真如苑 (関連用語・比較説明、行事予定等)


涅槃と救い(ねはん すくい)

涅槃とは 

時報317
寒修行も明けて、この二月十五日は二五〇〇年の昔大聖釈尊が、般涅槃(にゅうめつ)し給うた日に当たり、その「大般涅槃経」典をもって所依とする私ども真如教徒には殊の外、意義深い月と申せましょう。そこで今回は、涅槃(ねはん)について真意をたずねてみました。

涅槃の意味


涅槃はニルヴァーナ(Nirvana(梵))の訳で涅槃、減度、円寂、不生不滅などと言われます。その意味は、ニルヴァーナの語源から、吹き消すことを指し、転じて貪瞋痴の妄炎を吹き消すこと、また吹き消した状態を言うものとなったとされております。

そして、“般涅槃の由縁”にも触れましたように、吹き消す意味から涅槃、即釈尊の入滅―“死”そのものとも理解されて、わが国では古来釈尊入滅の2月15日を涅槃会(え)とし、涅槃図を掲げ、仏遺教経を誦して釈尊の死を偲ぶ法会が各宗寺院にて営まれ、民俗行事として、人々の心に深く浸透してきました。

涅槃の真意


さて、涅槃は、こうして一般に理解される観念的表面的解釈に止まらず、元来、智慧が完成するさとりの境地を意味し、“迷妄を脱して真理を極め、寂滅無為の法性を極めて、不生不滅の法身如来に一如する意である”(一如の道)とされております。
つまり、仏教の最終理想、最高の悟りこそ「涅槃」であり、そして釈尊は大般涅槃経にその窮極の真理を明示され、同時に如来は同聖典に常住すると説き遺され給うたのであります。

さとりへの歩み


しかし、この悟りの境涯、常楽我浄の境地は、学問的に究明して理解できるものではなく、『純陀の供養』に象徴されますように、利他大乗の実践行を貫き通すところに開かれる安心立命(あんじんりゅうみょう)の世界と申せましょう。

人は誰も仏性をもちながら、それが三毒煩悩に覆われて、悩み苦しみの淵に陥ちこむ結果を招くのですが、まさに今日、この涅槃真法を摂受して成った真如教法にあっては、誰もが自ら具有する仏性を磨き、み仏の説かれるところの文字や言葉に表わし得ない深甚微妙な境涯を身を以って覚る――体解(たいげ)することができるのであります。

これ偏に、現世に涅槃の法門を開かれた真如双親さまのおん徳力と、摂受院さま、両童子さまの霊界よりの、ご冥護が渾然一体となって敷かれた、常楽歓喜の道であり、とりわけ、苑独自の修法“接心修行”によって、そうした顕幽一如の理のもと、私どもは真の幸福へと導いていただけるのであります。
光明に充ちた心の世界こそこの世における歓喜世界であり、永遠に苦しみのない常楽我浄の世界である。(接心語)

現世に仏土建設


こうしてある真如教法。双親さま、両童子さま四〇年を越える積年の衆生済度の尊きご足跡の上に、今や、発祥精舎円満荘厳が着々と進められております。外でもなくこの荘厳は、三輪身満足、三密成就を目指す完き荘厳であり、これこそ至極の真理(みち)、涅槃のみ教えにふさわしい精舎顕現であれば、真如教徒の私ども、正法を念じ自らの菩提荘厳にと取り組ませていただき、さらに、双親さま希(ねが)われるところ、完き幸せ・涅槃の境涯を、一人も多くの人々の心中に活現してまいりましょう。
 



涅槃とは  (一般的解説) 辞典・ウィキペディア

救い(宗教的救済)

この項目では、宗教的救済について記述しています。法律による救済については「法的救済」を、鎌倉時代末期の連歌師については「救済 (連歌師)」をご覧ください。
救済(きゅうさい:英語: salvation)とは、ある対象にとって、好ましくない状態を改善し、望ましい状態へと変えることを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態の改善が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。様々な宗教で極めて重要な概念であり、救済を強調する宗教は救済宗教とも呼ばれ、救済宗教」で通常「救済」という場合は、現世の存在のありようそのものが、生及び死を越えた存在領域にあって、何らかの形で決定的に改善されることを表すのが一般である。
キリスト教における救済

キリスト教神学においては特に「救済論」(soteriology)の中心概念である。キリスト教は典型的な救済宗教で、キリスト教における救済とは、キリストの十字架による贖いの功績に基づいて与えられる恵みにより、信仰による罪の咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあって神の恩顧を得、永遠の命に与ることである。永遠のいのちは、時として、生物的ないのちとは種類を異にする、この世にあって持つことのできる霊的ないのちとも解釈できる。
ローマ・カトリック教会においては、罪は犯したが償える可能性の残っている者は煉獄に送られるとされる。
また、未来において世界が終末を迎えたとき、神が人々を裁くという最後の審判の観念もある。その時混乱の極みにある世界にイエスが救世主として復活し、王座に就くとされる。死者達は墓の中から起き上がり(伝統的に火葬しなかったのはこの時甦る体がないといけない為)、生者と共に裁きを受ける。信仰に忠実だった者は天国へ、罪人は地獄 (キリスト教)へ、世界はイエスが再臨する前に一度終わるが、この時人々は救済され、新しい世の始まる希望がある。(千年王国)
グノーシス主義における救済

グノーシス主義における救済とは、反宇宙的二元論の世界観より明らかなように、悪であり暗黒の偽の神が支配する「この世」を離れ、肉体の束縛を脱し、霊として、永遠の世界(プレーローマ)に帰還することを意味する。グノーシス主義では悪が肉体を形作るものの、善もまた人の体に光の欠片(魂)を埋めたという神話もある。信者は死ぬとき真の神なる父を自覚し、プレーローマへ帰ろうとするが、悪(アルコーン達)の妨げる重囲を突破しなければならない。この過程は全体から見れば、光の欠片の回収でもある。
仏教における救済

仏教は元々、個々人の輪廻の鎖を断ち切り悟りを得ようとする営みから始まったものなのだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。
また弥勒信仰もあり、これは56億7000万年後に降臨するとされるが、救世主願望の面が強い。事実平安時代には釈迦入滅後末法の世が到来するという不安に戦乱も重なり、終末の後の救済を求める人心を反映してか浄土教が浸透していった。
関連項目

救済宗教
霊−魂−肉体
キリスト教−天国
救いの順序
信仰の確証
信仰−原罪
グノーシス主義−プレーローマ
グノーシス−悪
仏教−涅槃
悟り−無明
ストア哲学−アタラクシア
救世軍(salvation army):salvationに対して「救済」ではなく「救世」の語をあてている
救済土木事業
フィランソロピー
チャリティー
救世主
ウィーン宣言及び行動計画

涅槃


涅槃 (ねはん)

この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那(ねはんな)などとも音写される。漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した。また、サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。

ただし、南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。

概説


涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。
釈迦が入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた。
  • 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
  • 灰身滅智、身心都滅とするもの
  • 善や浄の極致とするもの
  • 苦がなくなった状態とするもの
などである。
有余涅槃

涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。
有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な解脱であると、仏弟子たちは見たのである。

このような「さとり」が灰身滅智、身心都滅である。灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。身心都滅(しんしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。このことから、これらは一種の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。
ナースティカ
ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。
この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。

このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。
二転依の妙果

この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。
涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という

以上のように「さとり」は、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とする。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説く。「さとり」は常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。
関連項目

涅槃会
涅槃図
涅槃仏
大般涅槃経
涅槃原則 - 精神分析学の概念。
涅槃交響曲 - 黛敏郎作曲の交響曲。
ニルヴァーナ

涅槃寂静

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違うことを示す。
この言葉は、『雑阿含経』などには、涅槃寂滅(パーリ語:nibbaana-vuupasanna、निब्बान वूपसन्न)、『大智度論』には涅槃実法印などと出てくる。「涅槃寂静」と言う用語が登場するのは、『瑜伽師地論』である。
なお、漢字文化圏では10-24を示す数の単位としても用いられる(#単位としての涅槃寂静を参照)。

涅槃寂静 概説


諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。
無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。『大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、真の「常楽我浄」があるとする。

無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。

仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な利他活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして法印といわれるのである。


参考リンク

参考検索

Googleで検索Google:涅槃:
Baiduで検索Baidu:涅槃:
Yahooで検索Yahoo:涅槃:



真如苑Pedia::メイン

Wiki内検索

images


メンバーのみ編集できます