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降誕会〈2010.04.08〉
釈尊のお生まれになった日とされる4月8日、各仏教寺院では花御堂(はなみどう)に祀られた誕生仏に甘茶をかけて釈尊の誕生を祝う法要が行われます。この法会は「降誕会」、「仏生会」、「花祭り」とも言われ各地で親しまれていますが、真如苑でも毎年4月8日に「降誕会」を修します。本年は、岩手県盛岡市にある東北本部で苑主・伊藤真聰の導師による「降誕会」を厳修。東北本部の法要の模様が、全国の本部支部寺院に衛星中継されました。
降誕会が行われるこの日、釈尊降誕の時に竜王が甘露の雨を降らせて御身を浄めたとの伝承に由来して、釈尊誕生の姿を表した「誕生仏」に甘茶をかけて供養します。
全国で参座した教徒もそれぞれの本支部で甘茶供養を行い、釈尊の生誕を寿ぎながら、自らの心と実践に仏の慈悲の心を表していくことをお誓いいたしました。
釈尊のお生まれになった日とされる4月8日、各仏教寺院では花御堂(はなみどう)に祀られた誕生仏に甘茶をかけて釈尊の誕生を祝う法要が行われます。この法会は「降誕会」、「仏生会」、「花祭り」とも言われ各地で親しまれていますが、真如苑でも毎年4月8日に「降誕会」を修します。本年は、岩手県盛岡市にある東北本部で苑主・伊藤真聰の導師による「降誕会」を厳修。東北本部の法要の模様が、全国の本部支部寺院に衛星中継されました。
降誕会が行われるこの日、釈尊降誕の時に竜王が甘露の雨を降らせて御身を浄めたとの伝承に由来して、釈尊誕生の姿を表した「誕生仏」に甘茶をかけて供養します。
全国で参座した教徒もそれぞれの本支部で甘茶供養を行い、釈尊の生誕を寿ぎながら、自らの心と実践に仏の慈悲の心を表していくことをお誓いいたしました。
〈2009.04.08〉
釈尊誕生の日とされる4月8日は、花まつり、灌仏会、降誕会、仏生会などと呼ばれ、各仏教寺院において盛大に誕生がお祝いされます。真如苑でも、応現院において苑主・伊藤真聰導師のもと降誕会が弁才尊天供に併せて執行され、全国の本部支部に中継されました。今年は、来賓にロンドン大学東洋アフリカ研究所日本宗教研究センター長ルチア・ドルチェ先生、カリフォルニア大学バークレー校日本学研究所所長ダンカン隆賢ウィリアムス先生をお迎えし、参座した教徒とともに釈尊の誕生をお祝いしました。
釈尊の誕生を、自らの”心の誕生日”として開祖の願う、生きながらにしての成仏の世界=常楽我浄を体感できる一人ひとりを目指し、人間本位の心からみ仏本位の心に生まれ変わることを誓いました。また、釈尊誕生の折りに竜王が冷たい雨と温かい雨を降らせて釈尊の身を浄めたという故事にならい、花御堂の誕生仏への甘茶供養が各依処で行われました。
釈尊誕生の日とされる4月8日は、花まつり、灌仏会、降誕会、仏生会などと呼ばれ、各仏教寺院において盛大に誕生がお祝いされます。真如苑でも、応現院において苑主・伊藤真聰導師のもと降誕会が弁才尊天供に併せて執行され、全国の本部支部に中継されました。今年は、来賓にロンドン大学東洋アフリカ研究所日本宗教研究センター長ルチア・ドルチェ先生、カリフォルニア大学バークレー校日本学研究所所長ダンカン隆賢ウィリアムス先生をお迎えし、参座した教徒とともに釈尊の誕生をお祝いしました。
釈尊の誕生を、自らの”心の誕生日”として開祖の願う、生きながらにしての成仏の世界=常楽我浄を体感できる一人ひとりを目指し、人間本位の心からみ仏本位の心に生まれ変わることを誓いました。また、釈尊誕生の折りに竜王が冷たい雨と温かい雨を降らせて釈尊の身を浄めたという故事にならい、花御堂の誕生仏への甘茶供養が各依処で行われました。
時報596
真如教主さまの常住祭から時を経ずして四月八日には、釈尊の降誕会と喜びの法会が続きます。百花繚乱{りょうらん}の藍毘尼{るんびに}苑を模して花御堂を飾り、故事にちなんで、誕生仏に甘茶供養が行われますが、藍毘尼苑とはどのような所でしょうか。
釈迦族はヒマラヤの麓、現在のインドとネパールの国境地方に小さな国を営んでいました。シュッドーダナ(浄飯)王の妃マーヤーは懐妊し、臨月が近づくと、お産をコーリヤ国の実家でするため、里帰りしました
。
途中、実家に近いルンビニー苑で休息の一時を過ごされた折に、太子が誕生されたと伝えられます。当時は、たくさんの花々や果樹が植えられ、小川が流れ、池や泉もある、とても美しい遊園だったようです。釈迦牟尼仏陀がお生まれになってからは聖地として大切にされ、紀元前三世紀にはアショーカ王も参詣して記念の大石柱を建立しています。
経典にも「修行完成者はここでお生まれになったーーと信心のある人々が訪ねて見て感激する場所がある」と説かれ、後世の人々が仏陀のお相を想い起こして、心の浄められる四大聖地(降誕、成道、初転法輪、入滅)に挙げておられます。
教えを求めて中国から命がけの旅をした法顕は、この地に参拝し、釈尊が産湯を使った池と井戸が保存されていることを伝えています。後に同じくこの地を訪れた玄奘三蔵も著書に、アショーカ王の建てた石柱があり、その上に馬の像が作られていたが、落雷のために中ほどから折れていたことを記録しています。
しかし、イスラム勢力の手による破壊はここにも及び、十四世紀以降は巡礼の記録も絶え、その後、遺跡は廃墟と化し、密林の中に埋もれてしまいました。
再び日の目を見だのは一八九六年で、インド国境に近いネパールのルンミンデイという農村から、土中に埋まったアショーカ王の石柱が発見されたのです。
そこには「神々に愛でられ温容ある王は即位二十年に、この地を訪れ供養を捧げる。仏陀釈迦牟尼の生誕の地であるから馬の石像を造り、石柱を建立した」と法勅文が刻まれ、折れた柱も玄奘の記述と一致します。不明であった仏祖降誕の聖地がようやく明らかになったのです。
一九七〇年にはここを復元、開発する委員会が国連に設置され、著名な日本の建築家のデザインに基づいて、整備と各国寺院の建設が進められています。
発掘されたマーヤー堂の本尊は、マーヤー夫人がアソーカ樹(無憂樹)の枝に右手を伸ばし、その下に生まれたばかりの太子が天上天下を指さしている石像ですが、表面が無残に削られていたため、仏滅二五〇〇年祭に復元された大理石のレリーフ(写真)が隣に祀られています。
現在、釈尊の行跡に接するため、世界の仏教徒がこの聖地に参詣していますが、かつて、インドの仏跡を訪れた真如教主さまは「この旅で強烈に感じたことは、神の国日本に生まれ、仏のみ教えに接し得た我身の有難さであった」と、記述されています。
真如教主さまの常住祭から時を経ずして四月八日には、釈尊の降誕会と喜びの法会が続きます。百花繚乱{りょうらん}の藍毘尼{るんびに}苑を模して花御堂を飾り、故事にちなんで、誕生仏に甘茶供養が行われますが、藍毘尼苑とはどのような所でしょうか。
釈迦族はヒマラヤの麓、現在のインドとネパールの国境地方に小さな国を営んでいました。シュッドーダナ(浄飯)王の妃マーヤーは懐妊し、臨月が近づくと、お産をコーリヤ国の実家でするため、里帰りしました
。
途中、実家に近いルンビニー苑で休息の一時を過ごされた折に、太子が誕生されたと伝えられます。当時は、たくさんの花々や果樹が植えられ、小川が流れ、池や泉もある、とても美しい遊園だったようです。釈迦牟尼仏陀がお生まれになってからは聖地として大切にされ、紀元前三世紀にはアショーカ王も参詣して記念の大石柱を建立しています。
経典にも「修行完成者はここでお生まれになったーーと信心のある人々が訪ねて見て感激する場所がある」と説かれ、後世の人々が仏陀のお相を想い起こして、心の浄められる四大聖地(降誕、成道、初転法輪、入滅)に挙げておられます。
教えを求めて中国から命がけの旅をした法顕は、この地に参拝し、釈尊が産湯を使った池と井戸が保存されていることを伝えています。後に同じくこの地を訪れた玄奘三蔵も著書に、アショーカ王の建てた石柱があり、その上に馬の像が作られていたが、落雷のために中ほどから折れていたことを記録しています。
しかし、イスラム勢力の手による破壊はここにも及び、十四世紀以降は巡礼の記録も絶え、その後、遺跡は廃墟と化し、密林の中に埋もれてしまいました。
再び日の目を見だのは一八九六年で、インド国境に近いネパールのルンミンデイという農村から、土中に埋まったアショーカ王の石柱が発見されたのです。
そこには「神々に愛でられ温容ある王は即位二十年に、この地を訪れ供養を捧げる。仏陀釈迦牟尼の生誕の地であるから馬の石像を造り、石柱を建立した」と法勅文が刻まれ、折れた柱も玄奘の記述と一致します。不明であった仏祖降誕の聖地がようやく明らかになったのです。
一九七〇年にはここを復元、開発する委員会が国連に設置され、著名な日本の建築家のデザインに基づいて、整備と各国寺院の建設が進められています。
発掘されたマーヤー堂の本尊は、マーヤー夫人がアソーカ樹(無憂樹)の枝に右手を伸ばし、その下に生まれたばかりの太子が天上天下を指さしている石像ですが、表面が無残に削られていたため、仏滅二五〇〇年祭に復元された大理石のレリーフ(写真)が隣に祀られています。
現在、釈尊の行跡に接するため、世界の仏教徒がこの聖地に参詣していますが、かつて、インドの仏跡を訪れた真如教主さまは「この旅で強烈に感じたことは、神の国日本に生まれ、仏のみ教えに接し得た我身の有難さであった」と、記述されています。
〈2010.12.08〉
釈尊が悟りを開いた日とされる12月8日は、応現院で「成道会(じょうどうえ)」が行われました。
成道会は、釈尊お誕生の降誕会(ごうたんえ)と、釈尊ご入滅の涅槃会(ねはんえ)とともに三仏会の1つとされ、全国の仏教寺院でも「成道会」が行われます。真如苑でも、苑主・伊藤真聰を導師に法要が修められました。
釈尊が悟りを開いた日とされる12月8日は、応現院で「成道会(じょうどうえ)」が行われました。
成道会は、釈尊お誕生の降誕会(ごうたんえ)と、釈尊ご入滅の涅槃会(ねはんえ)とともに三仏会の1つとされ、全国の仏教寺院でも「成道会」が行われます。真如苑でも、苑主・伊藤真聰を導師に法要が修められました。
〈2009.12.08〉
釈尊が悟りを開いた日とされる12月8日、応現院(東京都立川市)では「成道会」が行われました。成道会は、臘八会(ろうはちえ・臘=12月の意)ともいわれ、降誕会(釈尊誕生)、涅槃会(釈尊入滅)とともに三仏会として釈尊へ感謝を向ける大切な法会です。
導師を務めた苑主・伊藤真聰は、法要後、釈尊が悟りを開かれた様子を分かりやすく説明し、悟りを開いた釈尊が天部の神の勧めでその悟りを多くの人に説いた(初転法輪)ことから、私たちも釈尊に学び、自分の喜びを多くの人に伝えていく大乗利他の実践が大切であると述べました。
釈尊が悟りを開いた日とされる12月8日、応現院(東京都立川市)では「成道会」が行われました。成道会は、臘八会(ろうはちえ・臘=12月の意)ともいわれ、降誕会(釈尊誕生)、涅槃会(釈尊入滅)とともに三仏会として釈尊へ感謝を向ける大切な法会です。
導師を務めた苑主・伊藤真聰は、法要後、釈尊が悟りを開かれた様子を分かりやすく説明し、悟りを開いた釈尊が天部の神の勧めでその悟りを多くの人に説いた(初転法輪)ことから、私たちも釈尊に学び、自分の喜びを多くの人に伝えていく大乗利他の実践が大切であると述べました。
時報592
仏祖釈迦牟尼如来の事跡のうちでも、降誕、成道、初転法輪、入滅は最も重視され、これらにまつわる場所は、聖地として仏教徒に崇められてきました。
中でも、釈尊が無上の正覚を聞かれた聖地には、高さ五十二メートルの大塔が菩提樹と金剛宝座の東側に建てられていて、現在では世界各国から多くの参詣者が訪れ、敬虔な祈りを捧げています。
この場所について、南伝阿含の中部経典には「私は善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガダ国を遊歴し、ウルヴェーラーのセーナー村に入った。そこは愛すべき地域であり、麗しい森林、清らかなネーランジャラー(尼連禅)河、よく築かれた美しい堤、豊かな村落があった。そこに私は坐した。ここは修行に適すると思ったからである」と、釈尊の回顧が記されています。
この辺りはガヤーの町から十三キロ程の近さで、そこで仏陀が悟りを聞かれたので、ブッダガヤーと名付けられ、現在も経典の叙述とさほど変わり無い光景が残されているということです。
ここの森で六年、釈尊は激しい苦行に身を責めやつしたのち、苦行を離れて、スジャータの供養を受けられたのです。そして尼連禅河にほど近い、一本の菩提樹の下で不動の祈りに入りました。触地降魔の密印に呼応して護法の地神が湧出し、魔の軍勢は降伏され、十二月八日の未明、この座(金剛宝座)において釈尊はついに無上菩提を体得されたのです。
それから数週間、仏陀はこの近辺に留まって瞑想を続け、悟りの境地を楽しみ、内容を整理して、人々に正法を説く決意を固められました。そのおり激しい風雨が続くと、仏陀の身を案じたムチャリンダ竜王は、世尊の体を七重にとぐろ巻きにし、その頭上に大きなあごで覆いをつくって「世尊に寒雨が来ないように」とお護りしたことが経典に記されます。そのお相を伝えるのが写真の仏像です。
釈尊は晩年「修行完成者はここで無上の完全なる悟りを聞かれたーーと言って信仰のある人々が訪ねて見て感激する場所がある」と説かれ、後世の人々が仏陀のお相を想い起こして、心の浄められる四大聖地の一つに挙げておられます。
紀元前三世紀に、アショーカ王はこの聖菩提樹に参拝、供養し、塔を建立していますが、これが王の「法の巡行」の始まりとされ、以来、国中に仏教に基づく統治を浸透させていきました。六三五年には、玄奘{げんじょう}三蔵もここに参詣して大塔を拝したことを記しております。
十三世紀になってイスラム勢力により数々の仏像、塔廟が破壊された時、この地の仏教徒は精舎一帯に土を盛り、丘のように偽装して後世に遺すべく仏跡を護ったと伝えられます。それは仏祖の歩まれた聖道を心に刻み、その霊気に接して信心を深めることのできる聖地だからに他なりません。残念ながら僧伽{サンガ}は絶え、永く荒れたままでしたが、一八八〇年代に発掘、復元されて、今日私たちも釈尊の芳跡を拝することができるのです。
仏祖釈迦牟尼如来の事跡のうちでも、降誕、成道、初転法輪、入滅は最も重視され、これらにまつわる場所は、聖地として仏教徒に崇められてきました。
中でも、釈尊が無上の正覚を聞かれた聖地には、高さ五十二メートルの大塔が菩提樹と金剛宝座の東側に建てられていて、現在では世界各国から多くの参詣者が訪れ、敬虔な祈りを捧げています。
この場所について、南伝阿含の中部経典には「私は善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガダ国を遊歴し、ウルヴェーラーのセーナー村に入った。そこは愛すべき地域であり、麗しい森林、清らかなネーランジャラー(尼連禅)河、よく築かれた美しい堤、豊かな村落があった。そこに私は坐した。ここは修行に適すると思ったからである」と、釈尊の回顧が記されています。
この辺りはガヤーの町から十三キロ程の近さで、そこで仏陀が悟りを聞かれたので、ブッダガヤーと名付けられ、現在も経典の叙述とさほど変わり無い光景が残されているということです。
ここの森で六年、釈尊は激しい苦行に身を責めやつしたのち、苦行を離れて、スジャータの供養を受けられたのです。そして尼連禅河にほど近い、一本の菩提樹の下で不動の祈りに入りました。触地降魔の密印に呼応して護法の地神が湧出し、魔の軍勢は降伏され、十二月八日の未明、この座(金剛宝座)において釈尊はついに無上菩提を体得されたのです。
それから数週間、仏陀はこの近辺に留まって瞑想を続け、悟りの境地を楽しみ、内容を整理して、人々に正法を説く決意を固められました。そのおり激しい風雨が続くと、仏陀の身を案じたムチャリンダ竜王は、世尊の体を七重にとぐろ巻きにし、その頭上に大きなあごで覆いをつくって「世尊に寒雨が来ないように」とお護りしたことが経典に記されます。そのお相を伝えるのが写真の仏像です。
釈尊は晩年「修行完成者はここで無上の完全なる悟りを聞かれたーーと言って信仰のある人々が訪ねて見て感激する場所がある」と説かれ、後世の人々が仏陀のお相を想い起こして、心の浄められる四大聖地の一つに挙げておられます。
紀元前三世紀に、アショーカ王はこの聖菩提樹に参拝、供養し、塔を建立していますが、これが王の「法の巡行」の始まりとされ、以来、国中に仏教に基づく統治を浸透させていきました。六三五年には、玄奘{げんじょう}三蔵もここに参詣して大塔を拝したことを記しております。
十三世紀になってイスラム勢力により数々の仏像、塔廟が破壊された時、この地の仏教徒は精舎一帯に土を盛り、丘のように偽装して後世に遺すべく仏跡を護ったと伝えられます。それは仏祖の歩まれた聖道を心に刻み、その霊気に接して信心を深めることのできる聖地だからに他なりません。残念ながら僧伽{サンガ}は絶え、永く荒れたままでしたが、一八八〇年代に発掘、復元されて、今日私たちも釈尊の芳跡を拝することができるのです。
〈2010.02.15〉
2月15日は、大聖釈尊が45年間の説法を終えて般涅槃(はつねはん=入滅)された日と伝えられます。各仏教寺院では般涅槃の様子が描かれた涅槃図を掛け、釈尊が遺言として心と行いの規範を説いた「遺教経」(ゆいきょうぎょう・)などを読誦して法会が行われます。
釈尊最後の教え「大般涅槃経」を所依の経典とする真如苑でも、釈尊のご高徳を讃える「涅槃会」の法要を苑主・伊藤真聰導師のもと応現院(東京都立川市)において厳修。“曼陀羅の間”には開祖の祖山、真言宗醍醐派総本山醍醐寺より奉納された涅槃図が荘厳されました。
法要では開祖謹刻の大涅槃尊像の尊前で、釈尊が在家信者の青年純陀から最後の供養を受けられたことが記されている「大般涅槃経・純陀品」を全員で唱和。参座者は釈尊より遺言の教えを今まさに拝聴する思いで約2500年の昔に思いを馳せました。
2月15日は、大聖釈尊が45年間の説法を終えて般涅槃(はつねはん=入滅)された日と伝えられます。各仏教寺院では般涅槃の様子が描かれた涅槃図を掛け、釈尊が遺言として心と行いの規範を説いた「遺教経」(ゆいきょうぎょう・)などを読誦して法会が行われます。
釈尊最後の教え「大般涅槃経」を所依の経典とする真如苑でも、釈尊のご高徳を讃える「涅槃会」の法要を苑主・伊藤真聰導師のもと応現院(東京都立川市)において厳修。“曼陀羅の間”には開祖の祖山、真言宗醍醐派総本山醍醐寺より奉納された涅槃図が荘厳されました。
法要では開祖謹刻の大涅槃尊像の尊前で、釈尊が在家信者の青年純陀から最後の供養を受けられたことが記されている「大般涅槃経・純陀品」を全員で唱和。参座者は釈尊より遺言の教えを今まさに拝聴する思いで約2500年の昔に思いを馳せました。
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