斬風のウルリック 第五章:雪花散華 前編

作者:K・H


人の感性に千差万別はあろうとも、万人がほぼ同一に認める高揚感、幸福感がある。
それが、春の訪れと呼ばれる現象である。
まだ所々雪の残った草地を萌葱色の若葉が覆い、彼方に見える山並は、暖かな日の光を浴びて、冬の間に見せていた厳しさを幾分か和らげたようであった。
小高い丘の上を、三十頭程の羊を連れた羊飼いが歩いていた。
よく澄んだ水色の空には、小さな雲の一つ二つがのんびりと漂うばかり。
若草の生い茂る丘の上は広々としており、風の遊び場となっていた。
牧羊犬を傍らに置いて、その羊飼いも草地に腰掛け、目の前で若草を食む羊達の様子を、和らいだ面持ちで見遣っていた。
目の前に広がる全てが、押並べて平穏であった。
この時までは。
暖かなそよ風の合間に、突如、一陣の烈風が切れ込んだ。
同時に、一個の巨大な影が、草地をさっと走り抜けた。
毛繕いをしていた牧羊犬が、不意に身構え、唸り声を上げる。
「おい、どうし…」
言い掛けて、羊飼いは気が付いた。
普段は温和な牧羊犬の眼差しは、頭上の一点に向けられていた。飼い慣らされて尚残る野性の片鱗であろうか、その両眼から迸る光は、本能的な面から来る敵意と戦慄とが交じり合い、極度に混乱した色合いを発散させている。
頭上を振り仰いだ羊飼いの目にも、それは映った。
いや、映らぬ筈も無いであろう。
彼の目で見て、実に、空の大半を覆っていた巨影。
不吉な羽音と共に、死んだ風が轟々と打ち寄せて来る。
背にした蒼穹よりも深く暗い蒼を身に纏う、それは、全身を蒼鱗で覆った雄火竜だった。
逃げなければ!
まるで暗示のように、羊飼いの脳裏でその思考が雷光と化して走ったのと同時に、宙を羽ばたく蒼火竜は、矢庭に口を押し広げた。
その口元に、ほんの一瞬、燃え盛る炎の輝きが見えた直後、爆音と爆風と閃光が、一緒くたになって羊飼いを突き飛ばした。
何度か草地を転がり、やがて止まって、羊飼いはうつ伏せのまま顔を上げた。
黒煙が、若草の大地を覆っていた。
瞬時にして焦土と化した草地は鼻を突く臭いを放ち、所々、切れ端のような火を燻らせている。
爆音によって耳が遠くなっていたのは、不幸中の幸いであったろう。
炎を浴びて焼け爛れ、死に掛けた無数の羊達が銘々に放つ末期の呻き声を、羊飼いは、遂に聞く事が無かったのだから。
それら脆く醜い弱者達の上に、飛竜は堂々と降り立った。
黒い翼膜を畳み、蒼火竜は、己が作った焦土の中心に立つ。
倒れ伏す者達の嘆き、怒り、憎しみ、自身に向けられる諸々の負の感情をも、鱗一枚一枚の表を飾る光沢の一つとしてしか捉えず、それは誇らしげに胸を反らす。
そうして、黒き翼を持つ蒼火竜は、揺るぎの無い雄叫びを放った。
この年の春は、正に最悪の形で幕を上げた。

そこは、朝の景色の中であった。
明るい木漏れ日に照らされた木立の中に、ウルリックは佇んでいた。
その手に、一本の木剣を抱えて。
「何だこりゃ? また随分と、でかい枝を拾って来たもんだな」
太い声が、景色一杯に広がった。
「長い物を短くするのは簡単だろうに、こんな長枝をそのまま持ってくるとは、上手くやった積もりか?」
いつの間にか傍らに現れたアガレスが、億劫そうに息を吐いた。
ややあって、壮年の偉丈夫は、こめかみの辺りを一頻り掻いた後、欠伸を交えて言った。
「…ま、いいか。いい機会っちゃあ、そうかも知れん。今日は特別だ。太刀の基本的な扱いだけ教えてやるよ」
言って、アガレスは、長めの木剣を構えたウルリックの姿勢を、あれこれと注文を付けながら正して行く。
やがて、木剣の風を切る音が、朝日差し込む林の中に染み渡って行った。
真摯に木剣を振り下ろすウルリックの、未だ少年の域を出ない面差しが、不思議と、朝日の中で鮮明に浮かび上がっていた。

その手に握った太刀を、ウルリックはじっと見つめていた。
幾年もの年月を経て、使い込まれた刀身には細かな傷が目立ち、それが光を微妙に乱反射させて、独特の銀光を放っている。
窓から白い光の差し込む昼下がり、屋外からは、子供達の歓声が微かに聞こえて来る。
床に座り込んだウルリックは、手元の向きを変え、刀身から鍔、そして柄の方へと、順次目を通して行った。
じきに、その目線が剣の柄の端にまで辿り着くと、漆黒の双眸に、弱い光が唐突に浮かんで消えた。
日の光に朧に浮かび上がる、白い薔薇の紋章。
それを見つめる内、ウルリックの眉間には、浅い皺が刻まれて行った。
かつて、身近な力の象徴であったその紋は、手にした途端、決して消えない罪の印となって、長く彼を苦しめていた。
雪の薔薇の名に相応しく、掴めば後は溶け消えるのみ。
過去、アガレスが何を思って、この剣に雪の薔薇の銘を与えたのか、今となっては知る術も無い。
軽くかぶりを振って、ウルリックは立ち上がった。
何故、今もこの剣を振るうのか?
あの日から、影法師となって常に付き纏う疑問を振り払うかのように。
違う道を選ぶ事も出来た。しかし、自分はここに残った。
それだけの事。
脳裏でいつもの回答を反芻すると、ウルリックは部屋の戸を開けた。
適度に湿り気を含んだ春の風が、ウルリックの、無愛想に固まった面皮に吹き付けて来た。
だが、彼は煩わしげに顔を顰めるばかり。

昼下がりの集会所は混雑していた。
通常、一日の運びとして、この時間帯は、朝方に狩りへ出た者が帰り着くのと、依頼の確認に訪れる者達が屯するのとが重なって、大勢の人間で賑わう事がしばしばである。
周りにいる者達と同じく、具足を付けていないウルリックは、掲示板に張り出された依頼の確認、選別に訪れていた。
掲示板の前は、いつもと変わらず多くの狩人達が人垣を作っていた。
人によっては、こうして掲示板を眺める時が最も楽しいと言う。
張り出され、公募された数々の依頼を眺める内、依頼主の様子や報酬金の使い道などの徒然なる事に、自ずと考えが巡って行くからだろう。一種の白昼夢のようなものと呼べるかも知れない。
夢が夢である間は、それも楽しかろう。
但し、夢の先に待つ現実が、常に願った結果と同一であるとは限らない。
俄かに、集会所の内がざわつき始めた。
建物の外から、人の騒ぎ声が聞こえて来る。
程無く、掲示板の横手にある通用口から、新たに帰還した一団が入ってくる。
主に物資の搬入出に用いられ、村の外へも繋がっている事から、狩場へ行く者達の出入りにも使われる通用口をこの時潜ったのは、帰還したばかりの、傷だらけの狩人達であった。
文字通りの満身創痍、腕を吊るす者、足を引き摺る者、仲間の肩を貸して貰う者、誰もが散々な出で立ちで、通用口の外から姿を現した。
最後の一人に至っては、居合わせた他の狩人達によって、担架に乗せられて運ばれて来る始末である。
怪我の位置や程度は様々だったが、唯一つ共通していたのは、誰もが体の何処かしらに焦げ跡を付けていた事だった。
不安と軽い恐慌の混じったざわめきの中で、担架に担がれた重傷者は村の医局へとそのまま運び出され、他の怪我人も自分の足でそれを追う。
ただ、一行の長らしき男だけが、報告の為、一人、集会所に残った。
酒場から持ち出された長椅子に腰掛け、その男は、切れ切れに事の顛末を伝えた。
それは、蒼い飛竜と遭遇し、そして壊走するに至るまでの苦い経緯であった。
水を差し出し、心配そうに聞き届ける集会所の主人の周りには、自然と野次馬が集まって来る。
その中には、ウルリックの姿もあった。
取り巻く観衆の見つめる先で、その男は吐き捨てた。
あれは化物だ、と。
化物。
狩りの対象たる飛竜を形容するに、これ程陳腐で、月並みで、使い古され、独創性の欠けた表現も無いであろう。
だが、つい今しがた、命辛々死地から逃げ帰って来た者の口にしたその単語には、言葉自体が単純であるが故に、余計に底の知れぬ恐怖が潜んでいた。
只ならぬ雰囲気に、聴衆の間からも、憶測推測が小声で遣り取りされる。
場のざわめきが高まった頃、新たに別の男が、集会所の内へ駆け込んで来た。
先程、担架で運ばれた男が息を引き取った。
その訃報が広まると、それまでのざわめきは忽ち鎮まり、仲間であった生き残りの男は、がっくりと肩を落とした。
居心地悪そうに、それぞれに視線を向け合う野次馬の中で、ウルリックは、項垂れた男の背を暫し見つめていた。
背後からでは、陰になった男の表情は判らなかったが、全身から滲み出る気配には、一瞬にして数十年の歳月が降り掛かったかのようであった。

情報の収集も、狩猟生活には欠かせぬ要素である。
故に、狩人の群れ集う所、必然的に新鮮な話題が取り交わされ、市井からの情報の集積、分析、そして市中への再公表という役割を果たしていた。
その中で、特に最近の話題で持ち切りとなっているのは、何処からか現れた、蒼い鱗を持つ雄火竜の噂であった。
深い蒼を湛える体表は稀少種の証。
遠い昔、それこそ伝説にまで遡らねば確たる目撃例の乏しい飛竜の事、人の口の端に昇らぬ筈も無かった。
尤も、それらの多くは、憧憬めいた噂話ではなく、出自も知れぬ疫病神が及ぼした、微少ならざる実害についての、嘆息交じりの報告であったが。
この日、集会所に戻ったウルリックを待っていたのも、そうした悲愴な報告の追加であった。
別の依頼をこなし、数日振りに集会所へ戻ったウルリックは、通用口を潜るなり、代わり映えのしない場の雰囲気を読み取って、鼻息をついた。
何処そこの村落が焼かれた。
通り掛かりの隊商が全滅した。
討伐に出た一団が、またも壊滅した。
この頃になると、かつての悲壮さや義憤はすっかり鳴りを潜めており、ただ、諦観の上塗りされた淡白な報告が、疲れた同業者同士の間を行き交うだけだった。
これはもう、『銀竜殺し』に頼むしかない。
そんな声も聞かれた。
だが、折の悪い事に、件のザノスも、別件の依頼で、長らく遠くの地へ旅立ってしまったとのだいう。
結局の所、溜息ばかりが、借用書のように積み重なって行った。
そんな、湿り、ぬかるんだ場の空気に、ウルリックが些か辟易した頃、集会所の隅の方で、耳障りな大声が上がった。
「どういう事なの? たかが一匹の飛竜相手に、これだけ雁首を並べて、未だにどうにも出来ていないなんて!」
女の声であった。
たまたま通り掛かったウルリックは、酒場の仕切りの角から顔を覗かせ、声の元の様子を見遣る。
牙を剥く野良猫のような叫び声は、集会所の片隅に立つ、一人の女が発していた。
亜麻色の髪を腰の辺りまで伸ばし、全体的に細身の体格の、この場に全く相応しくない若い女は、カウンターを挟んで、集会所の主人に食って掛かっている。
「あなた達半獣人にも、一応誇りのようなものはあるでしょう。たった一匹の飛竜の所為で、数多くの無辜の民に謂れの無い災いが降り掛かっている最中に、何をしようとも思わないの?」
「いやさ、お嬢さん、こっちとしても、善処はしてるんだかね…」
恰幅の良い、中年の域を幾つか過ぎている集会所の主人は、口角泡を飛ばして捲くし立てる若い女へ、ほとほと扱いかねた様子で言葉を返した。
「それに、狩猟ってのは福祉事業じゃないんだ。俺も、後ろにいる連中も含めて、然るべき契約を結び、然るべき報酬を約束された上で、初めて事態に対処するもんさ。そう無闇にがなり立てられてもねぇ…」
「判っているわよ、あなた達の行動原理なんて!」
一際大きな声で、女は怒鳴り散らした。
興味半分、そして呆れ半分で見物する野次馬達の視線の交わる先で、その女は、毅然と要点を告げた。
「だから、私はここに来たの。領民の切なる嘆願を汲み取り、本日付を以って本件の依頼に係わる全ては、ヴァンシール王国が一切の責任を請け負う事となりました! 判る? 国が依頼主になったのよ? 報酬だって、今までより割増にしようと言ってるの。こうすれば、是が非でも飛び付くのが、あなた達の性というものでしょう?」
「…ひでぇ…人を、お預けくらってた犬みてえに…」
観衆の誰かが愚痴を漏らしたが、女は構わず続けて行く。
「これは、ヴァンシール王国特使としての正式な要請です。速やかに、領地の平穏を脅かす飛竜を征伐なさい」
「簡単に言ってくれるなぁ…」
集会所の主人は、丸みを帯びた頬を、更に丸く膨らませた。
「周辺の集会所は勿論の事、うちからだって、もう何組もの腕自慢が竜退治に出てるんだよ。にも係わらず、五体無事で帰って来た奴は、まだ一人としていないんだ。残念ながら、一筋縄じゃ行かない相手らしくてな。まあ、あんたら宮仕えの人間は、どうせ現場の事情なんざ知りゃしないんだろうが…」
「知ってるわよ」
「…ええ? 何だって?」
突き放す口調で端的に応えた女へ、集会所の主人は怪訝な顔を向ける。
「知ってるって言ったの。多分、あなた達の誰よりも、あいつの恐ろしさは、身に染みて知っている…」
そう言った女は、語尾を微かに震わせた。
束の間、目線を下に落としていた女は、やがて顔を上げ、困惑気味の表情を浮かべる集会所の主人を見つめる。
「…黒い翼膜を持つ、蒼い色の飛竜でしょう?」
「…あ、ああ、確かにそうだが…よく知ってたな、そんな細かな特徴まで…」
「前に見た事があるもの」
先程までとは異なり、憂いを内に含んだ声で、女は言った。
「私が、わざわざ特使に志願したのも、それを確かめたかったから。闇色の翼を持つ蒼い飛竜…私の国を滅ぼした飛竜…」
遠くから、両者の遣り取りを眺めていたウルリックは、女の最後の一言を聞いて、ふと眉を顰めた。
そんな彼の目線の先で、女は徐に顔を上げる。
碧眼が、日差しに輝いた。
白い面差しが、窓越しの薄明かりに浮かぶ。
自身が蛇蝎の如く嫌う狩人達の中にあって、ルハリ・クリムヒルトは、毅然とした姿勢を保ち続けていた。

国を、家族を失った過去を思い起こしてか、少しの間沈黙を守っていたルハリだったが、程無く、その勇まし過ぎる口を再度開くと、舌禍の元を吐き出して行く。
「まあ、私の事など、この際どうでもいいわ。今の私の役目は、怠慢極まるあなた達の対応を是正し、可及的速やかに災いの芽を摘ませる事。王命を伝える勅使の義務として、その尻を蹴飛ばしてでもね」
もっと他に言い方は無いのかよ、と、集会所の主人は渋面の下で思った。
聴衆の間でも、やはり同様の囁きが交わされる。
「あれの何処が王の使いだってんだ? 高利貸の行状と大差ねえじゃねえか」
「いや、ありゃむしろ人買いに近いな。農村の娘を引っ張ってく所を見てるみたいだぜ」
そうした不評が耳に届いたか、ルハリは不意に振り返ると、ぎょっとした面持ちを並べる狩人達へ、朗々たる声を浴びせ掛けた。
「あなた達はどうなの? こんな所で油を売っていないで、少しは世の為人の為に役立って来ようとは思わないの? ああ、それとも、他の誰かの為に、なんて発想自体、生まれてからこのかた、一度たりとも持った事が無いのかしら?」
高飛車な物言いに、居並ぶ狩人達の殆どは不満を覚えたものの、敢えて反論する者は現れなかった。問題の飛竜が近隣の脅威となっている事は事実であったが、既に多くの同輩が、無残にも返り討ちに遭って来た事も、拭いようの無い事実であった。
畢竟するに、目前の小生意気な勅使に意見する事で、自分が難敵の討伐に駆り出される事態に陥るのを、誰もが疎み恐れたのである。
相手方のそこまでの心理を見透かしていたかどうかは兎も角、そうした狩人達の煮え切らない態度は、ルハリを余計に調子付かせる結果となった。
「情けないわね。同じ事を王国の騎士団の中で訊ねれば、挙手の数で天井が隠れてしまうでしょうに。これが分相応という奴なのかしらね。超えられない壁、人間としての質の差というものよ」
軽口もここまで来ると、督促と言うよりは、単なる罵詈雑言であった。
流石に臨界を迎えたか、前列に立つ何人かが、殺気立った視線をルハリに向け始めた。
「おい、あんた、いい加減に…」
渦巻き始めた不穏な空気を察し、集会所の主人が諌めの言葉を掛けようとする。
しかし、それよりも早く、別種の声が、澄まし面で胸を張るルハリの元へ投げ掛けられた。
「俺が引き受けよう」
正しく、池の水面に投じられた一石の如し。
その一言は、集会所にいた全ての人間の注意を残らず集め、何十もの視線が、一斉に声の主へと向けられた。
一同の後ろ、壁際に寄り掛かったウルリックへ、皆の視線が交差する。
「あいつは…」
「…ほら、言わずの…」
小雨の雨音のような、ひそひそとした囁きが生まれる中、集会所の主人が、一人、安堵と不安の混じり合った顔を上げていた。
集会所の主人は、唐突に現れた時の氏神へ向け、多くの人間の頭越しに問い掛ける。
「引き受けるって、請け負ってくれるのかい? 蒼竜退治を?」
「その積もりだが」
「失礼だが、あんた、その、他に連れは?」
「仲間なら、いない」
「いない?」
ウルリックの素っ気無い返答に、だが、集会所の主人は大いに慌てふためき、すぐさま言葉を返した。
「ちょっと待ってくれよ。あんた、たった一人であの飛竜と闘おうってのか? 無茶だ、そんな…」
「他に候補がいない以上、単独だろうが何だろうが、優先権は俺に回る筈だが」
好奇や冷やかしの眼差しが集まる中、壁に寄り掛かったウルリックは、腕組みをして正論を述べた。
すると、それまで事の次第を興味津々に眺めていたルハリが、囃し立てるように言った。
「あら、いいじゃない。折角、こうして申し出てくれた人がいたんだから。真に遺憾ながら、あそこの村の集会所には、胆の据わらぬ半端者ばかりが集まっておりましたと、国王陛下に謹言する事態だけは避けられた訳だし。尤も、この先の結果がどうなるかは知らないけど」
またしても癇に障る事を言われ、狩人達の何人かが、小憎たらしい勅使を睨む。
ウルリックは壁から背を離し、所在無さげに戸惑っている集会所の主人、及び、事態の思わぬ成り行きを面白半分に見入っている観衆に呼び掛けた。
「正式に申請する。この仕事は一切俺が一人で行なう。助太刀は無用だ。不平不満がある者は、今この場で申し出て貰おう」
思った事を思うさま口に出せないのが、人間という生き物である。
それまで小声で揶揄を交し合っていた野次馬も、ウルリックの眼光を浴びた途端、呼吸さえも詰まらせて黙り込んだ。
油が冷え固まって行くようなぎこちない沈黙は、それを強いられた人間には、随分と長く感じられた。
やがて、
「話は付いたな」
それだけを言うと、ウルリックは徐に歩き出した。
「四日後に発つ。それまでに、手続きを済ませてくれ」
自然と道の作られて行く人垣を渡り、太刀を負ったその背は、集会所の正面玄関から外へと消えて行った。

桜の咲き始めていた時期だった。
集会所の建物の横にある、太い樹を見上げて、ウルリックは、枝の先に泡立ち始めた、淡い色の花を瞳に映していた。
暖かな春風が、賑やかな色に染まり出した桜の梢を揺らしていた。
と、そこへ、同じく集会所から出て来たルハリが声を掛ける。
「こんな所で突っ立って、早速後悔しているの?」
からかい混じりの声に、ウルリックは、肩越しに一瞥を遣した。
相手の冷めた目線など歯牙にも掛けず、ルハリは冷笑を交えて言い放った。
「格好を付けた積もりなんでしょうけど、中じゃ早くも皆の噂になってるわよ。あなたが、あと何日の間に逃げ出すかって」
対するウルリックは、つまらなそうに応える。
「別に、奇をてらって見せた訳じゃない。あの場合、ああでも言わないと、お前はますます増長して好き勝手な事を抜かし出すだろうし、その先の事なぞ、わざわざ想像したくもなかったのでな。勿論、知らん振りを決め込んで場を離れるという手もあったが、それも何だか不愉快だった」
「結局、成り行きに任せたってだけの事じゃない。だから、あなた達には信用が置けないのよ」
「ふん…」
やはり、つまらなそうに呟いて、ウルリックは、ルハリの方へと体を向けた。
前に出会った時と比べ、幾らか痩せただろうか。だが、意気盛んな面差しと、威勢の良い語気は、確かに、霧の奥で出会った、亡国の公女であった。
かつて、飛竜が原因となった動乱で故国を追われ、この地へと落ち延びた異国の王族。
思い起こせば、彼女は、この土地の領主の元に身を寄せていたのである。
今、こうして顔を合わせるまで、完全に忘れていた事であったが。
「何よ、じっと人の顔を覗き込んで。いやらしい」
口先を尖らせて文句を言ったルハリは、その後、やおら首を傾げた。
「…あら、あなた、何処かで会った事があったかしら?」
「どうだかな…」
ウルリックは、変わらず冷めた視線を遣す。
「…全く、やんごとなき輩というのは、自分が押し付けた恩はいつまでも憶えている癖に、他人から受けた情けはすぐに忘れる…」
「何よ、それ」
僅かに拗ねたような含みのある物言いに、ルハリは眉を顰めた
しかし、ウルリックは、むくれる相手から顔を逸らすと、ルハリをその場に置いて、足早に歩き出した。
離れて行く背へ向け、ルハリは呼び掛けた。
「待ちなさい。何を一人で呟いた挙句、勝手に腹を立てているの? 薄気味悪い。あなたは誰よ?」
「お前の亡命を手助けしてやった者だ。二年と少し前」
「…え?」
「お前の方は兎も角、飛竜に蹴飛ばされたあの爺さんは元気か? ギルドで領主の使いに引き渡してから、お前らの話はとんと流れて来なかったんでな」
ルハリの足が、止まった。
人の行き交う道の只中で、彼女は呆然とした面持ちで、前を歩いて行く狩人の後姿を見つめている。
「じゃあ、あなた、あの時の…」
呟いた後、ルハリは難しい顔をする。
「そう言えば、さっきの集会所でも名前が上がってたっけ…ええと…ウルムナフ!」
「誤解を招くような呼び方をするな。ウルリックだ」
歩みを止めて振り向きざま、当人は声を荒げた。
しかし、直後、彼は、改めてルハリを見遣る。
「…少しは思い出したか?」
「当たり前でしょう」
言ってから、ルハリは唐突に、刺すような眼差しを眼前の狩人へ浴びせる。
「霧の中を、人を散々連れ回したヘマな剣士さん。あなたのお陰で、私もオイクリートも危なく死に掛けたんだから。全く、あれから何度、夢でうなされた事か…」
「その物言いは屈折しているな。死に掛けたのは、飛竜によってであって、俺が何かをした憶えは無い。加えて言うなら、災難に遭ったそもそもの原因は、結局、素人であるお前らの勇み足にあった。どの時点を基点としてみても、その事実は変わるまい」
金属的な、硬く冷え切った解説に、ルハリは頬の筋を引き攣らせた。
「…その人間味の欠片も無い口調…間違いようも無いわね…狩人なんかに知り合いはいないから、当然と言えば当然だけど」
最早取り合わず、ウルリックは、再度歩みを進めた。
「だから、待ちなさいって」
不機嫌そうに肩を揺するその背へ、ルハリも追い縋る。
両者は、表の街道から続く、村の大通りを歩いていった。
数々の商店、露店が軒を連ねる小さな市場の横を通り、ウルリックは、脇目も振らず進んで行く。
それでも、じきに彼は、自分の後をぴったりと付いて来る人影へ、忌々しげに首を巡らせた。
「何処まで纏わり付いて来る気だ。その…マタハリだったか」
「如何わしい名前で呼ばないでよ! 私はルハリ、ルハリ・クリムヒルト!」
憤然とした様子で言葉を返すと、ルハリは、斜め前を行くウルリックを見据えた。
「私にもね、立場上、監督責任てものがあるの。あなたがこのまま行方を眩ませないよう、見張っておく必要があるのよ」
「下らん」
ウルリックが、即座に切り捨てた。
しかし、苛立つウルリックへ、ルハリは、殊更に皮肉るような流し目を送る。
「あなた、本気で、あの飛竜を一人で相手にする積もりなの? あいつはね、昔、私の故郷の騎士達が、三十人近くで束になっても敵わなかった悪魔なのよ?」
「田舎侍が何人で掛かって行こうが、結果は同じだ。大体、頭数だけ揃えれば、飛竜でさえもどうにか出来ると思い込むのは、素人の陥り易い誤った認識だ」
眼前を横切った、薬草売りの女を器用に避け、ウルリックは言い捨てた。
「あら、そこまで断言出来る戦士様が、どうして今まで腰を上げようとしなかったのかしら? 飛竜のもたらす被害自体は、割と早くから報告されていたのでしょうに?」
こちらは薬草売りの女に肩をぶつけ、金切声で非難を浴びせられながらも、それでも以前の口振りは変えずに、ルハリは訊ねた。
ウルリックは、歩調は緩めず、口元を動かす。
「あの手の飛竜の噂を聞き付ければ、まず最初に、売名や一獲千金を目論む奴らが大挙して押し寄せて来る。そういう手合いに混じって申請をするのも疲れるから、暫く傍観を決め込んでいただけだ」
「御立派ね。この村はまだ被害が出てないからいいようなものの、外の世界では、日を追うごとに犠牲者の数が増えているってのに…」
絡み付くような口調に対して、遂にウルリックも足を止め、邪険に言い放った。
「俺は、これが誰かの為になるものと思って、飛竜を相手にした事は一度も無い」
あまりにきっぱりとした言い草に、一瞬、ルハリも目を見張った。
ややあって、
「…そう…」
ルハリが俯き加減で漏らした呟きには、苦いものが過分に含まれていた。
ぴたりと歩みを止め、陰鬱な顔を浮かべるルハリを、些か所在無さそうに見下ろしていたウルリックだったが、彼が新たに何かを言い出すより先に、向こうが顔を上げた。
「…そう言えば、前に会った時は、他にも人がいたような気がしたけど…」
「別れたんだ、色々あってな」
取り合えず元の調子に戻った相手から顔を逸らし、ウルリックは、再び前を向いて歩き出した。
「色々ねえ…」
露骨に胡散臭そうに、ルハリは、先行くウルリックの背を見遣った。
「ああ、段々と思い出して来た…あの、むさ苦しい大柄の男はどうなったの? 丁度、今あなたが背負ってるような奇妙な剣を使ってた、あのお喋りな大男は?」
その質問に、ウルリックの頭が、ぴくりと反応した。
「…アガレスなら、死んだ…」
僅かの間を置いて、それだけを、ウルリックは背中越しに答えていた。
「そんな名前だったかしらね。ふぅん、死んだの…」
ほんの一瞬、ルハリは、目元に陰を落とした。
しかし、それも束の間、彼女はまた、持ち前の勝気な光を瞳の奥に輝かせる。
「…と言ってみても、あなた達の間では、別に珍しくもないんでしょう? 仕事の度に死人が出る事位? 因果応報とでも言うか…」
返答は、無かった。
最早何も語らず、ウルリックは、ただ両の足のみを動かして行った。
歩みに置いても話題に置いても取り残されて、ルハリが口先を尖らせる。
やがて、彼女は、先行く相手の背から道端に視線を逸らすと、気だるそうに唇を開いた。
「でも、お似合いの末路かも知れないわね。思い出すだに腹が立つったらないわ、あの、お節介で鬱陶しい野蛮人。私に意見するのがどれだけ不遜な行ないだったか、今頃地獄で反省してるんじゃないの? 何にした所で…」
それ以上の言葉を紡ぐ事が、彼女には出来なかった。
ものも言わずに振り返ったウルリックの肩がうねるや、獲物を呑み込む蛇さながらの動きで掴み掛かった手が、ルハリの襟元を即座に締め上げていた。
場所は、市場の真っ只中である。
往来を行き交う人々は、男が女を吊るし上げる異様な光景に目を見張り、息を呑む音が、人込みに立つ当事者達の周囲を囲った。
「おい…!」
ルハリの喉元を締め上げたまま、ウルリックは押し殺した声を放っていた。
「もう一遍言ってみろ…!」
片腕一本で爪先立ちの状態になるまで持ち上げられ、ルハリは、息苦しさと恐ろしさの中で、怯えた視線を目前の狩人に送っていた。
これが怒りの彩りというものであろうか。
まなじりを吊り上げたウルリックの形相には、眉や口元が作る以上に、底知れぬ怒気が満ち満ちていた。
林檎が熟れて行くように、ルハリの顔がすっかり紅潮した頃、漸く、ウルリックは、相手の襟元を掴んでいた手を放した。
地面に倒れ込んだルハリの元に、通行人の幾人かが心配して駆け寄った。
咳き込みながら、涙目を持ち上げたルハリの先で、ウルリックは傲然と仁王立っていた。
結局、そのまま何も言わずに、ウルリックは踵を返すと、静まり返った人込みを裂いて歩き去って行った。
集まった人々に無事を呼び掛けられる中で、ルハリは、地面に向けて、再び激しく咳き込んだ。
2007年02月17日(土) 19:40:23 Modified by funnybunny




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