと思われる。そして軍の集積所まで物資を運ぶことがCOMZの責任であったのだろう。

 トラック部隊の兵士たちは、陸軍兵士として小銃の扱いなどを含む16週間の基礎訓練を受けた。戦前の計画ではトラック4台に1台は12.7mm機銃を摘むことになっていたので、12.7mm機銃の取り扱いについて一部の兵士は講習を受けた。結局実際にはほとんど装備されなかった(Colley[2000]、p.76)。

 典型的なトラック中隊は黒人の兵・下士官150名、白人士官5名から成っていた。3個小隊×トラック16台であった(Colley[2000]、p.76)。Colley[2000]には小隊のことをコンボイと呼んでいる個所があるが、Ware[2007]、p.43によると各中隊は常にまとまって行動したし、中隊単位でいろいろな命令を受けた。小隊でバラバラになると再集合は難しかったであろうから、コンボイとは中隊のことだと考えていいだろう。定数は48台であるが、整備などで欠員があり、実勢は40台程度が標準的だった。また、中隊長がジープで並走した。コース内での脱落車とはサン・ローで合流できた。

 トラックそれぞれにドライバーはひとりしかいなかったので、輸送部門の計画者たちは1943年のうちから交代要員を配属するよう要求していた。5600人が140個トラック中隊に対して転属させられたが、トラックなど運転したこともない兵員が多く、即戦力とは程遠かった(Ware[2007]、p.16)。

 D+15以降のノルマンディーでは、ゴールド・ビーチとオマハ・ビーチの中間にあるポール・アン・ベッサンに停泊したタンカーから燃料をくみ出す施設が作られ、少し内陸のEtrehamに作られたMont Cauvinと呼ばれる貯蔵・積み出し施設までパイプラインが作られた。1944年8月になると、イングランドのワイト島からシェルブールまで海底パイプラインを敷くPLUTO計画が実施されて、ポール・アン・ベッサンの施設は秋以降縮小された。後にカレー地区にも海底パイプラインが設置された。


Red Ball Express

 パットンの第3軍は、鉄道に沿わず大回りのコースを縦深突破したため、集中的なトラック輸送が必要になった。これに参加した514th Q.M. Truck Regimemt(Colley[2000]の著者が属した部隊である)にはリエナクターのページがあり、その様子をうかがい知ることができる。※なくなった。

 514th Q.M. Truck Regimemtには12個中隊が属しており、C中隊は3903rd Q.M. Truck Companyであり、同様にI中隊は3909th Q.M. Truck Companyであった(Colley[2000]、p.5)。そうだとすれば、中隊番号は3901〜3912であったと推測できる。連隊番号と中隊番号にまるっきり関連性がないのは、日本軍の独立混成旅団と独立歩兵大隊の関係を思わせる。

 COMZの権限範囲は地理的にも職掌的にも終戦まで不明確な部分があって担当者たちを苦しめたが、とりあえずパットンを何とかしないといけないので、COMZはRed Ball Expressと呼ばれる仕組みを作り上げた。これはトポロジー的には一方通行のハイウェイが作る無限軌道である。サン・ロー付近から発したハイウェイは反時計回りにパットンの第3軍とホッジスの第1軍に達し、それぞれに補給物資を渡すとノルマンディーに折り返した。8月29日のピークには132個トラック中隊に属する5958台のトラックがこれに参加した(Huston[2004],pp.526-527)。Red Ball Expressは8月25日から11月16日まで続いた(Colley[2000]、p.xiv)。また侵攻進捗に伴い、前半と後半ではコースが異なっている。

 COMZの下にADSEC(Advance Section)という身も蓋もない名称の司令部がおかれ、最前線での後方支援、特に補給をもっぱら担当した。後方司令部を置くだけなら大なり小なりどの国もやるのだが、実際に資源を裁量させるのがアメリカである。護衛艦艇を連合艦隊司令部にガメさせたりしないのである。COMZ Motor Transport Service (Motor Transport Divisionと呼ばれた時期もあったがのち改称)のもとにMTB(motor transport brigade、ASMTBとも)が置かれ、これが90個トラック中隊を集中管理した。そしてCOMZ MTSが丸ごとADSECの指揮下に入ったのである(Ware[2007]、pp.30-33)。ADSECがサン・ローで各トラック中隊(コンポイ)の仕事を差配した(Ware[2007]、p.42)。


 動員されたアメリカ軍人のうち黒人は10%に満たなかったが、Red Ball Expressのドライバーは3/4が黒人だった(Colley[2000]、p.xv)。なおRed Ball Expressに参加する車両で、前部に赤丸を付けている車両の写真はだいたい現代のリエナクターが持っている車両で、当時の写真では車両はほとんどこんなものをつけてはいないから、たぶんこんな細部に統一など取れていなかったに違いない。ただし各車両は、コンボイの番号や走行順序を示す赤いディスクを受け取り表示する決まりだった(Ware[2007]、p.64)。車両はもとよりタイヤなどの部品も次々に摩耗し、手当たり次第に部隊から状態の良いものを分捕って台数を確保する状態だった。

 コンボイの先頭車両は青旗、最後尾車両は緑旗を立てた(Ware[2007]、p.64)。

 陸軍輸送部所属兵士の兵科記章はたまたま黄色地に赤丸だったが、この記章自体はRed Ball Expressとは関係ない。ただし復員軍人でそう信じているものも少なくない。

 ノルマンディー上陸作戦実施前のプランでは、D+90(9月上旬)に連合軍がセーヌ川に達したところで、ブレスト、ロリアンなどブルターニュ半島諸港を補給源に加え、その付け根にあたるレンヌとラヴァル周辺に補給拠点を築く計画だった(Colley[2000]、p.22)。パットンの攻勢は7月26日に発起され、ヒトラーが8月2日に発した反撃命令に応じてクルーゲのリュティヒ作戦は8月6日に始まった。この数日のラグは、ブラッドレーがパットンに命じたドイツ軍後方(東)への回り込みと交錯しており、北からのイギリス軍進出と相まって8月19日にファレーズ・ポケットの包囲が完成した。パットンが「命令を無視して」パリへの進撃を始めたと書くのは酷すぎる表現であろう。ともあれ、ドイツ第7軍の崩壊というチャンスは目の前にあり、計画にない急ごしらえの工夫が必要だった。

 D+90までにCOMZが補給の責任を持つことになっていたのは12個師団だったが、実際には16個師団が作戦に参加していた(Colley[2000]、p.22)。つまり、7月中旬までのこう着を打開するため、連合軍は予定以上の戦力を上陸させていたのである。いったん上陸した第26、第95、第104歩兵師団は橋頭保近くに止め置かれ、ローカルな警備任務以外は実行できない状態にされ(demobilized)、その車両から40個トラック中隊が編成された(Ware[2007]、p.54)。

 当初のRed Ball Expressは、フランス中部、パリ南西80kmほどのシャルトルが目的地だった。ここに第3軍が物資集積所を構えていた。ところがせっかく設定した順路にトラックがあまり来ないので原因を調べると、命令書に「定められたルートを通れ」と書かれていないのが原因だとわかった。戦場の霧は後方も覆っていた。

 サン・ローは出発点であり、入退場ゲートだった。港湾の占領・復旧は連合軍の思惑通りに行っておらず、ユタ・ビーチなど上陸海岸に陸揚げさせる物資の比率が高かったので、Red Ball Expressに組み込まれた車両がしばしばそこまで物資を取りに行く必要があった。

 燃料、弾薬、食料を運ぶのが主任務のはずだったが、そうした重要物資に混ぜてあらゆる物資がこのルートに託された。ただし重要物資であろうとなかろうと、荷扱いは乱暴だった。また制限速度25マイルのところ、50マイルは当たり前で、60マイルで走る車両も多かった。修理は大問題で、救援を求める車両が頻出するので位置特定のために観測機が飛んでいる場所すらあった。急カーブ個所はトラックの残骸でいっぱいだった。重量制限もどこへやらだった。運転手たちは走り続けながら助手席と交代するのがうまくなった。

 鉄道の結節点であるパリが確保されると、鉄道輸送事情が好転し、9月15日には第3軍が利用できる鉄道荷降場(railhead)がベルダンにできた(Ware[2007]、p.55)。パリ南20マイルのトラップに荷積場ができ、レッドボールエクスプレスでノルマンディーから運ばれた荷物が鉄道に載せられ、さらに前線へ運ばれた(Ware[2007]、pp.56-57)。

 同種のもっと小規模なトラック輸送ルートはいくつも作られた。例えば1944年9月〜10月、マーケット・ガーデン作戦中のイギリス第21軍集団のために、バイユー(ポール・アン・ベッソンはこのすぐ近く)からブリュッセルまでRed Lion Expressが設定された。ブリュッセルから先は鉄道に積み替えられて前線に運ばれた(Ware[2007]、pp.93-94)。鉄道は首都から放射状に伸びるもので、その方向に沿わない物資の移動はトラックでやるしかなかったということである。

海上(海軍部隊向け補給)


 1941年12月のアメリカ海軍戦闘序列を見ると、補給・整備に関するアジア艦隊、太平洋艦隊、大西洋艦隊の担当部隊名はそれぞれService Train、Base Force、Trainとなっている。それぞれ明確な指揮官と旗艦を持っている。なおBase Forceは日本海軍の「根拠地隊」の訳語としてよく用いられるが、もちろん御覧のように別物である。とりあえず仮訳を「艦隊補給部隊」としておこう。

 こうした艦隊補給部隊は工作艦を含んでいたが、潜水母艦などのテンダーを持つ艦種に対してはテンダーに補給をするだけで、整備などは原則として直属のテンダーが行った(McGee & McGee (eds.)[2009]、p.97)。原則として海軍航空隊の補給系統はその他の海軍とは別立てだったが、航空母艦も一種のテンダーであるから、燃料など一般的な海軍の補給品については艦隊補給部隊が供給した(同書、p.98)。太平洋艦隊の艦隊補給部隊は1942年にComServPac(service forces, Pacific Fleet)と改称され、William L. Calhoun少将(のち中将)が開戦から終戦までこれを率いた(同書p.101)。

 開戦時の太平洋艦隊補給部隊編制表を見ると、部隊は4つの戦隊(service squadron、しばしばServRon)に分かれている。
  • 第2戦隊 タグボート(AT)、工作艦(AR)、病院船(AH)が属する。
  • 第4戦隊 兵員輸送船(AP)が属する。
  • 第6戦隊 この時点では艦船が属していないが、標的射撃訓練に関する一切と、一部の教育機関をつかさどる。
  • 第8戦隊 弾薬・食料・燃料の補給を任務とし、タンカー(AO)や各種輸送船が属する。

 開戦後、第4戦隊は水陸両用部隊として別にまとめられ欠番となった。代わって、Fleet Maintenance Office(艦隊整備部)が加わり、艦船の修理・点検・改装を取り仕切ることとなった(同書pp.102-103)。

 1943年11月、途絶えていた第4支援戦隊が復活し、艦隊に追随して補給などの支援を行う部隊となった。1944年になって第10支援戦隊が新編成されて第4支援戦隊を吸収し、浮きドックなどを備えた洋上補給基地部隊として大戦末期の侵攻を支えた(同書pp.124-125)。

 1940年にはカリフォルニア州オークランドに海軍補給廠(depot)が設置され、真珠湾、サンディエゴ、ベイヨン(ニュージャージー州)に加えて4つ目となった(同書、p.99)。
海軍輸送隊(NTS)

 第2次大戦当時、日本海軍の海軍経理部に相当する組織はBureau of Supplies and Accounts(BUSANKA)だった。1942年1月、BUSANKAのもとに海軍輸送隊(Naval Transportation Service)がつくられた。ただし「海運」の項で述べたように、戦時海運管理庁(WSA)が原則的にすべての民間輸送船運航を取り仕切ることになったので、海軍輸送隊の主な仕事は「海軍に輸送の必要が生じたとき、輸送船の都合をつける窓口」となった(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.139-141)。また、特設艦艇に改装する民間船舶を購入するのもNTSの業務だった。

ガダルカナル作戦期の海軍補給

 ミッドウェイで勝利したもののヨークタウンを失い、アメリカ海軍が太平洋で使える航空母艦はエンタープライズ、ホーネット、サラトガのうち2隻となった。3隻いるが2隻なのである。日本がミッドウェイへのパイロット補充で無理な引き抜きをしたことは(どうも源田実への反感がらみで誇張があるようだが)よく言及されるが、アメリカもサラトガの航空機とパイロットをヨークタウンに補充した状態だった。だからサラトガが第一線に出て来るのと入れ替わりに、ホーネットは整備・改装と訓練に入らざるを得なかったし、6月にワスプが大西洋戦線から急きょ呼び寄せられたのである。

 そのような状況であるから、艦隊司令部の優先順位管理は確固たる方針を持たず、7月6日に日本軍がガダルカナル島で飛行場建設を開始したとき、アメリカ軍にははっきりした反攻の予定表はなかった。

 最初の陸海軍合同補給計画は1942年7月につくられたが、それが具体的・実質的な内容を持つまでにはしばらくかかり、それまでは陸軍・海軍などがばらばらに補給の努力をしていた。特に陸軍はサンフランシスコからガダルカナル分の補給品を直接送ることになった(Gropman, Alan(ed.)[1997]、pp.314-315)。のち1943年3月に基本補給計画が合意され、中部太平洋では陸軍太平洋方面司令部(CINCPAC)が中心となって補給に関する指揮系統を一本化することがきめられた。9月にはCINCPACに補給部門ができ、この作業に当たった(Gropman, Alan(ed.)[1997]、pp.319-320)。マッカーサー元帥のいる南西太平洋方面では、補給の相互融通があっただけで、補給に関する指揮権統一はできなかった。

 1942年秋になって、エスピリッツ・サント島とヌーメア(ニューカレドニア島)に弾薬庫が作られ、やや規模の小さいものがエファテ島(エスピリッツ・サント島の少し南で、現在はバヌアツ共和国の首都になったポートビラがある)にも作られた。重油と軽油はヌーメア、ガソリンはエファテに貯蔵施設がつくられたが、航空燃料に関しては130万ガロンの容量を持つガダルカナルの貯蔵施設が他を圧した。1943年までにエスピリッツ・サント島に近い小島のAore島にさらに燃料貯蔵施設が作られ、1943年11月になってやっとタンカーに頼らず、貯蔵された燃料から艦隊に燃料補給ができるようになった(McGee & McGee (eds.)[2009]、p.111)。なおAore島は現在でもリゾート地だが、海軍兵員のレクリエーション場としてソフトボールグランド9面、硬式野球場1面、バスケットボール場3面など膨大なレクリエーション施設がつくられた(同書p.115)。

 補給を中心とする海軍の後方支援部隊として、アメリカ海軍は大規模基地向けのLION、小規模基地向けのCUB、航空部隊向けのACORNを用意した。太平洋戦線においては、これらは1944年ごろになると第10支援戦隊(ServRon 10)によって置き換えられていく。ガダルカナル作戦期には、エスピリッツ・サント周辺にLION-1とCUB-1が立ち上げられていた。この3種類の部隊にシーピー(海軍建設隊)が大隊ないし中隊単位で配属された。後方支援部隊で最初にガダルカナルにやってきたのはCUB-1に属する先遣隊だった

 浮きドックARD-1は1942年秋にはヌーメアで活動しており、ここが艦船修理の拠点となっていたが、ARD-1のクレーンは3500tまでしか釣り上げることができなかったので、大型艦船については限られた修理しかできなかった。ARD-1は1943年夏までここで活動した(同書p.116)。

 1942年9月、現地を視察した陸軍航空隊司令官のアーノルド大将は、海軍がこの戦域を自分の戦場と考えていて、ガダルカナル島の保持(に必要な補給確保)に十分な注意を払っていないことをルーズベルトに報告した。ルーズベルトは10月になって、ガダルカナル島を保持するよう統合参謀本部に念押しの指令を出した。これはマッカーサーによるオーストラリア方面への増援・補給要請や、北アフリカ作戦との資源の奪い合いにおいて、ガダルカナル島を有利にした(Gropman, Alan(ed.)[1997]、p.315)。


海上(陸軍部隊向け補給)



 (イギリス商船隊の分も含めて)アメリカ陸軍・海軍の割り当て船腹が決まると、統合参謀本部がそれに何を乗せるかを決定した。合衆国大統領に対する総司令官参謀総長として、前海軍軍令部長のリーヒ大将(のち元帥)が1942年7月から統合参謀本部に出仕していたから、政府の意向はなるべくこのルートで[表立った大統領裁定を記録に残さず]伝えられた。

 特に太平洋では、1942年7月のものを嚆矢として、陸海軍中央協定に類する合意が何度となく結ばれ、結び直された。ニュージーランドやオーストラリアからの陸海軍共同調達委員会がニュージーランドのウェリントンに置かれた。

 1943年5月には、兵員移動の目的地に関する陸海軍統一優先順位表が合意され、同時期にサンフランシスコで陸軍・海軍・WSAの船舶運航に関する非公式な協議機関が発足した。この協議機関そのものは拘束力のある決定ができないのだが、ここでの協議は資源の有効活用に有益だった(McGee & McGee (eds.)[2009]、pp.340-347)。

 なおGropman, Alan(ed.)[1997]のp.312によると、1942年4月以降に結ばれた(従ってガダルカナルの戦い以降を考慮に入れない)最初の合意事項では、「サモア以外の島嶼部兵員の糧食は陸軍、燃料とローカルな調達品は海軍、それ以外はそれぞれの所属組織で何とかする」となっていた。

 例えば1943年1月に、アメリカ陸海軍に割り当てられているアメリカ船舶の輸送能力(海軍特設艦艇と1000トン未満の船を除き、貨物船・客船を問わず重量トンで評価した能力)は全体の54%だった。残りが民需というわけではなく、レンドリース関係が大半である。ところがそのうち、陸海軍が自分で所有・雇庸している船腹はわずか27%(全体の15%)でしかない。残りはWSAから「必要に応じて」割り当てを受けるのである(McGee & McGee (eds.)[2009]、p.347の表より)。すでに述べたようにWSAは海軍大学校も出ていない、日本であれば造船中将にあたる地位のランド中将が仕切っていて、大統領直属なのだから、シビリアンコントロールもここまで来ると天晴れというほかない。

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